二章(5)

 夕闇の迫り始めた頃合い、ある部屋の前に一人の若者が立った。その手の中の行灯の灯火が、若者の顔に複雑な紋様を揺らめかせている。
 若者はしばらくその場に立ち止まっていたが、やがてすっと息を吸い込んでおもむろに扉を開く。室内は何があるのかはっきりとはわからないほどに薄暗かったが、その奥に色濃く影の集まった場所があるのが見て取れた。若者は後ろ手に扉を閉めてから、その影へと口を開く。
「いかがされますか」
 寒々とした暗い部屋に声が響く。その年若い声色の問いに、部屋の奥の影がすっと動いた。
「あれをやるしかあるまい。神に選ばれし巫女が罪を犯すなどあってはならないことだ。このままでは、民らの不安が収まらぬ」
「……承知いたしました」
 よく見ればその影は男の姿を呈していた。若者の年若い声とは対照的に、男から聞こえた低い声はやや老齢の響きを含んでいる。その声に反応して、若者は静かに頭を垂れた。
 それより少しおいて、室内の黒い闇に吸い込まれそうな深いため息が、若者の耳に届く。
「まったく……本当に余計なことをしてくれたものだ。結局は自身の責任を理解できなんだということか……」
「……」
 今度は若者は何も答えなかった。けれど、つぶやいた男は返答など最初から期待などしていないようで、気にした風もなく「さて」と若者の方へと向き直る。
「となれば、一人ほど生け贄が必要だな。それについては、今朝方使用人が耳よりな話を持ってきておる」
 その言葉に、若者は訝しげに顔を上げた。一方で、男は意味ありげな視線を部屋の隅へと向ける。
「そういうわけで、生け贄は決まりだが、まあそなたの耳にも入れておこう。――もう一度、話してくれるか?」
 最後の言葉は若者にではなく、視線の先の影へと向けられたものだった。そこにはいつからいたのか、髪を結い上げた一人の若い女性が控えていて、無言で頭を下げる。
 それを見て取り、再び男が若者へと向き直った。微かに存在する光の中、男の彫りの深い顔にはひときわ濃い闇が溜まって見える。
「……ただ、のんびりと話を聞く前に、手はずは整えておかねばならぬ」
 男の声色が、いっそう厳しい色を帯びた。
「至急、 三色衆(さんしきしゅう) の詰め所へ指示を出すように。今すぐにだ」
「承知いたしました。して、何を」
「護衛衆には数人をこちらへ向かわせよ。伝令衆には、巫女たちの長である姉巫女の元へ遣いをやるのだ。そして用務衆には――民集めの鐘≠鳴らさせよ」
 男は重々しく命じる。
 三色衆――紺の衣をまとって長や巫女たちの護衛及び民の保護を行う護衛衆、長から村長や巫女への伝言や呼び出しに働く、緑の衣の伝令衆、そして、雑務を行う茶染め衣の用務衆とを合わせてそう呼ぶ。長アガルの指示の元で働く者たちの総称だった。
「……民集めの鐘、ですか」
 若者が問い返すと、男はうなずいた。
 民集めの鐘とは、中ノ村の中央部にある鐘楼に取り付けられた、大きな鐘の名前だ。
 民全体に知らせる事柄があるときに打たれ、この鐘を聞いた者はすぐにアガルの館の前に集まらなければならない。さらに、鐘の音の届かない遠くの村へは、伝令衆による伝達が行くことになっている。
「そうだ。民の心は荒れている。なるべく早くこの籠に安寧を取り戻さねばならぬ」
「……」
「だから今夜、鐘を鳴らし民を集めさせるのだ。そこで民に告げ知らせ、混乱を収める。――無論、この長アガルの権限の元で」
 その言葉に、若者は再び頭を下げる。それを了解の意ととり、籠の長である男はもう何も言わなかった。
 窓の外では本格的に深まり始めた闇が首をもたげ、次第に辺りを覆い尽くそうとしていた。