二章(2)

「メルゥ……」
 部屋の入り口でユエンが微かにつぶやいて足を止めた。けれどその後、彼は意を決したように部屋の中へ踏み込んでいく。一方のシュマは寝台の上で横たわっている少女の姿を目に留めた途端、入口でぴたりと足を止めてしまっていた。
 これ以上間近でその様子を見る勇気などシュマにはなかった。それに、昨日も来たはずのメルゥの部屋は、まるで見知らぬ場所のように冷ややかだったのだ。そこに流れているのは、痛いほどに冷たく身を刺す空気だけ。
「そなたらか……」
 トエの来訪から一時間足らず――シュマとユエンは、クィルたちのことはニィに任せ、大急ぎでメルゥの家まで駆けつけたのだった。
 既に部屋の中にいたアガルが、暗い顔で深く息を吐き出す。ユエンはその横を一礼してから通り過ぎ、寝台へと近づいていく。
「メルゥ……本当に、そうなのか」
 寝台の少女へとそっと手を伸ばし、思い直したように引っ込めてユエンがぽつりと言った。どこか呆然とした様子で首を左右に振る。
「信じられないな、昨日はあんなに元気に笑っていたのに。メルゥが……メルゥが、亡くなったなんて――」
 メルゥが亡くなった
 空虚な部屋に落ちたユエンの言葉は、寒々しく響き静かにシュマの胸を刺した。シュマはその場に突っ立ったままうつむくことしかできなかった。
 今シュマは何て言うべきなんだろう。メルゥの顔を覗き込んで、神になれておめでとう――無理だ。言えるわけがない。メルゥが死んでしまったなんて嘘だと、本当はそう叫びたいのに。泣いてしまいたいぐらいなのに。
「メルゥ……どうして……」
 思わず漏れてしまったつぶやきに反応して、アガルがシュマに視線を向けるのがわかる。まずかったかとどきりとしたが、アガルは何の叱責もシュマには向けなかった。
 それどころか、暗い面持ちで疲れたようなため息を漏らす彼の様子をシュマは怪訝に思う。だがシュマが何か言うよりも先に、ユエンがさっと振り向いてアガルに声をかけた。
「長、そんな暗い顔をしていたらメルゥがかわいそうですよ。確かに会えなくなるのは寂しいですけど……でも、これでメルゥは神の世界に行けたんだ」
 やはりユエンだって寂しいのか、その笑顔は少し悲しみの混ざった複雑な色を見せていた。しかしそれでもユエンはアガルに向かって笑いかけてみせる。
 だが――なおもアガルはその彫りの深い相貌に影を落とし、力なく伏せるのだった。
「そなたら……トエから聞いておらんのか」
「え、何を……ですか?」
 戸惑った声をユエンが出したその時、アガルがさっと顔を上げる。その瞬間シュマは心臓がどきりと跳ね上がったのを感じていた。ユエンとシュマとを見渡した、その目のあまりの厳しさと呑み込まれそうな深さに。
「知らぬのか……。トエは、そこまでは言いづらかったのだろうな」
 意味深な台詞に、シュマがどういうことだと問い返そうとしたその時、
 
「あれは……メルゥは、病のために死んだのではない。あれは、自ら命を絶ったのだ――」

「え……?」
 問い返した声は、果たしてシュマとユエンどちらのものだったのだろうか。
 それすらもわからないほどに、シュマの頭の中は一瞬で真っ白になっていた。アガルの言ったことがシュマは理解できなかった。病で亡くなったのではない? 自ら命を絶った? それは――どういう意味だ。
「……どういうことですか」
 シュマの思いを代弁するようなユエンの言葉が聞こえてくる。驚いたことにその声は――震えていた。
 アガルが顔を伏せ、再びのため息を漏らす。
「今朝方メルゥの様子を見に行った家の者が、メルゥが動かないことに気付いた。最初は皆、メルゥが病のために神の元へ呼び寄せられたのだと思っておった。だが……」
 語り始めたその声は、シュマたちの様子とは対照的にひどく静かだった。
「そのうち一人が、メルゥの枕元に置かれた一枚の葉に気付いてな。ツァリの葉かとも思ったのだが、違うのだ……。大きさも形も全然違う上に、何より、あの独特な香りですぐにそれが何かは知れた……」
 アガルが自分の懐に手を入れ、一枚の葉を取り出して見せる。少し近づいてそれをのぞき込んだ途端、シュマはぎょっとして息を呑んだ。隣のユエンからも、言葉に詰まったような声が漏れ聞こえる。
 たった一枚だというのに、独特の強い臭いが鼻の奥を刺激する。この臭いそして特徴のあるギザギザの葉。間違いようもなくこれはファシャの葉―― 猛毒の・  ・  ・ 野草(・・)
「まさかとは思って、一応メルゥの口の中を調べたのだ。そうしたら……服用した形跡があると……」
 言葉を失ったシュマたちを見やって、アガルはおもむろにその葉を懐へ戻す。
 それきり黙りこんでしまった彼の沈痛そうな様子に、シュマは嘘だと叫びかけた言葉をのみ込んだ。行き場を失った声はかすれた息となって虚しく吐き出され、呆然としたままシュマは激しく首を左右に振る。
「そんな……だからどうして自害だってわかるんですか! 何かの間違いかもしれない! 大体、寝たきりで外に出ていないメルゥに、ファシャの葉を取ってくることなんて――」
 できるわけない、と言いかけてシュマははっとして息をのんだ。アガルとともに外に出かけた――昨日そう言っていたのは誰だ。
「私の、せいなのかもしれん」
 そう言ったアガルに、シュマは何も言い返せない。
「昨日、どうしてもツァリを見たいと駄々をこねるメルゥを背負って、森の近くまで歩いて行った。向こうに着いてからはメルゥの自由にさせていたのだが……思い返せば、あの辺りにはツァリと共にファシャも生息していた……」
 その時にこっそりファシャも摘んでいたのだと、そうアガルは言っているのか。だからメルゥは本当に自ら命を絶ったのだと。
 そんなこと、そんなこと――ありえるわけがない。
「嘘だ……! そんなはずない! そんな馬鹿な話があるわけない!!」
「シュマ」
 堪えきれずアガルに向かって声を荒げたシュマの肩に、諫めるようなユエンの手が伸びてくる。だがシュマは力任せにその手を振り払った。
 メルゥがこんなことになっても相変わらず静かなアガルにも、またシュマを止めてくるユエンにも、腹が立って仕方がない。お前達は平気なのかと、今にも怒鳴りだしてしまいそうなほどに、体の中が熱くて苦しい。
「何でだよ! メルゥが自殺なんて、ふざけんじゃねえ! ふざけてんじゃねえよ……だって、これじゃあメルゥは……っ」
 最後まで言い切ることはできなかった。シュマはあまりの感情の波に立っていることもままならず、足下から床へ崩れ落ちる。部屋に響いたシュマが床とぶつかる音は、悲しいほどに、軽い軽い音だった。
「くそっ……」
 力任せに拳で床を殴りつけたきり、シュマは何を言うことも叶わず黙り込む。握りしめた手は震えていた。
 シュマだけでなく、その場にいる三人の誰もが何も言わなかった。言わずとも、きっと全員がその先をわかっていた。シュマは沈黙の中で先ほど言いかけたセリフを反復する――もうメルゥは、神にはなれないのだ、と。
 人として籠での一生を終えた魂は、神の世界に昇って神になれる。ただしそれは、誠実に精一杯自分の一生を生きた場合のみと、太古の昔に女神は定めたという。生前に殺人などの重罪を犯した汚れた魂が、決して神界を穢すことなきようにと。
 そして、絶対にやってはならない禁忌がもう一つある。自分で自分を殺した場合、すなわち神から与えられた命の火を自ら消してしまった場合――神を裏切ったその魂は籠の地に縛り付けられ、永久に神の世界へ行くことは許されない。
 大罪を犯し神の慈愛に背を向けた魂は、永久に救われることなく、終わることなき責め苦を負って彷徨い続けなければならないと――。
「メルゥ……どうして……」
「どうしてかなど……もはやわかりはせぬ。メルゥはもう何も言ってくれぬ」
 アガルが無感情にぽつりと言った。そして座り込んだまま答えないシュマの元に、ギィっという足音が近づいてくる。
「それと同じように、メルゥの残したこの書き置きの意味など……そなたらにもわからぬのだろうな」
 その言葉に反射的に顔を上げたシュマの前に、すっと一枚の紙切れが差し出される。何かの書物の片隅を破ったような、そんなひどく古びた紙だった。
 それに、のろのろとした動作で目をやり、途端にシュマははっとした。そこに書かれていたのは、シュマが昔から知っている、やや小さな、けれど読みやすい丁寧な字だった。間違えるはずのない、メルゥの筆跡だった。

『ごめんなさい。
 でも、どうか私が私のままで、私の世界に在り続けるために――』

 思わず息を呑む。そして呑み込んだきり、もう言葉は一言だってシュマの口からは出てこなかった。
 アガルを見上げる勇気もなく、目の前の紙を見続けることもできず、呆然とシュマが窓辺に目を向けると、昨日シュマがメルゥにあげたツァリの冠が、一日経っただけでもう力なくしおれてしまっているのが目に入る。色褪せた花の冠は、所在なさげな様子でそこに無造作に置かれているだけだった。
 シュマはもう何に怒る気にも怒鳴る気にもなれず、ただただ唇を噛んで押し黙るしかなかった。そしてふと思う。手折られた花は何だかかわいそう――昨日そうつぶやいた少女は、自分自らその身を手折ってしまったのだと。
 同時にシュマの頭の中では、声にならなかった言葉がただただ虚しく響き続けていた。
 メルゥ、まさかお前は……≠ニ。