一章(4)

 入り口まで見送ると、メルゥはそう言い張って聞かなかった。シュマは体に障るからと断ったのだが、メルゥがあんまりしつこいものだから、結局シュマの方が根負けし二人揃って部屋を出た。
 一歩外に踏み出すと、入り口のすぐ横に女性が控えていて思わずびくりとしてしまった。彼女は「どうぞこちらへ」と言いかけた後で、シュマと一緒にメルゥまで出てきているのに気づいて驚いた表情になる。ここでもしばらくもめたのだが、最終的には彼女も諦めシュマに頭を下げてどこかへ去っていった。本当に、毎度のことながらメルゥは頑固だ。
 黒髪を結い上げた若い女性――シュマがメルゥの部屋へ来た際に、案内してくれたのと同じ人だ。シュマたちが話し込んでいる間も、ひょっとしてずっと入り口で待っていたんだろうか。
(さっきの話、まさか聞かれてないよな……)
 シュマたちが、決して人に聞かれていい話をしていなかったという自覚はある。今の話は、籠で皆が信じている教えに反することだ。
 でもそんなに大きな声は出していなかったし、大体メルゥの家で働いている人なのだから、メルゥに不利なことを言いふらしはしないはず。きっと大丈夫だと、歩きながらシュマはそう自分に言い聞かせていた。
 その時、廊下の向こうからシュマたちの方へと歩いてくる人影が目に入る。暗めの紺青の髪に、空にも似た明るい蒼色の瞳――それが見知った少年だとわかった途端、シュマは「おい」と声を上げた。
「ユエン!」
「ユエン、おはようー!」
 隣でメルゥも大きく手を振っている。少年は、メルゥが部屋から出ているのを見て一瞬驚いた表情を見せたが、隣のシュマと見比べて何となく状況を把握したんだろう。軽いため息を漏らして二人の方へ歩いてきた。
 小さい頃からいつも三人一緒で、悪戯もたくさんしてたくさん怒られた。そんな仲だから、ある程度は話さなくてもわかる。
「よう、お二人さん。メルゥ、お前はまた部屋から出てきたのかよ。ほんとに仕方ないやつだな」
 えへへ、とメルゥが小さく舌を出して、その顔にいたずらっぽい笑みをのせる。その時ようやく青髪の少年――ユエンは、メルゥの頭の上にちょこんと乗っているそれに気付いたようで、「どうしたんだ、それ」とツァリの冠を指さした。メルゥはますます嬉しそうに目を細める。
「シュマが作ってくれたの。いいでしょう!」
「おっ、似合ってるじゃねーか。でも作ったのこいつかよ。こんなぼけっとしたやつがこんな繊細な? 似合わねー、つーからしくねー!」
「……悪かったな俺で。別に俺、お前みたく籠編んでたら謎の塊ができたとかならねえし」
 軽口に軽口で応酬したら、今度は拳が返ってきて、シュマは慌てて手のひらで受け止めた。それを軽く押し返しながら、再びシュマは口を開く。
「しっかしここで会うなんて偶然だな。ユエンもメルゥに呼ばれたのか?」
「まー、そんなとこ。でも丁度良かったぜ。シュマ、明日お前んとこ遊びに行くわ」
 それはわざわざ伝えてくるような内容なのか。ユエンはいつだって、突然ふらっと遊びに来るじゃないか。
 そう思ったが口には出さず、代わりにふっとため息を漏らす。
「お前も暇だな……。ちゃんと仕事してんのかよ」
「してるしてる。すっげー真面目」
 いかにもという様子でユエンがひらひらと手を振ったその時、シュマとユエンの間からにゅっと頭が伸びてきた。
 一瞬あっけにとられたシュマの横で、メルゥは上目遣いにユエンを睨む。
「今の嘘よう。あのねシュマ、ユエンったらね」
 「あ、こらメルゥ」とどうしてかユエンは慌てている。そんなユエンにも構わず、メルゥはシュマに向かって口を開いた。 
「ユエンったらね、毎日のようにふらっとやってくるのよ。だから絶対働いてないのよ」
「……へー、そうか。ユエンは怠けてばかりなのか。じゃあ今俺の隣にいる、真面目とか言ってるこいつは別人に違いない。見た目はそっくりだってのに、いったいどこの誰だ?」
「シュマ、きっと双子なんだよ。ユエンが弟で彼がお兄さんなんだよ」
「おお、ユエンは双子だったのか、なるほど」
「こら、ひっでーなお前ら! 見てろ、今にこの俺の真面目な姿を見せつけてやるからな。首を洗って待ってろ!」
 「何をだよ」とシュマがすぐさま突っ込むと、途端にメルゥが吹き出した。おかしくて仕方ないといった様子で鞠が弾むように笑い続けているので、シュマもつられて頬が緩む。見ればユエンまでもが、困ったもんだという感じの笑みを見せていた。
 そうして長い廊下に三人の声が響いて、優しく反響しては辺りに満ちる。それはとても心地の良い一時だった。
 だから、まだ大丈夫――そうシュマは思うのだ。まだ大丈夫。まだ、まだメルゥは、こうしてシュマたちの前で楽しそうに笑っている。儚さがいくら拭えなくても、まだ彼女はちゃんとここにいる。それは、決して幻なんかではないと。
 けれど、だからこそ願わずにはいられないのだった。正直なところシュマは、この世界を創ったらしい神の存在なんてよくわからない。けれど、その神とやらが今のシュマたちを見ているなら、どうかもう少しだけ、メルゥの命を灯し続けてくださいと――本来こんなことを願うのはおかしいのだろうが――どうか、まだ三人で笑っていられますようにと――そう願わずにはいられなかった。
 そんな祈るような思いでふと廊下の先に目をやると、長い木造の廊下は、並んだ窓からこぼれるやわらかな日差しで満ちていた。その光に照らされて、メルゥの頭の上のツァリの花も嬉しそうにきらきらと輝く。
 それは、冷たく寒い冬を越し、ようやく降り注いだ春のきらめきだった。