一章(3)
戸を叩くと家の者が出てきて、長い廊下の先のメルゥの部屋へ通された。メルゥは部屋の中で、寝台の上に身を起こして座っていた。その大きな黒目がちの目がシュマへと向けられる。
ここまで案内してくれた女性は、シュマの後ろで静かに部屋を出て行った。
「おはようメルゥ……大丈夫か?」
挨拶の後に思わずそう付け加えてしまう。メルゥの存在感というか何というか、それが前に会った時よりもひどく揺らいで見えてしまったのだ。
けれど、直後にメルゥが明るく微笑んだことでその不安は少し和らぐ。
「おはよう、シュマ。大丈夫だよ、今日は気分が良いから」
「そっか、ならいい。でも体には気をつけろな」
「うんっ」
メルゥはうなずいて、シュマに寝台横の椅子に座るよう促した。歩きっぱなしで少し疲れていたシュマは、ありがたく腰を下ろして息をつく。
そんなシュマの様子にメルゥは「わざわざごめんね」と申し訳なさそうにしていたが、すぐに明るい笑顔を見せた。
「ね、シュマ、見て見て! 今年一番のツァリの花だよ!」
メルゥがそう嬉しそうに言って指さした先には、窓辺で花瓶に入れられて佇む小さな薄桃色の花々があった。シュマは目をしばたたかせる。
「ツァリじゃないか。そっか、もう咲いたんだな」
「うん! 昨日、父様と一緒に摘んできたの」
その言葉に、シュマは思わず目を丸くする。
「一緒にって、お前……」
「……うん。無理言って草原まで連れて行ってもらったの。でも、私大丈夫だよ? 最近はとても元気がよくって」
少しばつが悪そうにはにかむメルゥに、シュマは困ったものだとため息を漏らす。
あのアガルがそんなことをするなんて、よほどメルゥは強く我が儘を言ったのだろう。少し呆れながら、シュマは窓辺のツァリの花へと視線を戻した。
ツァリの花は、毎年春になると姿を見せる花だ。でも控えめに色づいたその花びらはとても地味で、おまけに背も高くないから、咲いていたところであまり誰も目を留めない。けれど、メルゥはどうしてかこの花が好きだった。
(ツァリ。名無し≠ゥ)
古い言葉で名も無き存在≠ニいう意味の名前。いったい誰が名付けたのだろう――いや、むしろ誰も名付けなかったからそんな名前になったのかもしれない。先祖たちも、やっぱりこんな花には目もくれなかったのだろうか。
「まったく……お前ほんと物好きだよな。そんな花が好きなんて」
呆れたようにシュマが漏らすと、メルゥが少し不満そうな表情を見せる。
「えー、私は綺麗だと思うんだけどなあ、この花。……うーん、でも、こうやって手折ってしまうと、何だか元気がなさそうでちょっとかわいそう……。やっぱり、摘まずにそのままにしておけばよかったかなあ……」
そうぽつりと付け加えたのを聞いて、シュマは桃色の花に目をやる。花瓶の中でつまらなさそうに収まっている花は、野に咲いているのと比べると確かにしょんぼりして見えるのだった。
そう思ったところで、シュマはふと思いついて口を開く。
「それ、花瓶に生けたままじゃないと駄目か?」
「え? んー、別にどっちでも構わないけど……」
何でそんなことを尋ねるのかと、メルゥが首を傾げる。一方のシュマは、ちょっと貸してくれと断った後に花瓶に手を伸ばした。ツァリの花を全部抜き取り、軽く水を切ってからそれらを自分の膝の上に広げる。
思ったより本数は多かった。よし、これならいけるだろう。
「シュマ、いったい何してるの?」
「今は秘密」
しきりにそれらの花々をいじり始めたシュマの手元を、メルゥは不思議そうにのぞきこんでくる。その問いにもったいぶって答えてから、シュマは作業を続けた。といっても、口は暇なので勝手に言葉が出てくる。
「お前、ひょっとしてこの花を見てもらいたかったから呼んだのか?」
尋ねると、どうしてかすぐには返事が返ってこなかった。怪訝に思ってメルゥの方を見ると、彼女は妙にためらった風な様子を見せている。
「えっとね……そう、なんだけど、半分ぐらい口実……。ほんとはね、シュマに会いたかっただけなの。ごめんね、こんなことで呼びつけて……」
「なあんだ。それならそうと最初から言ってくれればよかったんだ」
あっけらかんと答えると、「え?」とメルゥがきょとんとした表情を見せた。シュマはその様子に苦笑する。
「何かあったんじゃないかって、無駄な心配したじゃないか。そんな理由で良かったよ」
「そう、なの? ごめん……」
「好きなように呼びつけてくれればいいさ。別に嫌だなんて思わねえよ。だからそんなことで謝るな」
そう言うと、メルゥはほっとしたようにふんわりと笑った。
「ありがとう、やっぱりシュマは優しいね。……それにしても、シュマもユエンと同じこと言うのね。何だかおかしいの」
突然予想していなかった名前が出てきて、シュマは思わず呆ける。考えてみれば、ユエンはシュマとメルゥの友達なのだから、別に話題になったところでおかしくなんてないわけだが――それに大体、ユエンとメルゥは恋仲であるのだし。
「ユエンと同じこと? えー、あいつと一緒かよ……」
それはあまり嬉しくないと、うーんと唸ってしまったシュマがおかしかったのか、メルゥはくすくすと笑い出す。笑う度に肩に散らした髪がゆらゆらと揺れて、その仕草が何とも可愛らしかった。
本人の言う通り今日は気分が良いのか、本当に想像していたより全然元気そうでほっとする。けれど、それでも最初に彼女から感じた感じた儚さは、なおも消えずに残っているのだった。
元々色白で綺麗な子だったが、今は色白というより血の気がない。それがいっそう彼女に美しさを与えていたけれど、それは人の美しさというより、今にもこのまますっと透き通って消えてしまいそうな儚さで――だから余計に不安で、怖い。
「シュマ?」
考え事をしてしまっていたシュマは、メルゥの声ではっと現実に引き戻された。気付くと、メルゥがじっとシュマの方をのぞき込んでいた。
「え、ああ、何だ?」
何でもなさそうな様子を取り繕って答え、慌てて止まっていた作業を再開させる。すると、メルゥの瞳がすっと沈んだ。
「シュマ、さっきからずっと不安そうな顔してる。私が、心配させてしまってるんだよね……」
「そりゃまあ、お前のことは心配だし。……そんなの当たり前だろ?」
「……ごめんね」
「お前が謝ることじゃない」
慌てて放った言葉は思いの外怒ったような声色を帯び、そのせいかメルゥは突然黙り込んでしまった。どうしようかと一人で困っていると、いきなりメルゥが噴き出すのでシュマは呆気にとられる。
「な、何だ?」
「もう、シュマったら変なの。そんなに心配してるのシュマだけだよ? あ、ユエンも結構心配してるけど」
「心配したらおかしいのかよ」
「おかしいよ。だってみんな、私を気遣ってはくれるけど心配はしてくれない。代わりに、『もうすぐ神様になれるから大丈夫』って、みんな言うの」
「……」
シュマは何も言えずに押し黙ってしまった。作業に集中しているふりをして、膝元へと視線を落とす。
神様――その言葉で、シュマはこの地に伝わる神話を思い出していた。この世界は、神々が退屈をもてあまさないように創られた、籠の中の世界。そんな、籠世界の始まりを記した古い古い物語。
それによると、命あるものは皆、死んだ後は今の体を捨て、神々の世界に神として生まれ変わるのだという。そして、神として永久の時を生きるのだと。また神の力を得た者は、その力を使ってこの籠に暮らす者たちを救うことをもできるのだと。
「もうすぐ救われるから大丈夫って。もう病気で苦しむこともないんだって。そして、神様になったら毎年豊作にしてねって、頼まれるの」
「……そうか」
「けどシュマは、そうは言わないんだね」
そう問われ、シュマは視線を逸らしてしまう。そうしてもなお感じられる目の前の少女の儚さが、シュマの胸を静かに刺す。
メルゥは、幼い頃から病気がちな子だった。それでもまだ幼い頃は時々外で遊んだりもしていたのだが、次第に病は重くなっていき、今は一日のほとんどを自室で過ごしている。
――メルゥは、神に近い存在なのだという。体が弱いのも何度か死の瀬戸際まで行ってしまっているのも、魂が向こう側に近くて神が呼び寄せようとしているから、この籠との繋がりが希薄だからなのだと。
それを裏付けるように、メルゥには不思議な力があった。彼女が雨が降るというと、それは必ず的中するのだ。嵐が来ることもメルゥは予感してみせたし、少し前に猟師の男が獣に襲われて大怪我をした時も、誰か森で倒れているとメルゥが言い出し、行ってみると本当にそうなのだった。
この籠では、そういった見てもいないことが予知できる人間が希に現れる。それは神が呼びかけ教えてくれるからなのだといわれ、そういった者たちは神の言葉を聴く巫女として籠の民のために尽くすことになるのだった。そうしてメルゥも、当然のように巫女に選ばれ現在に至る。
神に愛された娘。誰よりも神の言葉を聴ける稀代の巫女。そう人々は言う。本当にその力は、神の言葉を伝えることを役目とする巫女たちの中で、明らかに群を抜いていた。
けれど当のメルゥは、何となくわかるだけだと呑気に笑っているだけだし、シュマにとっては変わらない昔からの友達でしかない。だが、力の代償であるかのようにメルゥの命の火は日に日にか細くなっていく――。
(恐らく、メルゥはもう……)
考えたくもない事実だけれど、もう彼女の生が長くないのは、少し前からわかりきっていることだった。でもそれは、悲しむべきことではないはずだった。神に近い存在であるメルゥの魂を、神が側に呼び寄せようとしているだけなのだから。
それは喜ばしいことだと、皆は口を揃えて言う。この厳しい地に生きる者にとって、死とは救いだ。神となれば老いることも病気になることもなく、死すら神の国には存在せず、そこに苦しみは一切ないのだから。
死とは喜び。めでたきこと。だから残される者たちは、一足先に神となる者たちを、心から祝福して送り出せば良い。そして、自分たちもいつか同じ存在となれるように、己を偽ることなく精一杯生きろ――それが、幼い頃からシュマたちが伝えられる教えだった。
だが、しかしそれでも、シュマは――、
「……くない」
「シュマ?」
「……俺はお前に、死んでほしく、ない」
メルゥがはっと息を呑んだのがわかった。それを聞いて少しだけ後悔したが、気付けばもう言葉は止まらなくなっていた。
教えの意味はちゃんと理解している――でもそれでもシュマには、神や救いの存在なんてよくわからないのだった。それらはどこにあるのかもわからないひどく遠い存在で、それよりもシュマが思うのは、
「シュマ……」
「……めでたいことなのはわかってる。でも俺は、お前が神になって、遠くに行ってしまうのは寂しい。寂しくて、悲しいよ。だから皆のように喜ぶことは、できない……俺は、お前に神になってほしくなんか、ない」
言い切ってしまった後で、ひょっとすると怒られるかもしれないと思った。――けれど、一拍おいてメルゥはふっと微笑む。
「ありがとう」
「……え?」
「そう言ってもらえると嬉しい。こんな私でも、必要としてくれてるってことだもん」
意外な返答だった。シュマは目をしばたたかせる。
「……怒らないのか」
「何で?」
「だってお前、巫女だし……巫女の役目は、神話の教えを伝えていくことでもあるだろ? そんな考えは間違ってるとか、言うかと思った」
「言わないよ、そんなこと」
メルゥがまたふっと笑った。
「私ね、確かに巫女なんだけど、よくわからないんだ。神様になるとか、そういうの」
「……そうなのか?」
神話の教えを伝え、籠の民を導くのが役目である当の巫女が、神がよくわからないなんておかしな話だと思った。だが、メルゥはこくりとうなずく。
「だって、想像できないよ。私は今ここに生きているのに、死んだら神様っていう人じゃないものになって、違う世界に生まれ変わるなんて。だから私がもうすぐ神様になれるって、みんなが喜んでくれるのもよくわからない。神様になること、私は嬉しくなんかないのに」
「……メルゥ」
「だって私は……私は、この籠に、まだいたい。神の世界になんて行きたくない。私はまだ、ここに生きていたいよ。……でも、こんなこと思うなんて巫女失格だね……」
それはシュマが始めて聞く、メルゥの率直な告白だった。そのせいかもしれない、話すメルゥの中に、どこか不安に怯えた少女を見たような気がした。
けれどそんな姿は、メルゥが再び微笑んだ次の瞬間、彼女の笑みの下へと消えていく。それは儚げな、それでいて瞳に印象的な強い光を浮かべた、とても綺麗な笑顔だった。
何て返せばいいのかわからずシュマは口ごもる。その前で、メルゥはまるで祈るようにそっと瞳を伏せ、再び口を開いた。
「シュマ、私はね――この籠が好きだよ」
そして、りん、と鈴のような声がこぼれ落ちる。
「つらいことだって多くて、私はこんな体だけど、でも私はこの世界が好きだよ。だってね、ここにはみんながいるんだもん」
「……」
「シュマがいて、ユエンがいて、トエがいて。父様も母様も、他のたくさんの友達も――そうやってみんながいる。私は、みんなと、みんなが生きるこの世界が大好きだよ。いくら神様の世界が素敵でも、私はここがいい」
「……」
「だから私、神様になんてなりたくない。この世界の中で、私の大好きな人たちの側にいて、みんなの幸せを見守っていたい。母様と父様の側に、シュマの側に――それに、ユエンの側にだって」
ユエンの名前が出たところで俯いてしまったメルゥに、「ユエンのこと、好きか」と聞くと、彼女は強くうなずいた。
「うん――だから、まだ一緒にいたい」
「……そっか、あいつもきっとそう思ってる。お前が生きることを願ってるのは、俺だけなんかじゃない」
「それは、どうなのかな……」
思いがけなく否定が返ってきて、シュマはメルゥを見返した。メルゥが苦笑する。
「ユエンは、早くこの世界を出て行きたいって、思ってるみたい。だからこの世界で私と一緒にいること、嬉しく思ってくれてるのかよくわからない……」
「あー、そういやあいつ、前もそんなことを……。でも、お前と一緒にいたいとは思ってるさ、絶対」
「そうかな」
「そうさ」
そんなシュマの言葉に、メルゥが微笑んだ。
「そうだと、いいな――遠くに行ってしまっても、いつか私を思い出してくれれば――……」
メルゥとユエンが恋仲なのは、シュマだけでなく皆に周知の事実だったが、メルゥは本当にユエンのことが好きなのだろう。それほどにつぶやく彼女の顔はとても幸せそうで、だからシュマは、そんな自分がいなくなること前提の話はするなと、非難しかけた口をぐっとつぐんだ。
そして胸の痛みは瞬き一つで隠して、メルゥにそっと笑い返すのだった。
そうしているうちに、気付けば手の中の作業は終了していた。「できたぞ」とメルゥに呼びかけ、シュマは手に持っていたそれをメルゥの前に掲げる。
「わあ、すごいすごい!」
メルゥが歓声を上げる。その様子にシュマはにっこりと笑って、それをメルゥの頭の上にぽんと乗せた。
シュマがずっと膝の上で作っていたそれは、ツァリの花で編まれた小さな花の冠だった。少し気恥ずかしくて、シュマは手で頭を掻く。
「編み込んだだけだけど、花瓶に入ったままより、その方が花もずっと嬉しそうに見えるだろ?」
「ほんと! シュマ、とっても素敵だよ!」
小さな冠を頭にのせて、メルゥはそれは嬉しそうに笑っていた。薄桃色の冠は、メルゥの肩までの髪にとてもよく似合う。
「シュマ、とってもとってもありがとう!」
そしてメルゥがシュマに向けて見せたその笑顔は、少しの曇りもない、綺麗な無欠の笑みだった。
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