二章(4)

「トエ……」
 シュマが眺める中、トエの言葉に納得した人々は次々にそれぞれの持ち場へと戻っていった。気付けばシュマ一人がその場に残っていて、顔を上げると門の側にたたずんだままの彼女と目があう。
 その名をつぶやくと、トエはゆっくりと庭に立つシュマの元へ歩を進めてくる。そこでようやく、ずっとシュマの側に立っていた護衛集の男たちは、シュマから離れ静かにトエの背後へと戻っていった。
 その様子をぼんやりと眺めていた後で、シュマは軽くため息をついて口を開く。
「さっきは助けてくれてありがとう。……後ろの人も、ありがとうございます」
 そう言って、トエの後ろに控えている二人を見ると、彼らは無言で一礼してきた。
 トエは「何でもない事よ」と笑顔を作る。そんな彼女を、シュマは気後れに似た思いを抱いて見つめていた。
 どうしてトエはこんなにも落ち着いていられるのだろう。ついさっきまでは、置いてきて大丈夫だったのかと心配していたはずなのに、その彼女にシュマは助けられたのだ。
 人々の前で臆すこともなく語り、騒ぎを静めた彼女の姿は、シュマにはまるでトエでないかのように映っていた。泣き虫で泣いてばかりいたかつて少女の面影はそこにはない。
「……お前、すごいな」
 知らず知らずのうちに長いため息を吐いていた。トエは苦笑する。
「そりゃあ、私だって最初は驚いたし悲しかったわ。でも私は信じているもの、彼女が罪を犯すはずがないって。罪がないならメルゥは神になれる。それなら、結果的にはその方が幸せでしょう?」
「……」
 死こそは救い。それはこの籠においては当たり前の考えだったが、シュマはそれに素直にうなずいていいのかわからなかった。
 確かに、そうなのかもしれない。あのままずっと、いつ切れるともしれない生を寝たきりのまま過ごすより、神となった方がずっと幸せなのかもしれない。でも――……、
「納得できない様子ね」
「……」
 見透かされたようなセリフ。シュマは視線をずらしてうつむいた。
「何だろうな、何が最善なのか、よく分からなくなって……」
 最初は、救われないという事実に皆と同じく衝撃を受けたシュマ。
 けれどアガルにメルゥの置き手紙を見せられてから、その心は揺れている。

 私が私のままで、私の世界に在り続けるために

 アガルにはその意味はわからなかったのだろう。ユエンも気付いたかどうかは微妙なところ。けれど昨日メルゥとあんな話をしたばかりのシュマは、それを見た瞬間に意味するところを理解してしまったのだ。
 シュマの考えが正しいとすれば、メルゥは――、
「トエ……ここじゃ、駄目なんだろうか」
「え?」
 唐突なシュマの言葉に、トエが驚いたような顔になる。体の中に熱を感じて、シュマはぎゅっと拳を握りしめていた。
 先ほどの人々の群れの中で、ずっと感じていた息苦しさを思い出す。迫られていた間だけではない。トエの言葉で人々が静まり歓喜に満ちてからも、やりきれない思いがシュマの中に溜まっていた。
 どうして――どうして、皆あんなに喜べるのだろう。メルゥはもう死んでしまった、その事実は変わらないのに。神になるのは、そんなに喜ばしいことだろうか。
「籠の中はそんなに不幸だろうか。ここで生きていくんじゃ駄目なのか。何でみんなそろいもそろって死んで神になった方が幸せって……俺は……っ」
「シュマ、それ以上は言っては駄目!」
 言葉の溢れかけたところにトエの鋭い静止が入り、思わずびくりと口をつぐむ。
 顔を上げるとトエの厳しい顔があった。その様子にはっとして、するすると熱は冷めていく。
「言っていいことといけないことがあるわ。それを誰かに聞かれたらどうなるか、わかっているの?」
「悪い……つい……」
 力なくうなだれたシュマに、トエがため息をつく。
「いいわ、もう一度よく考えてみて。何が最善なのか、何がメルゥにとって本当に幸せなのか。自分は何を信じるべきなのか。――あなたにできることも、まだ残っているのだから」
「……え?」
 最後に付け加えられた意外な言葉に、やや驚いてトエを見返すと、その時には既に彼女はシュマの横を通り過ぎて立ち去ろうとしていた。その後を、護衛衆の二人が影のように付き従う。
「俺に、できる……こと?」
 そんなものがまだあるのかと、つぶやくように問い返したが、もうそれに対する返答はない。その代わり、トエはふと立ち止まってシュマを振り返った。
「ユエンはどうしたの? 一緒ではないのね」
「あいつは、まだメルゥのとこに残ってる……相当落ち込んでる感じだった」
「そう――。長にお会いするついでに、ユエンとも話してくるわ」
 そう言ってトエは再び前に向き直り、そのままアガルの館へ向かって歩いて行く。

 バタン。

 トエの姿が館の扉の中へ消えていき、やがて重苦しい音がして扉が閉まる。その様子を眺めやってシュマは深いため息をついた。
(俺に、できること……?)
 そんなものがまだ残っているとは思えない。だって自分には何もできなかった。メルゥがこんなことを考えていたのだと、少しも気付くことはできなかったし、今もどうしていいのかなんてわからない。
 トエの言う通り、神からの救いを待つ――きっとそれが正しい選択肢なんだろう。でも、もし本当に救いが下ったとして、シュマはそれを喜ぶことができるだろうか。
(俺は……)
 多分、できないのだ。皆のように、メルゥが神となるのを素直に喜んでやることなん自分にはできない。だって、彼女はもうこの世界のどこにもいない。神になれたとしても、シュマの側にはいない。シュマはメルゥに生きていてほしかった、本当に、ただそれだけだったのに。
 それにシュマの考えが合っているとすれば、メルゥはやむを得ない事情で自死に追い込まれたのではなく、本当に――。
(何やってるんだ俺。こうやって、立ち尽くすことしかできなくて……)
 何もできない自分が悔しくて情けなくて仕方なかった。トエは立派に役目を果たしているというのに、自分のこの醜態は何だろう。心配されて、怒られて、みっともない。
「俺、どうしたらいいんだろうな……なあ、何でもういないんだよ、メルゥ……っ」
 そして誰も聞く者のないつぶやきは、静かに虚空へと消えていく。