三章(2)

 民集めの鐘が鳴らされし際には、健全な体を持つ者は皆、長の館へと集うべし。それは昔から存在している籠の掟の一つだった。
 シュマたち家族はその掟に従い、鐘の音からいくらも経たずに家を出た。だが当然そうしたのはシュマたちだけではなく、アガルの館までの道はすさまじい人の数でごった返していた。
 中ノ村の大通りでは、道の端で灯された幾つものかがり火が鮮やかな赤色を放っている。その中をシュマは人々の群れと共に、のろのろとアガルの家まで向かっていた。家を出る時は家族も一緒だったのだが、生憎のこの人混みの中、気付けばシュマは一人になっていた。
 今までにも数は多くはないが鐘が鳴ったことはある。けれど中ノ村から最も遠いシュマの村には、到底鐘の音は届かない。だから毎度毎度伝令から伝え聞くだけだったシュマにとって、民集めの鐘の音を実際に聞くのも、その後アガルの館へと集まるのも初めてだった。
 昼間の騒動でさえシュマは面食らったが、今のこれはそんなものの比ではない。鐘を聞いた人間のうち動ける者は皆集まってくるのだから当然なのだろうが、こんなに大勢が一所に集まっている光景なんて初めてのシュマはただただ圧倒されるしかなかった。
 だからそんな状況下で、前方の人混みの中に見知った後ろ姿を見つけたのは、本当に奇跡に近かったかもしれない。
「おいっ……ユエン!」
 張り上げた声は、周りのざわめきにのまれながらもかろうじて届き、振り返ったユエンは一瞬目を丸くした。
 それから人波をかき分け、何とかシュマの側までやってきたユエンにシュマは笑いかける。朝に二人でメルゥの所までやってきてから、一日もたっていないのに随分と久しぶりな気がした。
「シュマお前、まだこの村にいたのか」
「叔母さんの家に泊まってた。ユエンこそ」
 ユエンが住んでいるのも中ノ村ではないから、彼もどこかに泊まっていたのだろうと察したが、「いや」とユエンは首を振る。
「俺、少し前から中ノ村に住んでんだ。あれ、言ってなかったっけ?」
 思いがけない話に、シュマは「えっ」と素っ頓狂な声を漏らしてしまった。
「全く聞いてない。何で、急に引っ越しなんか」
「んー、その方が仕事の都合が良かったからなあ。俺んち、一人暮らしの割に家結構でかいんだぜ、今度遊びに来いよ」
 そう言ってにやっと笑う彼は、もう落ち込んでいる様子はなく、いつものように飄々とした雰囲気を漂わせていた。シュマはほっとすると同時に、よくわからないもやもやとした感情がちらりとよぎる。ユエンも、トエのように割り切ってしまえたんだろうか、と。
 そうだとしたら結局、自分だけが取り残されているんじゃないか。
「で……集められたのは、やっぱあれかな」
 露骨に口にする気にはなれず、濁しつつユエンに尋ねる。彼からは「だろうな」とだけ淡白な返答があった。
 いつの間にか人波に流されて、ユエンと出会った場所からはとうに遠のいていた。辺りを見回しても人々の頭しか見えなかったので、シュマたちは何とか人々のわずかな隙間をぬい、かろうじてアガルの館の門が見える位置まで移動してくる。
 しかしいつの間にかユエンの姿が見当たらなくなっており、「おおい」と呼びかけた次の瞬間、シュマのすぐ横からにゅっといたずらっぽい笑顔がのぞいていた。あんまりいきなりのことで面食らいつつ、「なんだ」とシュマは漏らす。
「お前ちゃんとついてきてたのか。はぐれたかと思ったぞ」
「まーね。実はすぐ後ろついてきてる友人に、全く気付かない誰かさんみたく俺トロくないし」
「うっせえ。人のことからかう暇あったら、まず初めにその口閉じとけ」
 少々荒っぽくなったなったシュマのセリフは、どうしてか思いの外辺りに響いてしまった。その自分の声の残響にびくっとして初めて、いつの間にか人々が静かになりなり始めていることに気づき、ユエンと二人で顔を見合わせる。少しだけ笑えた――こんな状況だから、いつもの軽口に救われた気がする。
 その時だった。一瞬辺りにざわめきと緊張が走る。隣でユエンが「来たぜ」と小さくつぶやいた。
 背伸びをしつつ目を凝らすと、アガルの館から出てきて列を成し、庭の中を真っ直ぐ門に向かって歩いてくる者たちの姿が見えた。
 列の歩みにともない、次第に周りの空気が凝縮されていくような感覚を受ける――いよいよ始まるのだと、そうシュマは握りこんだ手に力をこめた。
 人々の列はゆっくりと近づいてくる。最初はぼんやりしているだけだった列の様子は、次第にはっきりとシュマの前に姿を現し始める。先頭はこの籠の長アガルと、並んで歩く白髪の老女――巫女たちの頂点に立つ、姉巫女の女性。
 そして、
(トエ……)
 彼らの後ろに控えるように、数歩離れて付き従うトエと護衛衆の男たちの姿がある。トエの表情は遠すぎてよく見えなかったが、まとった雰囲気は姉巫女と同じ、神の言葉を通して籠を導く巫女のそれだった。
 やがて彼らは門の数歩手前で立ち止まる。そしてアガルの口がゆっくりと開かれた。

「皆、今宵はよく集まってくれた」

 低く落ち着いた声が辺りに重く響く。民衆はその一声だけで静まりかえり、しん、と両肩にのし掛かってくるような沈黙にシュマは一人固唾をのんだ。
「まずは鐘の音に迅速にはせ参じてくれたこと、誠に礼を申す。皆に集まってもらった理由は既に存じておろう――今朝方、とても悲しい事態が起こってしまった」
 そこでアガルは言葉を切る。悲しい事態、と言いつつも彼は冷静そのもので、その瞳の奥を見透かすことはできなかった。その様子の中に、昼間の狼狽っぷりなどもはやどこにも見当たらない。
 そしてアガルは横に立つ姉巫女を伺い見る。長と姉巫女二人の視線が重なった直後、心得たという風に姉巫女はうなずき前へと一歩進み出る。今度こそ辺りは完全な沈黙に包まれた。
「此度の知らせは、誠に信じがたいものでありました」
 衣擦れの音と虫の羽音ぐらいしか聞こえない虚空に、彼女のしゃがれた低い声はよく通った。
「我が同胞でもあった巫女メルゥは、誰よりも清く信心深くございました。故に、その彼女が自死したなどという事実はとうてい受け入れられるものではありませんでした。だから (わたくし) ども巫女はすぐに、彼女には何かやむを得ない事情があったに違いない、という意見に達したのです。この辺りは、既にトエから聞いた者もあることでしょう」
 姉巫女の、アガルのそれとは違う、けれど同種の厳しさを持った薄灰色の瞳が民衆を見渡す。一見穏やかで露骨に厳しさを表に出すことは決してないが、その目の奥底は誰よりも冷たく澄んでいる――少なくともシュマにはそう感じられる。
「メルゥが自ら罪を犯すことなどあるはずがない。この結果は、彼女自ら望んだものではない。そう信じたからこそ (わたくし) どもは、 女神(にょしん) にお伺いをたてたのです
 ――そして、つい先ほどの刻、巫女トエの元へと念が下りました。女神は答えをくだされたのです」
 姉巫女の台詞が途切れた次の瞬間だけ、人々の声も風の音も全てが静止し、完全な沈黙が訪れた。自らの名前が呼ばれても、トエは身動き一つせずに姉巫女の後方にたたずんでいた。
 そんな中シュマ自身の固唾をのむ音が、ありえないくらい強くシュマの耳に届く。そして再び、姉巫女の声が響き渡った。
「女神の示された答えは一つ――巫女メルゥは、自ら望んで自死したのではありません!」
 ――わずかな沈黙。そして次の瞬間、爆発するような勢いで人々から歓声が弾け飛んだ。鼓膜をつんざく音響にシュマの胸はびくりと跳ね上がる。
 神の答えは出た。メルゥはやむをえずあの結末を迎えた、それが真実――。
「あの信心深い彼女に、背徳の道へと向かわせるほどの事情とはいったいいかなるものや、それはここでは何も言いますまい。ただはっきりと申し上げておきましょう。巫女メルゥは、罪人になど成り下がってはおりません!」
 周りはたちまちのうちに民たちの歓喜に包まれた。明るい声が輪のように広がっていく。手を叩いて喜び合っている者も、抱き合っている者もいる。
 その中でただ一人シュマは、足下がぐらつくような感覚を覚えていた。
(俺も、喜ぶべきなんだ)
 それが当然なのだ。そう思うのに、体は上手く動かない。もやもやとした思いは胸の奥にたまったまま、ぎゅっと締め付けてくる。
(なのに、どうして……)
 視線のやり場をなくして横を向く。隣に立つユエンの表情は、陰になってよくわからなかった。
 ――これでいいのだ。シュマはそう自分に言い聞かせる。これでメルゥは晴れて神になり、もう病で苦しむこともない。それはきっと彼女にとって幸せなことだと、そう思い込もうとしたその時、

「――しかし、メルゥはまだ救われると決まったわけではありませぬ」

 人々の喜びの隙間に、ふいに飛び込んできた姉巫女の声があった。すっかり祝杯気分になっていた人々の動きがぴたりと止まる。恐る恐る前を向くと、姉巫女の厳しい顔があった。
「確かに、メルゥが自ら望んで罪を犯したわけではないと、神はお認めになられました。――ですが、それだけでは彼女は神にはなれないのです。皆、今から言うことをよく聞いて下さい。喜ぶのは、まだ早いのです」
 溢れていた喜びの声は熱を下げ、次第に不安げな色を帯びていく。それはシュマにも伝染し、落ち着かない吐息を吐き出させる。シュマは思わずユエンの方を振り向いていた。
 けれどユエンはそんなシュマには気付かず、ただただ姉巫女の方をにらむように見つめている。その瞳はどうしてかひどく冷たく見えた。
「これから告げることは、恐らく多くの者にとって初めての事態となるでしょう」
 低い声が、人々を鎮めるように通り抜けていく。
「しかし恐れる必要はありませぬ。神が示してくださった道に、間違いなどないのです。だから貴方方は皆、神の思し召しに従えば良い、それだけなのです。それはいつ何時とて変わらぬ、この籠の在り方です」
 人々は固唾をのんで姉巫女を見つめている。不安の色を深める者もいれば、真剣な眼差しでうなずく者もいる。
 そんな皆の様子を確かめるかのような重い沈黙。
 そして緊張の中、姉巫女の声がその場全体に響き渡る。
「巫女の長たる姉巫女として、この籠の創造主尊き女神の御名においてここに宣します。

 ――古き神化の儀式を、今一度この籠に再来させんことを」