籠庭の詩
三章 深き闇の淵(1)
「シュマ、夕飯ができたよ。おいで」
「……今はいいよ」
寝台の上に腰掛けて、何をするでもなく壁の木目を眺めていたら、寝室の入り口からひょいと母タブサの顔がのぞいた。そのはずみに微かにふいた風で、横の棚に置かれた行灯の炎が少しだけ揺らめく。小さな火で照らされているだけの室内は暗かったが、それはいつものこと。変わらない夜の姿だ。
心ここにあらずといった感じの返答に、母は少し心配そうな顔になった。遅れてため息が聞こえてくる。
「あんたはいつまでそうやってうじうじしてる気だい。今は巫女さんたちの知らせを待つしかないって、さっき自分で言ったじゃないか」
「……わかってるさそれは」
「なら、シュマ」
「でも……今は放っておいてくれ」
少しだけ強い調子で返すと、母は困ったようにしばらくその場に立っていたが、やがて諦めたように背を向けて隣の食堂へと戻っていった。「シュマはどうした」「今はいらないって」「何やってんだあいつは……」という、母と父の会話が聞こえてくる。この家は寝室と食堂が扉なしで繋がっているから、食事を始めようとしている家族の声が良くわかるのだ。
(ほんと、何やってんだろな、俺……)
力なく背中から寝台に倒れ込むと、天井の様子が目に入ってくる。天井だけならシュマの家と大差なく、家族の声と合わせてまるで家に帰ってきたような気分になり少し安心する。気休め程度では、あったけれど。
そう――ここは、シュマの家族が普段住んでいる家ではなかった。メルゥの話を聞いた両親と兄弟たちまでもが、いつの間にか中ノ村にやってきており、幸運にもシュマは彼らとばったり出会うことができた。そして今夜は全員で中ノ村の叔母の家に泊まることになり、今に至る。
叔母が一人で住んでいる家に、シュマと両親そして妹と弟の五人が押しかけると、ちょっとどころではなく手狭だった。何も家族全員でやってくることはなかったのではと思うが、メルゥのこととなると他人事ではいられなかったのだろう。
いつもと比べて家族の口数は少なかったが、シュマほどにはメルゥの死を実感していない分、まだその雰囲気は明るい。特に幼い妹なんかはあまり事態をよく理解していないらしく、久しぶりに叔母に会えて無邪気にはしゃいでいた。
だからシュマはどうにも、その団欒の中に入っていく気にはなれなかったのだ。
「メルゥ……」
あれから何度つぶやいただろうその名前を再び繰り返したが、そうしたところで振り返ってくれる少女はもういない。それなのに、シュマの中の彼女はまだ穏やかに微笑んでいるのだ。昨日、「来てくれてありがとう」と嬉しそうに笑ったように――。
「くそ……っ、こんなとこで腐ってる場合じゃねえってのに……俺は……」
体が重くて何をする気にもなれない。頭の中では、ただ朝から今までの出来事がぐるぐると回り続けている。
寝転がったまま、投げやりなため息を吐き出したその時だった。ぱたぱたと、軽い足音がシュマの耳に飛び込んでくる。間髪開けず、元気な舌足らずの声が聞こえた。
「お兄ちゃん! ごはん食べようよっ」
「さ、サシャ?」
シュマと同じ焦げ茶の髪。それをおさげに結った幼い少女の姿が、部屋の入り口にちょこんとのぞいたかと思うと、あっという間にシュマの元へと駆け込んでくる。そのままぐいぐいとシュマの腕を引っ張ってくるので、しばらくあっけにとられてしまった。
てっきり隣で皆と食事しているものだと思っていたのに、いつの間に。
「いっしょにきてよ、お兄ちゃんっ。サシャ、お兄ちゃんと一緒にごはん食べたい」
「えっと、サシャ、俺は……」
今はいらない、と言いかけたところで、みるみるうちに少女の顔が曇っていく。幼い大きな瞳には、よく見れば水滴が溜まっていた。
結局、シュマは妹のそんな顔に負けた。
「……わかった、食べるよ」
口先まで出かけていたセリフを急遽変更し、思わず苦笑してから身を起こす。けれどその後で、結局のところは無理矢理にでも起こしてもらって良かったのかもしれないと思った。ふさぎ込んでいたところで、何がどうなるわけでもない。
「ありがとな」と声をかけると、妹のサシャはお日様のような笑顔を見せる。気付けば入り口にはほっとしたような表情の母の姿があった。一度は向こうに戻ったものの、やっぱりまだ心配していたんだろう。
「今行く」と言ってからシュマが立ち上がり、美味しそうなにおいの漂ってくる隣の部屋へやっと足を向けたその時、
――カンカンカン、カンカンカン、カンカン――……!!
「え……?」
突然耳に飛び込んできたその音に、シュマは息を呑んで動きを止めた。母もはっとして窓の外へ視線を向けている。穏やかになりかけていた雰囲気が、再び堅いものへと変わっていく。
カンカン、という音はまだ続いていた。耳を澄ませるまでもなく鼓膜に飛び込んでくる、甲高い鋭い音。
「お兄ちゃん、これなに……? 怖い……っ」
妹が怯えた声を出してしがみついてくる。そんな彼女に、シュマは「大丈夫だ」と言い聞かせた。
「これは……」
くっついて離れない妹の背中をなでながら、シュマはごくりと生唾をのみ込んだ。嫌な音だと思った。まるで何かの警鐘のような、不快な音。それが耳に入ってくるのと同時に頭の中で反響する。
「民集めの、鐘の音――……」
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