二章(3)

 後から思えばユエンだって、シュマと同じくらいどうしようもなくやりきれない思いを抱えていたはずだ。けれどシュマがようやくそれに気付けたのは、ずっと黙ったままだった彼が口を開き、「一人にしてくれないか」と押し殺した声で頼んできた時だった。
 その一言で、燃えるようだった体の熱は一気に冷め、後に残ったのは、自分のことしか考えていなかった申し訳なさと、受け止めるにはあまりある虚脱感だけだった。どうしようもなく、シュマの中は空っぽだった。
 そして逃げるように部屋を出たシュマが、記憶の中のものよりずっと重い扉をのろのろと押し開けて外に出ると、皮肉なほどにからっと晴れた空が広がっていた。
(そうだ……トエ、あれからどうしたろう)
 思考の回らない頭で、ふと彼女のことを思い出す。
 メルゥのことを聞かされた直後に、シュマはユエンと飛び出してきている。だから彼女のことはあの場に置いてきてしまっていたが、その事実は今の今まですっかり頭から抜け落ちていた。
 置いてきても大丈夫だったんだろうか。トエだって平気なわけがないと思うし、取り乱している風でもあった――。
「メルゥ様が自殺なんて、いったいどうなっているんだ! 教えてくれ!」
 唐突にそんな大声が耳に届き、シュマははっと現実へ引き戻されていた。同時に周囲の音も押し戻されてきて、先ほどからずっと騒がしく響き続けていた人々の声にようやく気付く。
 どうしたのかと視線を前方へ向け、思わずシュマは息をのんだ。
 メルゥの館の庭を貫く小道の先、そこに立つ門の周囲に群がっている、ものすごい数の人々が目に入ったのだ。
「こっちはわけがわからないんだ! 説明してくれ!」
「そうよ! 自殺っていうのは本当なの!?」
 訴える声が方々から聞こえてくる。その声とともに視界に入ってくるのは、あまりに巨大な人の群れだった。それらは一つの塊であるかのように一群をなし、そして、門の中へ踏み込もうと騒いでいる。
 何とかして追い返そうと、アガルの使用人らしき男たちが押しとどめているのが見えた。だが民たちの勢いは収まるどころか次第に混乱の様相を深めていく。ある男は今にも使用人につかみかからんとし、別の女は泣きそうな顔でわめく――そんな鬼気迫る様子に気圧され、シュマは知らず知らずのうちに後ずさっていた。
 すっかり失念していた。巫女は神から選ばれた存在。その巫女が自ら神となれない道を選んだというのだから、人々の衝撃は相当なものであるはずなのだ。おまけに、それがあのメルゥだというのだから――。
(まずいな、どうすれば……)
 落ち着かない様子で周囲に視線をやる。早くこの場を抜け出さないと、民たちが入りこんできたら自分まで巻き込まれかねない。
 でも門の辺りは人々で囲まれていて、とてもじゃないが出て行けそうにはない。こうなったら裏から垣根でも乗り越えようかと、シュマが足の向きを変えたその時、
「あ、誰か家から出てきたよっ!」
 突然、若い男の声が鋭く空気を切り裂いた。その瞬間何十もの視線が一気に自分へと向けられたのが肌の上で感じられ、なめるような感触にぞくりと鳥肌が立つ。
 今度こそ本当にまずいと思った。早く立ち去らなければと気が焦る。シュマを見つめる人々の様子は尋常でなくて、とても嫌な予感がしたのだ。
 そしてギッと木の軋む音がしたのは、その時だった。
「君! 何か知っているんだろう!?」
「――っ!?」
 いきなり聞こえた声の方向をぱっと振り返り、シュマは思わず目を見開く。視界に飛び込んできたのは、あろうことか柵を乗り越えて庭に入りこんでくる中年の男の姿。それがシュマ目指して駆け寄ってくるのを認めた瞬間、とっさに身を翻して逃げようとしたが、数拍の動作の遅れが明暗をわけた――気付いたときには既に追いつかれていて、伸びた男の手がシュマの腕を強くつかんでくる。
「君、今館から出てきたな? いったいどういうことなんだ! 説明してくれ!」
「……そんなの知るか! 俺だってわけがわからねえよっ」
 一方的にわめき立てる男に、無性に腹が立って乱暴な口調で返す。つかまれた腕を振り払おうとしたが、痛いほどに握りしめてくる手はびくともしなかった。
 その間にも、まるで男の後に続くように他の人々までもが次々と柵を乗り越えてくる。使用人たちの制止も意味をなさず、何十人もの人々が庭へとなだれ込んでくる。気を取られた使用人たちの隙をかいくぐり、門からも大勢が駆け込んでくる。そしてそれらの全員が――シュマ目がけて走ってくるのだ。
「何なんだよ! 俺だって何も知らないんだ!」
 あっという間に周りを取り囲み始めた人々の迫力に気圧され、シュマは無意識のうちに後ずさりながら叫んでいた。けれど握った男の手は、それ以上その場から離れることを許してくれない。
「メルゥ様が自殺って本当なの!? どうして!?」
「何かの間違いだろう? そうなんだろう!?」
「……だから、知らないっ!」
 口々に問い詰めてくるくせに、迫ってくる村人たちは少しもシュマの言葉なんて聞いていなかった。いくら「知らない」と繰り返しても、その言葉は人々の中に吸い込まれて消えていく。
 シュマは何とか抜け出そうと必死にもがいたが、右に避けても左に寄っても、後ろに下がっても前に進もうとしても、そこには誰かがいてシュマを阻む。気付けばとうに退路なんて失っていた。
「やめてくれ、苦しい……っ」
 取りすがってくる人々に挟まれて身動きがとれない。息が詰まって苦しい。
 危機を感じて叫んでも、人々の声は一向に止まない。人々の群れは憑かれたようにシュマへと迫り続ける。
「やめろ! 黙れ……!」
 喉の奥から掠れた声が絞り出た。顔が熱い。苦しさと焦りは次第に苛立ちと怒りに変わりつつある。
 やめてくれ、黙ってくれ。自分だって、メルゥがもういないなんて、自殺だなんてまだ信じられない。それなのに答えを求めないでくれ。答えられない、答えたくない――。
「放してくれっ! 本当に俺は関係な……」
 そして再び訴えたその時だった。ひときわ強い力でぎゅっと押され、息が詰まって言葉は途中で途切れる。
 途端に頭の中でけたたましく鳴り出す警鐘。空気を求めて肺が悲鳴を上げる。必死に人並みをかき分けようとしたがシュマは無力で、人々の姿で埋め尽くされた視界が次第に暗くなっていく。
(やばい……このままじゃ本当に……っ)
 人々の声が、意味をなさないただの音に変わりつつあった。
 ついには段々意識も薄れてきて、このまま押しつぶされて死んでしまうのではないかと、最悪の考えが頭をちらつき始めたその瞬間――、

「――静まりなさい!」

 荒ぶる人々の間をぬって響き渡ったのは、堂々とした少女の声。自身すらたたえた響きは人々のわめき声も何もかもを飛び越え、シュマの鼓膜を強く揺らした。
 同時に辺り全体を強く打ったそれに反応して人々の動きが一瞬止まる。その隙を逃さず誰かの手が伸びてきてシュマの両腕をきつくつかみ、あっという間に人々の群れの中から引きはがしていた。
 そのまま地べたに下ろされたシュマは、何がどうなったのかもわからないままに激しく咳き込む。猛烈な目眩で、座り込んだまましばらくは動けなかった。
 そして、ややあって辺りを見回したシュマは、門の側に立っている少女の姿に気付いたのだった。
「トエ様……」
 誰からともなく周囲からつぶやきが漏れた。人垣から数歩離れたところで、巫女装束に身を包んだトエが静かにたたずんでいるのだ。
 砂を踏みつける音がして横を振り向くと、いつの間にか二人の男の背中があった。シュマと人々との間にシュマを守るかのように立ちふさがっている彼ら自身には見覚えはなかったが、彼らのまとった服には見覚えがある。くっきりとした紺青の衣装――護衛衆の男たちだった。
 彼らとトエとを見比べ、今し方シュマを人々の中から助けたのは、この二人なのだと思い当たる。そこでようやく、ああ自分は助けられたのかと実感して体中から力が抜けていった。
 まだ呼吸をする度に喉が痛んだ。酸欠で点滅気味の視界にトエをとらえると、一瞬だけ視線がぶつかったが彼女はすぐに目を逸らす。
 そのまま彼女は民たちの方をじっと見据え、やがてゆっくりとその口が開かれた。
「何をしているのですか」
 まだざわついていた村人たちは、その一言で一気に押し黙った。
「この籠の創造に際して女神がお決めになったことを忘れたのですか。他人に危害を加えることは許し難い罪。それはいつ何時も変わらないのですよ」
 重々しく言葉を紡ぐその姿は、見た目はただの少女だというのに、どうしてか不思議な威厳に満ちていた。初めてみる幼なじみのそんな様子に、シュマは声をかけることもできず、他の者たち同様無言でトエに視線を注ぐ。
「あなた方の不安は理解できます。ですが、だからといってその不安に任せて他者を傷つけていいのですか」
 そう言って皆を見回したトエに対して、一人の男が人垣の中からおずおずと進み出た。見れば最初に柵を乗り越えてシュマに迫った男で、一礼してからトエに呼びかける。
「我を忘れていたことは反省いたします。ですが、本当に何が起きているのかわからないのです。メルゥ様のことは、本当なのですか……?」
 その問いが投げかけられた途端、皆の間にざわめきが走った。
 皆の視線が集まる中、やがてトエはおもむろに口を開く。
「巫女メルゥが自ら命を絶った。それは――真実です」
 「そんな……!」と悲鳴のような声が走り、シュマはどう反応していいかわからず顔を伏せた。騒ぎ始めた村人を制するように、トエが「しかし」と続ける。
「神に最も近い巫女が自殺などあるまじきこと。ましてや、あの誰よりも清く神に近かったメルゥに限ってそんなことが起ころうとは、とうてい信じられません。メルゥは、近い将来姉巫女となるはずでした。それほどに、彼女は誰よりも巫女として優れていたのですから」
 皆が押し黙る。それが同意の証だった。当然だった。強い力を持ちそして誰に対しても心優しいメルゥは、皆から随分と慕われ、巫女としても尊敬されていたのだから。
「ですから私たち巫女は、この出来事の裏には何かやむを得ない事情があったのだと考えています――メルゥは、罪など犯していないのだと!」
 その言葉に再び少しざわついたがすぐに収まり、皆は何も言わずにトエの言葉に耳を傾けていた。
 彼らの顔からは、誰もがメルゥの潔白を信じていることが強く感じられた。誰よりも神に近いと言われてきたメルゥの存在は民たちにとっては完璧なもので、そのどこにも罪などという言葉が入りこむ隙はないのだ。
 ようやくシュマも顔を上げてトエを見たが、直視はできずに視線を逸らす。
「何かメルゥにもどうしようもない事態が起こり、本人の意思とは関係なく此度の結果となってしまったのなら、メルゥに罪はないはずです。それなのに永久にこの地に縛り付けられるなど、私には哀れでなりません」
 トエが切れ長の目を少し伏せ、赤みがかった黒髪がさらりと流れた。
「哀れで、そして何とかしてやりたい。でも神に創られた道具に過ぎない私たちには、どうすることも叶いません。――ですが、まだメルゥには救済の道が残されています!」
 「救済の道」というところで、シュマは思わずはっと息をのむ。周りもそうだったようで、その音は大分増幅されてシュマの耳に届いた。
 救済? 罪人となったメルゥを救う方法があると言っているのか? けれどそんなことは、人の身では成し得ないことだ。神でもない限り――いや、そうか、神ならば――。
「私たち巫女は、きっと女神も私たちと同じように思ってくださるはず、と信じているのです!」
 トエがぐるりと皆を見渡す。
「太古にこの籠を創りだした際、私たちを哀れんで救いの道を用意してくださった心優しき女神なら、きっとメルゥのことも哀れんでくださるはず。そして、救ってくださるはずです!」
 響き渡る高らかな声。同時にその両手がさっと広げられる。
「メルゥが、自ら望んでではなく、仕方なくこの結果に追い込まれたというなら、私たちがそれを哀れと感じるように女神もこのことを憂いてくださるはずです。そして、救済というお慈悲をかけてくださるはずです!」
 トエがそう言い放った直後、群衆の中から「私もそう信じます」との声が上がった。それに続くように、「そうだ、メルゥ様が罪を犯されるはずがない」「女神様もきっと救ってくださる!」と、皆口々にトエに同意していく。
 人々の声が、トエを中心に扇のように広がっていった。さっきまでは混乱しかなかった人々の表情に確固とした光が見て取れる。
 その中心近くにいながらシュマは、どうしてかトエの差し出す希望に周りの人々と同じように応えることができず、座り込んだまま一人手元の冷たい砂をつかんだ。
 そんなシュマに気付くこともなく、皆は次々と顔を輝かせていく。
「メルゥの彷徨える魂を女神が救済してくだされば、メルゥは晴れて神となることができるはずです!」
 トエが一歩前に出る。人々の歓声を超えて、トエの声が高らかに響いた。異論を唱える者などいるはずもない。メルゥは救われるはずと、そして苦しみなく永久の時を生きることができるのだと、誰もが信じて疑わない。当たり前だ、それは文句のつけようなく完璧に幸福な終結なのだから。
 そう。幸福な――。
「今から、私は女神に伺いをたてる、神呼びの儀≠行うためにやぐらへと向かいます。他の巫女たちも皆そうしているはずです。真にメルゥに罪がないならば、やがて救いが下るでしょう。そして私たちは、そうなるものと信じています!」
 ひときわ大きな歓声が上がる。もう最初のように不安を訴える者など一人もいない。
 そして最後にトエは、静かに言い渡す。
「今回のことに限らず、何が起こっても不安がる必要などないのです。この籠の出来事は、全て神々がお決めになること。あなた方は、余計な考えにとらわれず、静かにその時を待っていれば良いのですから」
 止まぬ歓声の中、その言葉をシュマは複雑な思いで聞いたのだった。