籠庭の詩

一章 冬の名残と春の光(1)

 朝の静かな空気を、水音が遠慮がちに破る。手元からこぼれて飛び散った水滴は、夜明け前の空から降る微かな光を鈍く映した。井戸端で顔を洗っていたシュマは、顔を上げて一瞬だけその光を追う。
 まだ辺りに人の気配はない。すぐ側にある自分の家からも、その周りにある他の家々からも、住人が起き出す様子は感じられないのだった。シュマは村の中でも一二を争う早起きなので、自分が目覚めた後も、村はしばらく眠りについたままだ。
「今朝も寒いな……」
 手元の水桶の底に映り込むのは茶髪の少年。年相応の、別段かっこよくも悪くもない自分の顔。見飽きた気もするそれを眺めながら、シュマは頬を伝う雫を袖でぬぐう。それから、辺りの冷たい空気をそっと吸い込んだ。
 早朝の冷たさが体に染みこんで、そのまま重く骨の髄まで浸透していく気がする。奇妙なことだけれど、十六年間ずっと慣れ親しんできたもののはずなのに、この冷たさだけは未だに重く感じてしまうのだ。
 今は春だからまだいい。日が昇るにつれ、次第に暖かくなっていくのだから。これが冬ならば、人々は一日中重苦しい寒さに震えながらやり過ごさなければならない。無慈悲な冷気と氷とが支配する間、皆そうやってひたすらに春を待ち焦がれる
 ――そうして切望した春が、今ようやくシュマたちの手元にあった。
「さて、行くか」
 春というだけで随分と気が楽で、つぶやく声も軽い。一呼吸おいてからシュマは井戸から離れ、少し先にある掘っ立て小屋へと歩き始める。シュマの布靴の下で、砂がしゃりしゃりと鳴った。
 そして小屋に近づいていき、その戸口でじっとシュマを待つ存在を認めた途端、シュマはふっと口元を綻ばせた。
「おはよう、ニィ」
 シュマの声に、ニィと呼ばれたそれは、短い尾を振りながら駆け寄ってくる。嬉しそうに体を擦りつけてくる背を、シュマは優しく撫でた。
 青みがかった銀の毛並みに、その中の青い瞳、額の白い角――そんな容姿のニィは、カーリと呼ばれる狼に似た生き物だったが、こうしてシュマにとてもよく懐いてくれているのだった。
「今朝もかなり冷えるな。大丈夫か? ……って、お前は毛皮があるから、俺たちよりは平気か」
 そう呼びかけると、ニィは平気だよとでも言うように一声吠える。
 ニィはとても頭が良く、まるでシュマの言葉を分かっているかのような素振りを見せることさえあった。
「そっか、じゃあ今日もよろしく頼むな」
 また吠えた。任せとけ、とシュマには聞こえる。
 頼むと言ったのは仕事のことだ。ニィの背丈はシュマの太ももの辺りぐらいで、どちらかというと小柄な方に入る。しかしその四肢で力強く地を駆け、いつもシュマの仕事を手伝ってくれるのだった。
「ん、なら行くぞ」
 再びニィの毛並みを一撫でし、シュマは目の前の小屋の扉に手をかけた。その時、
「シュマ、ちょっといいかしら?」
 ふいに後ろから声がかかった。誰かいるとは思っていなかったシュマは、驚いて後ろを振り返る。
「……トエ?」
「おはよう、シュマ」
 そこにいたのはシュマの見知った少女だった。一瞬目を丸くしたシュマに対し、彼女は「驚かせてごめんなさい」と小首を傾ける。その動作に合わせて、ようやく顔をのぞかせた朝日が艶やかな黒髪の上で反射していた。
 少女の背中まで届く髪は、黒というにはやや赤みがかって見える。その几帳面なまでに切りそろえられた様子は、彼女の性格をよく表していた。
 それから少女の格好に視線を移し、シュマはまぶたをしばたたかせた。トエが着ているのは、裾が長く、袖の袂も長く垂れ下がった真っ白な装束――それは、巫女の役目をになった女性がまとうもの。
「その格好ってことは、今から仕事か? だったら何でわざわざこんなとこまで……」
「メルゥに頼まれて来たの」
 いきなりトエの口から飛び出した名前に、思わずどきりとしてしまう。それが顔に出たのか、トエは苦笑した。
「ほら、メルゥの名前聞く度にそんな顔しないの。別に何かあったわけじゃないわ。あなたを呼んできて欲しいって、そう頼まれたから来ただけ」
「そうか……わかった。それならすぐに行く」
 何かあったわけではないと言われても、簡単に不安はぬぐえない。何せメルゥという名の少女は――もうしばらくの間、病気で寝込んだきりなのだから。
 またトエが苦笑する。
「やっぱり心配なの? メルゥのこと」
「心配っていうか……何だろな。めでたいことなのはわかるけど、いなくなっちまうのはやっぱり寂しいし、悲しいな」
「シュマ」
 シュマの台詞が終わるか終わらないかのうちに、トエがふいに短くシュマの名前を呼んだ。その中に含まれた咎めるような響きに、シュマは思わず口をつぐんだ。
 トエはじっとシュマを見つめる目をわずかに細める。
「シュマ、それは私以外の前で言っては駄目よ。教えに反するようなことは、するのも言うのも御法度。シュマは正直すぎるわ」
「……わかってるさ、そんなこと」
 やや投げやりに言い捨てた。トエの言うことが正論で自分が異端なのはわかっている。……でも納得はできない。
 そんな不満が、知らないうちに返事にも混ざっていたのかもしれない。一時二人の間に微妙な沈黙が流れてしまったが、やがてトエは気にした風もなく足の向きを変える。
「じゃあ、私はもう行くわね」
「ああ。悪かったな、わざわざ遠回りしてもらって」
 シュマが声をかけるとトエは微笑んだ。
「構わないわ。メルゥは友達だし……同じ巫女仲間でもあるもの」
 そう言い残してから、やがてトエは裾をひらひら揺らしながら立ち去っていく。その背を見送った後で、シュマはふっとため息をついた。
 トエとは親同士が仲が良く、幼い頃から一緒に遊んでいた仲だ。彼女が巫女に召し上げられ、白い衣装をその身にまとうようになってからはそんなこともなくなってしまったが、それでも何かとトエはシュマの元に顔を見せにくる。
 けれど大抵は、今のように早々に帰ってしまうのだった。もう少しゆっくりしていけばいいのにと思うが、真面目なトエにしてみればそれは気が咎めるのかもしれない。
 加えて最近は、会いに来ることさえ少なくなってしまった。話す機会も減っていき、シュマは寂しい思いも抱く。
「……さて、んじゃ行くとするか。お前は留守番頼むな、ニィ」
 余計な考えを振り払うように調子よく声にすると、ニィがわかったと言わんばかりに吠えた。それを確かめてシュマは前へと歩を進め始める。
 ここからメルゥの家までは結構距離がある。たどり着く頃にはすっかり空も明るくなり、人々も動き始めているだろう――。