一章(2)

「おいシュマ、ちょいと見ていかねえかい」
 行き交う人々に紛れ、シュマは露店が立ち並ぶ中を抜けていく。その最中、ふいに一人の男から誘いがかかった。
 ふと足を止めて見れば、地面に座り込んだ男の前には大きな布が広げられ、その上にはまだ土の残る野菜が並べられている。
「どうだ! うちの畑でとれたばかりで新鮮だぜい」
「悪い、今日はいいよ。メルゥに呼ばれてるんだ」
「……そうか、んなら早く行ってやれや」
 残念そうな響きを残しつつも、男はあっさりと引き下がった。シュマは「また今度来るよ」と言い置いて、再び雑踏と喧騒の中へ紛れていく。
(相変わらずだな、この村は)
 シュマの家がある九ノ村を出発して数刻、シュマはメルゥの住む中ノ村へと到着していた。この地にはいくつかの集落が点在しているが、中ノ村はそれらの中心に位置する、ひときわ大きな村だった。
 その中ノ村のさらにど真ん中を貫くのが、まさに今シュマの歩いている大通りだった。ここはいつもこんな風に露店や人々で溢れかえっており、通行のための通りというよりは半ば市場と化している。人々は皆、育てた野菜や野山で捕ってきた動物、野草などをここに持ち寄り、思い思いに自分のほしいものと交換していくのだった。
 今し方シュマに声をかけた男のように店を構える者もいれば、自分の収穫品を持って歩き回る者もいる。そんな人々で埋め尽くされた中を進んでいくのは、いつもながらにやや難儀する。
 ――そんな調子なのでもちろん活気はあるのだが、しかし例年に比べると物の数が少ないことに気付かざるを得ない。その事実に、シュマはふっと去年の厳しさを思うのだった。
 一年を通してあまり雨が降らず、作物の出来は良くなかった。加えて、追い打ちをかけるようなあの冬の寒さ。
 きっとたくさん死んだだろう、獣も、家畜も、人も――。
(それでもまたこうして春が来た……頑張っていくしかないんだ、きっと)
 どこからかシュマの耳に、「よっといで!」と声を張り上げる朗らかな女の声が届く。再び懸命に生きていこうとしている皆の様子を眺めながら、シュマは大通りを抜けていった。
 市場のある地帯を通り過ぎれば、大通りは次第に狭まっていき、やがて細い路地へと姿を変える。そして、今度は人々が普段暮らす藁葺き屋根の家々が立ち並ぶようになるのだった。
 先ほどの大通りほどうるさくはないが、ここも人々の心地よい喧騒で満ちていた。井戸で集まって洗濯をする女たちの世間話、家の前で遊ぶ子どもたちの甲高い声――シュマがそれらの横を通り過ぎながら歩き続け、やがて立ち並ぶ家もまばらになった辺りで、
「……シュマではないか」
「あっ」
 突然名を呼ばれ、はっとして声を上げた。
 村の端にさしかかった辺り、民たちの住居地帯とは離れて立つ、ひときわ目立つ大きな館に向かう途中。そこで前から歩いてきた人影が誰であるのかに気付いた途端、シュマは慌てて頭を下げる。
「おはようございます―― (おさ)
「ああ」
 挨拶すると、短い返答とともに彫りの深い目で見据えられた。
 その厳しい目つきは睨んでいるようにも見えてしまうが、別段怒っているわけではなくて、これがこの人の普通の表情なのだとシュマは知っている。課せられた責任が、そうさせるのだろうか。
「今から仕事ですか? いつもお疲れ様です」
「うむ」
 幾つも点在する村々にはそれぞれ村長が存在するが、それら全てをまとめているのが、今シュマの目の前にいる人物、アガルだった。
 ねぎらいの言葉を口にしたシュマの前で、しわの目立つようになってきた白髪交じりの男は少し目を伏せた。
「わざわざこんな所まですまぬな。メルゥが迷惑をかける」
「いえ、別にいいんです。メルゥは幼なじみですし、友達ですし」
「そうか……。昔からそなたとユエンとで、ようあれと遊んでくれておったな。それも含めて、本当に礼を言う」
 そう言うとアガルの口元がわずかに緩んだが、厳しい目つきは相変わらずだった。しかし微笑むということなど滅多にない人なので、これだけでも随分と珍しい。
「ところで、仕事の方はどうか」
「まあそこそこですよ。この冬が冬だったんで、いつも通りとはいきませんが……」
「そうであろうな」
 アガルから深いため息が漏れ、その瞳が一瞬だけ憂いを帯びる。
「亡くなった者たちが、この地に恵をもたらしてくれることを願おう」
「……そうですね」
 彼の言葉にシュマはうなずき、再び軽く頭を下げた。
「じゃあ、俺行きますね」
「ああ」
 短い声とともに、アガルはシュマの横を通り過ぎ、今し方シュマが来たばかりの道をたどり始める。聞けば随分と多忙で、村々を駆け回っているという話。別の村に用事でもあるのかもしれない。
 もう六十半ばだというのに、本当に頭が下がる。
「よし」
 そしてシュマは前に向き直り、どこか威厳をも漂わせる大きな木造の館へと足を向けた。
 それが先ほどのアガルの――そして、その娘のメルゥの家である。