籠庭の詩

二章 散り去った花(1)

 メルゥに会いに行ってから、一晩過ぎて夜が明けた。
朝の空気の中、青草の草原をニィが駆けていく。青みがかった銀色の毛並みと額の細く白い角とが、晴れ渡った空から降る日の光をはね返す。
 カーリの毛並みは、中には灰色に近いものもいるがおおむね青い。それらに比べ、ニィの毛並みは抜きんでて美しかった。本当にカーリなのかと問われることもあるほどに見事な銀色の背。けれど狼に似た体躯と額の角を見るに、カーリであることは間違いないのだった。
 ニィとは、幼い頃怪我をして倒れているのを見つけた時からの付き合いだ。群れることなく孤高の存在を貫くカーリであるにもかかわらず、ニィはどうしてか驚くほど人であるシュマになついた。それも見る者に本当にカーリかと首をひねらせる 所以(ゆえん) だろう。
「おいニィ、はしゃぎすぎんなよ」
 シュマは笑いながらニィに呼びかける。だが忠告が聞き入れられた様子は全くなく、相変わらずニィは好き勝手に飛び回っている。それとは対照的に、放牧されたクィルたちはのんびりと食事にいそしんでいた。
「よしっ、みんな今日も元気だな」
 草原に広がるクィルたちを見回して、シュマは微笑む。
 クィルは、ずんぐりとした大柄な体、白く長い毛並み、細く垂れ下がった目とそして頭の上に大きく曲がった一本の角を持つ生き物で、彼らからはミルクもとれれば、その肉を食用にすることもできる。シュマの家はそうやって、数十匹のクィルを育てることで生計を立てていた。
 そして、毎日クィルを引き連れてこの草原に放しに来るのはシュマの仕事なのだった――いや、正確にはシュマとニィの、だ。
 夜の間クィルたちを入れておく小屋から、ここに連れてくるまで。そして、ここで彼らが思い思いに歩き回り草を食んでいる間、彼らがはぐれないようにニィは常に注意深く見張ってくれている。今はこうやって無邪気にはしゃいでいても、一匹でも群れを離れてどこかへ行こうものならすぐさますっ飛んでいくのだ。本当に、驚くぐらいニィは賢い。
「いつもありがとな」
 今は聞こえないだろう思いつつもシュマが感謝を口にした時、すぐ隣から呑気なあくびが聞こえてきた。その方向に視線を落とし、ユエンは本日何度目かのため息をつく。
「ったく、お前はいつまでそうやってる気だよ。ニィの方がよっぽど働いてるってのっ」
 軽くにらんだが、草原に寝転んで頭の下でゆったりと手を組んだユエンが、動き出す様子は欠片もない。
 明日遊びに行く――その言葉通り、ユエンは本当にやってきた。でもやってきて何をしているかといえば、こうして寝っ転がってくつろいでいるだけだ。本当に何しにきたのかとその呑気な横顔を蹴っ飛ばしたくもなる。
「お前、仕事は」
「今日は暇ー」
「……ほんとか?」
「本当本当。言っとくが、別に俺、何もせずに遊んでるわけじゃねーぞ? ちゃんとやらなきゃなんねーことやった上でこうしてのんびりしてんの。メルゥんとこ行ってんのだって、時間ができたから行ってんの」
 そして、みんな揃って馬鹿にすんじゃねー、とユエンは何だか一人でむくれている。
 言い訳めいた台詞だが、ユエンが言うと何だか妙に信憑性があった。ユエンは見ての通りの勝手なやつだが、やらなければならないことはきっちりと果たすやつだ。その辺りはシュマなんかよりよっぽど器用で要領が良くて、正直羨ましい。
(でも俺、考えてみればユエンの仕事知らないな……。話を聞いたことがない)
 以前に尋ねたこともあったと思うが、どうしてかはぐらかされてしまった記憶がある。おおかた家の畑仕事を手伝ってるんだろうとは思うし、きっと頭のいい彼のことだから、何をしているにせよきっと上手くこなしているんだろうが……。
「静かだなー」
「この辺はいつもこうだよ。村から離れてて、人も滅多にこないし」
 ユエンのつぶやきに、駆け抜けていく風の強さに目を細めながら答えた。
「いつもこう、か。見える景色も変わんねーな」
「そりゃそうだろ」
 変わったら大事だ。そう笑いながらシュマはユエンの隣に腰を降ろす。青草のやわらかな感触が手に触れた。
 そうしてシュマはユエンと二人、しばらくぼんやりと辺りを眺めていた。確かに見えるものはいつも変わらない。やや上り坂となって広く広く続く青草の平原。下にたどれば遙か下方にシュマの村が見えるが、上にたどっていくと今度はじきに背の高い草が増え始め、やがて木々の多い茂る森へと姿を変える。そして森を越えたさらにその先には、そびえ立つ山々が見えるのだった。
 その山々こそが、シュマたちの暮らすこの「籠」と呼ばれる世界の、最も外に存在するものだった。「果ての山」と呼ばれるこの山々は、籠の最外層に籠をぐるりと取り囲んで円形に伸びている。果ての山に囲まれた籠はその実おわんのような形をしており、真ん中の辺りにシュマたちの住む村々が集まっているのだった。だから村々は、果ての山とそのふもとに広がる森、さらには今シュマたちがいる草原の、三者にぐるりと取り囲まれていることになる。
 それが人の暮らす籠の全てだった。だから果ての山とは、まさに籠の果てに立つ山に他ならず、同時に籠と神々の世界との仕切りの役目を果たしていた。
 果ての山を越えた先はもう、人ではなく神々のすまう世界――だから、果ての山の頂上には神の世界への入り口があるという。だが、一歩でも山に踏み入った者には神の裁きが下ると言われていた。だから山へ立ち入ることは掟で禁じられており、実際に果ての山を超えられた者をシュマは知らない。
「……ん、ユエン?」
 つぶやいた。ふと振り向いてユエンの視線が、ここから遠くに見える木組みのやぐらに向けられていることに気付く。
 草原を上っていった先に忽然と姿を現すそのやぐらは、森の始まる丁度手前の辺りに天高く建てられているのだった。それも一つではなく、森と草原との境界線に沿い、やはり籠をぐるりと取り囲むように幾つも配置されている。
 丸太をいくつも組み上げて作られた姿は、ここから見ても随分と立派なものだった。それにじっと目を向けながらシュマは口を開く。
「巫女って、大変だよな。ああやっていつもやぐらの上でさ」
「まあそれが仕事だからなあ。大変なのは皆一緒だろ」
 ユエンの軽い返答に、「そうかもしれない」とシュマは、ため息とともに吐き出した。
 やぐらは巫女のために建てられたものだ。神の世界になるべく近づけるようにと、その昔籠の端近くに作られたのだ。
 そのやぐらの上で神の言葉が降りてくるのを待ち、民全体にその意思を告げる――それが巫女の役目の一つだった。いつ何時神の言葉が降りてくるかはわからないから、巫女たちは交代で常にやぐらに詰めている。どのやぐらも、空になることは決してない。
(俺たちと一緒か。でも、責任はずっとずっと重い――)
 メルゥの細く白い姿を思い出す。あの小さな存在に、神なんていう大きな存在を背負っているのだと思うと、切ないような申し訳ないような気分になるのだった。当の本人はそんなシュマの心配をよそに、重責なんて関係ないかのようにいつだってのほほんとしていたが。
 むしろ、その辺りの重さはトエの方が感じていたかもしれない。今こそ元気にやっているようだが、一時は随分と萎縮してしまっていたという話を、後からメルゥに聞かされたことがある。
 そういえば、メルゥといえば――、
「おいユエン、メルゥのやつ寂しがってたぞ。ユエンは自分がいてくれて嬉しいと思ってんのかって」
「思ってる。当たり前だろ」
 軽い調子で言ったのだが、いつも飄々として軽い調子のユエンにしては珍しく、強い口調で返ってきてシュマは目を見開いた。やっぱりユエンもメルゥのことが好きなんだ――そう気付いて嬉しくなる。
「メルゥのやつ、何でまたそんなこと心配してんだか」
 呆れたように漏らすユエンを、シュマは軽く睨んだ。
「どうせお前が何か言ったんだろ。早く神になりたいとか何とか。そんなこと言われたら、自分とは一緒にいたくないのかって考えそうなもんだろ」
 肯定が返ってくるものと決めつけたセリフだったのだが、意外にもユエンは首を傾けてうーんと唸る。
「いやあ、神になりたいって言った覚えはねーぞ。思ってもない」
「じゃあ何て言った覚えならあるんだ」
「……早くこの世界から出ていきたいとは言った」
 それを聞いてシュマは呆れてしまった。この世界から出て行きたいということは、つまり神になりたいというのと同じ意味じゃないか。
「ったく……メルゥに謝っとけよ。誤解だってさ」
「そうだな、そうする」
 大人しくユエンはうなずいて、軽くため息をついた。そんな彼の横顔をシュマはちらりと眺め見る。以前と比べて少し痩せただろうか。こうして遊びに来たりして暇な風を装ってはいても、ひょっとすると彼は彼なりに忙しいのかもしれない。
「お前、最近そんなことばっかり言ってるよな。出て行きたいとか、そういうの」
「そうか?」
「そうだよ。昔はそんなことなかったのに、一年前ぐらいか? 急にさっさとここを出て行きたいって言い出して、それからずっとだ――何かあったのか」
 問いかけたが、ひょっとすると答えてもらえないかなと感じていた。ユエンはあまり自分のことは話してくれない。案の定、ユエンは少しの沈黙の後、「何もないさ」と視線を遠くに向けた。
「別に何があったわけでもない。ただ、何となく思ったんだ。狭い世界だなって」
「……狭い?」
「ああ。だってそうじゃないか? 世界の果ては、目に見えるあんなに近い所にあるんだぜ。見渡せるぐらいに小さな世界で俺たちは生きていかなきゃいけない。俺は出て行きたいよ、こんな狭くてつまんない世界」
「……」
 ユエンの目は、神の世界への入り口があるという、果ての山の頂上にじっと注がれていた。シュマは、その蒼眼をしばらく見つめていたが、やがて静かに目を伏せる。
 そんなに、狭いだろうか。そんなに出ていきたいと思えるほど、この世界は小さいだろうか。つまらないだろうか。
 シュマには、わからない。
「……ちょっと移動する。お前も手伝え」
「おい、シュマ?」
 ユエンがやや驚いた口調で呼んでくる。それには構わず、さっと立ち上がったシュマは、片指を口にくわえた。

 ピィ――――っ。

 指笛の音が、草原を揺らす風に乗って辺りに響き渡る。その途端、しばらく姿の見えていなかったニィがすっ飛んできた。その頭を軽く撫で、「移動しよう」と声をかける。
 すぐにクィルたちを追い立てにかかるニィに、駆け足でシュマも続く。ふと思い出して後ろを振り返ると、仕方ないなといった様子でユエンが立ち上がるところだった。
 狭い世界。そう言ったユエンの言葉が頭から離れなかった。
(何で、籠にいるままじゃ駄目なんだろう)
 確かに同じ日々が続くだけだけど、毎日少しずつ違って、季節も巡っていくのに。寒い冬が来てもまた春が来て、暖かくなっていく……それだけでは、不十分なんだろうか。
 そんなことをぼんやり考えていると、気付けばいつのまにかすぐ側までユエンが来ていた。隣を向くと、屈託のない笑顔がある。
「何ぼけっとしてんだ。ほら、さっさと行くぞ」
 ユエンはそう言って、シュマの肩をぽんと軽く叩いて側を通り過ぎて行く。わずかに遅れて、シュマは「ああ」と笑みを作った。
 そして、ニィとともにクィルたちを移動させようとしたその時、

「シュマ!!」
 
 唐突に、シュマのものでもユエンのものでもない声が響き渡った。高く遠くまで通る女性の声。その中に焦りのような悲しみのような切実な感情を感じ取った瞬間、シュマは声のした方向をがばっと振り向いていた。
「トエ?」
 やや戸惑った声をユエンが上げる。トエが、草原の上を駆け足でシュマたちの場所まで上がってこようとしているところだった。ずっと走ってきたのか足取りがおぼつかない。装束の裾を踏んで転けそうになっているので、慌ててシュマはトエの元に駆け寄った。
「どうしたんだよ、そんな切羽詰まって……」
 ユエンも追いついてくる。トエは、立ち止まってからもしばらくは息が切れて荒い呼吸を繰り返していた。あんまり苦しそうなのでシュマは「ゆっくりでいい」と声をかける。
 やがて、ようやく話せるようになったらしいトエがさっと顔を上げた。その瞳に映った思いの外強い光に、一瞬シュマはたじろぐ。
「シュマ、今から言うことをよく聞いて。お願いだから落ち着いて聞いてちょうだい」
「……どういうことだよ、それ」
 問い返した言葉は、思わず乱暴な色を帯びる。
 ふざけてる様子なんて少しもない真剣な眼差しに、追い詰められたような緊迫した声色。普段からトエは真面目な表情をしていることが多いというのを差し引いても、嫌な予感がした。胸の奥から沸々と沸き上がってくる、とてつもなく嫌な予感。
 メルゥがすっと息を吸い込む。覚悟を決めたようにシュマを見据えて口を開く。瞬間、その瞳に言いようのない悲しみが宿った。

「シュマ、メルゥが……」