籠庭の詩

終章 巡る籠庭(1)

 巫女殿の広い一室で、シュマは行儀良く正座していた。一番最初にここに足を踏み入れた時は夜だったから、廊下も部屋も暗闇が覆っていて、随分と空気も重々しく感じられたのを覚えている。けれど今は部屋中の窓が開け放たれ、心地よい光が明るく差し込んでいるのだった。光が入るだけでこうも印象が違うものかと、意外な思いでシュマは光の落ちる床を見やる。
 それに、変化はそれだけではない。以前は静まり返っていた巫女殿だが、今は隣の部屋から賑やかな話し声が聞こえてくる。家が焼けて住居を失い、代わりにこの巫女殿で生活している民たちの声なのだが、今までなら一般人が立ち入るなど考えられないことだった。
 その前代未聞の巫女殿の開放を命じた人物は、今シュマの目の前に座っている。
「こうして改まって話すのは、随分と久しぶりのことですね、シュマ殿」
 そう言って、白装束に身を包んだ老女――姉巫女は、薄灰色の瞳をシュマへと向けた。「そうですね」と答えてシュマはその姿を眺める。部屋の雰囲気が違うせいなのか、それとも彼女が今はシュマと同じ高さに座っているせいなのか、いつかの夜はあまりに絶対的存在に見えた姉巫女は、あっけにとられるぐらい小さかった。
「して、今日この地より旅立たれると」
「――はい」
 姉巫女の口から、端的に本題が告げられる。表情が読めないのは相変わらずだったが、口調はいくらか穏やかになっているように感じられた。
「これから、出発しようと思います」
 対するシュマの返事も短い。そして答えながらシュマは、この数日間のことを思い返していた。

 火事の夜から一月ほどが経った。正直、もう一月も過ぎたなんて信じられない。色々と忙しすぎて一日の終わりを実感する余裕もないままに、気付けばそんなに日にちが経っていた。
 慌ただしく、そして様々な変化があった日々でもある。
 民たちは、少しずつ真実を受け入れ始めていた。想像した以上に大部分の民たちが、落ち着いて前向きに歩いて行こうとしていた。それでも小さな争いはあちらこちらで頻発していたが、エサンたちの協力で何とか沈静化できている。そのためだったり、外の民たちとの話し合いだったり、村々の復興作業だったりで、シュマはずっと奔走していた。
 そのおかげだと自負するつもりはないが、いくらか籠の復興は進み始めている。
 民たちはちゃんと生きていこうとしている。まだしばらく大変だろうが、何とかなるような気がしていた。
 それよりも心配なのは、外の世界のことだった。
 トイルやリシェンが告げたように大国がこの辺りを狙っているならば、これは放っておいていい話ではない。大国がどのようなものなのかシュマにはよくわからないが、それに支配されるということは決して良い結果は招かないだろうという、それだけは想像がついた。
 なるべく早く、何らかの対策を打たなければならない。でもシュマたちは外の世界のことをあまりに何も知らない。大国がいったいどこにあるのかさえはっきりとはわからないのだ。
 だからシュマは、自ら外の世界を見に行くことを決めたのだった。エサンたち翼無き鳥の民が旅人から聞いた話を頼りに、何とか大国まで行ってみることにしている。ひょっとしたら危険が待っているのかもしれない。でも、このまま待っているだけなんてシュマにはできなかった。
 今日は、その挨拶のために姉巫女に会いにきたのだった。

「色々なことがありましたね」
 少しの間沈黙が落ちた後、姉巫女がつぶやくように言った。シュマはその言葉を噛みしめるように自分の膝に視線を落とす。本当に、色々なことがありすぎた。
「たくさんのことが変わりました。籠の民も、籠の外の民も、そして (わたくし) 自身も――」
 彼女はふっとため息を吐く。それが何を意味するものなのか、無表情からは読み取れない。
「火事の夜、民たちに広がる声を聞いて、 (わたくし) はようやく気付いたのです」
 その口調はどこか、自分に言い聞かせるようでもあった。
「遙か昔に神話を作ったという女性ツァリ。彼女が本当に守りたいと願ったのは、この民たちの希望であったのだと」
「……」
「ツァリが神話を作り出したのは、民の穏やかな暮らしを願うがためでした。神話は民のためにありました。民のための、籠の秩序と平安でした」
 姉巫女の瞳に、微かにだが後悔の色が浮かぶ。
「それをいつしか (わたくし) たちはねじ曲げ、神話と籠の秩序のために民があるかのごとく、振る舞っていました。私たちはいったいいつから、道を間違ってしまったのか――」
 その瞳の奥に隠してしまった感情は、目に見えるよりもずっとずっと深いのかもしれない。
「その断罪としてアガル殿は逝ってしまわれた。けれど (わたくし) はまだここにいる。いったいどうしてでしょうね……」
 独り言のような台詞。そこまで黙って聞いていたシュマは、そっと口を開く。
「あなたが生き残ったことに意味はなくても、あなたが生き残ったことで作り出せる意味はあると、そう思います……俺だって、そうだから」
 最後に付け加えられた一言は、少しだけ頼りない響きを帯びた。
 姉巫女の目が静かにシュマに注がれている。それが、まるで眩しいものでも見るように、すっと細められた。
「貴方の瞳は、未だに真っ直ぐ澄んだままなのですね。あれだけのことがあっってもなお、あなたは少しも曇りなく、世界を見つめている――」
 そんなことない、とシュマ自身は思う。この後に及んでもまだシュマは幾度となく迷ったり弱音を吐いたり……そして大抵はトエに怒られるのだ。
「多分、それが一番大切なことなのかもしれません。自分が自分であること。そして」
「……」
「自分のままに、自分の、そして誰かの未来を信じて、願うことが」
 だからそれでもシュマは、前を向いて歩いて行く。
 姉巫女がふいに立ち上がった。つられるように見上げたシュマをおいて、静かに部屋を横切り、窓際まで歩いて行く。歩きながら、言葉が聞こえた。
「アガル殿は、もう何も信じられなくなっていたのです」
「……」
 その名を聞く度に、シュマは今でも複雑な思いを抱く。果ての山でシュマたちを殺そうとした男――でも彼は、民たちからすれば間違いなく立派な長であったし、娘のメルゥのことは確かに愛していたのだと思う。
「周りの人間の思いも、これからも未来も、彼は何も信じられなかった。自分の心さえも見失って、ただ教えに従うだけの神話の奴隷に成り下がっていた……だからこその、あの結果だったのかもしれません」
 窓の側までたどり着いた彼女は、シュマに背を向け窓の外を眺めている。外では暖かな陽気の中、行き交う民たちの姿が見えた。
「神話の奴隷……それは (わたくし) も同じだったはずでした。でも私だけまだ生きているのです。だから、彼と同じ道を選ぶべきなのかとも思いました」
「同じって、まさか!」
「……一時の気の迷いです。アガル殿とともに果ての山の山並みに沈んでしまえればと、そう考えていたこともありました。されど……」
 ゆっくりと姉巫女が振り返る。陽光の中で、その瞳は確かな光を映していた。
(わたくし) は私自身の意味を探して、紡いでいきます。貴方の言うように」
 ――彼女もきっと、重いものを背負ってしまった一人だ。それでも何とか進んでいこうとしている、一人なのだ。
 その姿をじっと見つめるシュマの前で、姉巫女は口を開く。
「シュマ殿、どうか瞳を開き続けていてください」
「……」
「これから何を見ても、どれだけつらく悲しいことがあっても、どれだけ醜い争いに巻き込まれても、どうかどうかそのまなこを曇らせることのなきように――強く、生きてください。さすれば貴方はいつか、もっと大きなものを変えられるかもしれないと、そんな気がするのです」
 彼女の口元がわずかに弛む。
 微笑んだのだと、そう気付くのに少し時間がかかった。無表情でも冷たい笑みでもない、それはそれは穏やかな笑顔だった。
「旅立ちを祝福します。その翼をもって、籠より飛び立ちし鳥の子よ――」