終章(2)

 荷物を背負って、シュマはひたすら草原を登っていく。荷物といっても必要最低限しか入れていないから、背中に収まる程度の小さなものだ。そしてシュマの隣には、ニィがちょこちょこと並んで歩く。
 材木の切り出しなんかで行き交う人数はそれなりにいて、シュマが歩く間にも何人ものすれ違う。旅立ちの話は既に伝わっているのか、しばしば呼び止められて立ち止まることになった。
 でも――時折そんな人通りがふっと途切れる瞬間がやってくる。そうなってしまうと、視界には広がる草原しか見えなくて、耳には風に吹かれるさらさらという音しか入ってこない。ぼんやりと眺める草花の揺れる様はのどかすぎて、だから思わず錯覚しそうになるのだ。ひょっとして今までのことは全部夢で、本当は何も変わらないんじゃないかと――、
「……シュマー! 遅いわよ、そんなとこで油売ってないで早く来なさい!」
 ふいに甲高い少女の声が飛び込んできて、はっと我に返る。視線を上げるとシュマの場所より少し上の方で、トエが仁王立ちになってこちらをにらみ付けている。その横で苦笑しているらしいのはエサン、さらにはひらひらと手を振るエシュナの姿もある。
 まずい、怒らせてしまっただろうか。シュマはいつの間にか止まっていた足を動かし、トエたちの方へと駆け上がっていった。それを、後ろからニィが追ってくる。
「遅い! すごい待ったじゃないの、もう」
 頬を膨らませたトエに迎えられた。確かに待ち合わせの時間は結構過ぎてしまっていた。今更ながら気付いたシュマは「ごめん」と謝りながら、隣の二人に視線を移す。
「エサンとエシュナも来てくれたのか」
「まあな」
「ふふ、おはようシュマ」
 正直、トエだけでなくエサンたちまで見送りに来てくれるなんて思わなかった。忙しくてそんな暇ないだろうと思っていたのだ。
 エサンは翼無き鳥の民の長として籠の復興や両民の協力のために走り回っていたし、エシュナはその片腕のようなもので、二人揃っててんてこ舞いの忙しさだった。
「偶々ちょっと時間ができたのよ。それにメルゥちゃんにも会っておきたかったし、ね」
 エシュナがそっと微笑む。シュマは視線をゆっくりとその背後に向けた。
 そこにあるのは、地面に石を積み上げて固定しただけの簡素な墓標――メルゥの、墓だ。
「随分と村から離れたところに作ったんだな。良かったのか?」
 エサンの疑問に、シュマはこくりとうなずいた。
「いいんだ。ここなら籠が見渡せる――メルゥは籠が大好きだったから」
 「そっか」とエサンの短い返事。そして彼はぽんとシュマの肩を軽く叩いてくる。
「じゃあ、元気でやれよ。危ないことはするな」
「ああ。多分大丈夫だよ……俺一人で行くんじゃないし」
 そう答えるとエサンは笑った。
「そうだな。お前たち二人なら大丈夫か」
「二人じゃないぞ、二人と一匹だ。な、ニィ」
 くぅ、と足下から返事。その頭を軽く撫でてから、シュマは辺りを見渡す。
「ところでさ、その二人のうちの一人が見当たらないんだけど……」
「そこよ」
 問いかけに答えたトエは、どこか憮然とした表情をていしていた。
「え、どこだ」
「だからそこよ」
「……げっ」
 ようやくその存在に気付いたシュマは、思わず小さくうめく。トエの指さした方向、シシュマたちの立つ場所より少し外れて、草の地面に寝そべった人影がある。
 シュマの声が聞こえたのか、おもむろに人影の青い瞳が開かれた。
「げっ、て何だよ。そのヤなもんでも見たような声は」
「だってお前、何やってんだよ……」
 旅立ちの日ぐらい真面目にしてくれ。内心そう漏らしたシュマの気も知らず、どうやら本気で今まで寝ていたらしい少年は、ふわぁと間の抜けたあくびを漏らす。
「しっかたねーだろ。お前がおせーの! いったい何やってたらこんなに遅くなるんだか、あの姉(あね)さんと話すことってそんなにあるか?」
 その勝手極まりない言いぐさに、シュマはため息を漏らしただけで何も言わなかった。自分が遅れたのは事実であるし、ユエンに真面目なんてものを求める方が間違いなのかもしれないし――それに、ようやく元のユエンに戻ってきてくれたのは嬉しいことでもあったから。
 あの火事の日から、ユエンはあまり笑わなくなった。たまに笑ってもどこか影の落ちた笑顔で、最初の頃はシュマはかなり心配していたのだが、少しずつ元の笑顔も増え軽口も言うようになった。元通りとは行かなくても、次第に良い方向に向かっているのだと信じている。
 今回シュマの旅についてくると言い出したのも、ユエンからなのだった。
「……じゃあシュマ、俺たち行くな」
 ようやくユエンが面倒そうに立ち上がった時、エサンの声が聞こえてきた。シュマはユエンを置いてエサンのたちの所へ戻っていく。
「わかった。じゃあ、留守の間籠を頼む。頑張れよ」
「おう、お前もな。……あ、そうだ忘れてた。リシェンから伝言だ。『元気で、また会おう』ってさ」
 リシェンという名前にはっとする。彼ともトイルとも、あの日以来一度も会ってはいない。
「トイルは何か……」
「……いや、何も」
「……」
 トイルは謹慎を申しつけられていると聞く。リシェンはずっとその側に付き添っているのだそうだ。
 いつかトイルとも、わかり合える日が来るだろうか。
「エサン、伝えてくれないか。『またな』って、リシェンと……トイルにも」
 エサンが一瞬だけはっとした表情になり、すぐにふっと笑みを作った。そしてエシュナと連れ添ってゆっくりと草原を下り始める。
 それを見送るシュマの横に、トエが立った。
「じゃあ、私も」
「ああ」
「元気で頑張りなさいよ。無事に帰ってこなかったら許さないんだから」
「わかってるさ。お前も頑張れよ」
「言われるまでもないわ」
 強い言葉とともに、トエは白い裾と赤みがかった黒髪をはためかせてシュマの側を通り過ぎて行く。
 私は次期姉巫女としてこの籠を守る――シュマが旅立ちを告げた時にそう答えた少女は、一度も振り返ることなく村の方向へと下っていった。
 その姿が豆粒ほどの大きさになったところで、シュマはユエンを振り返る。
「じゃあ、俺たちは行くか」
「やっとかよ。待ちくたびれたぜ」
 そう言いながらユエンはもう森へと歩き始めている。慌ててその背を追いかけようとしたシュマだったが、はたとあることを思い出して「あー、ちょっと待ってくれ!」と呼び止める。
「いっけね、忘れるところだった」
 そしてシュマは荷物の中から一つのツァリの冠を取りだし、そっとメルゥの墓標の前に手向けたのだった。
「新しいの作ったんだ。前のはさすがに枯れちまったからな」
「またそれかよ。あいつぜってー二個もいらねって言うぜ」
「そうかな」
「そうだ。決まってら」
 素気ない態度でさっさと歩き始めるユエン。仕方ないな、とため息をついてシュマはもう一度だけ墓標とその前のツァリの花冠に目をやる。
「――じゃあメルゥ、行ってくるな」
 瞬間、シュマの横を風が吹き抜けていった。草を散らしていったその風の中に、気のせいかもしれないが、行ってらっしゃいと笑うメルゥの声が聞こえたような気がした。
 ニィがシュマの側を駆け抜けていく。シュマも急いでユエンの横に駆け寄る。
 並んで、歩き出した。

 (終)