三章(3)

 ひんやりとした風がシュマの側を駆け抜けていく。シュマは長袖で来なかったことを後悔していた。春になったとはいえ、夜はまだ上着が必要なくらいに寒い。
 だが外気に触れている腕に鳥肌を感じたのは、寒いからというただそれだけの理由だったのだろうか。
「神化の儀式? 何だ、それ……?」
 初めて聞く言葉。思わず漏らしたシュマの声には、隠しきれない不安の色がにじんだ。シュマだけではない、皆が皆不安げな表情で顔を見合わせあっている。その感情はさざ波のように民たちを揺さぶり、波紋は広がっていく――、
「――お静まりなさい。荒ぶる必要はありませぬと、そう言いましたでしょう」
 姉巫女の、静かだがそれでいて鋭い声が人々の間をぬい、数人がびくりと反応した。やがて漏れ聞こえていた民たちの声はするすると引いていく。
 そうして再び訪れた静けさを確認するように、彼女は冷ややかともとれる目で群衆を眺めやった。
「神化の儀とは、何百年の前に存在していた儀式の呼称。それは、その名の通り神になるための儀式です。ただし、死者がではありません――これは、 生者が死ぬことなく神になる・・・・・・・・・・・・・ ための儀です」
 ――ざわり、と胸の中がざわついた。
 よく意味がわからない。人は生きたままでは神界には昇れないと、シュマたちは今まで教えられてきたのだ。
 民たちの瞳が揺れる。だがその不審が形をなす前に、なだめるように姉巫女の声が通り抜けていく。
「人は死すと神となる。これは大昔に女神が定められた私たちへの救い。ですが、一つだけ生きたまま神となる方法があります。
 それが神化の儀――この儀において神々の下される試練を乗り越え、自身が神にふさわしいことを示せば、特別にその身のまま神界へ昇ることを許されるのです!」
 気付けばシュマの額を冷や汗が伝っていた。その口で語られるのは、あまりに途方もない話だった。
「その昔、過去に類を見ない大凶作の年がありました。その時なす術もなくなった民たちを救うため、一人の巫女が自ら神となることを女神に願い出ました。彼女の願いは聞き届けられ、女神は儀式に臨むことを巫女に命じました。彼女はそれに従い試練を受け、そして認められ神となり、民たちを救ったのです」
 もう一言として辺りからは聞こえてこない。皆が皆、息を潜めて話に耳を傾けている。
 そして不安と期待の入り乱れた重苦しい沈黙の中、姉巫女の口だけが静かに動く。
「――そして、この度メルゥが救われるためには、再びその儀式を執り行う必要があるのです」
 静寂に落とされた言葉。辺りの空気が一気に濃縮され、その様子を薄灰色の瞳が冷ややかに見やる。
「メルゥは確かに自ら罪を犯してはいません。ですがいかなる理由があろうと、自死という罪を犯してしまった事実は消えません。だから神は告げられました――罪の事実がある以上、このまま彼女を救うことはできないと」
 その瞬間周囲から悲痛な声が飛び出した。ふいに破られた沈黙の上に重なったのは、「ですが」という姉巫女の強い声だった。
「ですが、それではあまりに彼女が不憫。そこで女神は、ある約束をしてくださいました。この籠の人間が誰か一人神化の儀に臨み、無事に神の試練を討ち果たせば、その者を神とすると! ――そしてその暁には、その者にメルゥを救う力をも与えて下さると!!」
 彼女が高らかに言い放ったその直後に悲鳴は止んだ。見渡せば皆のはっとした表情。凍り付いていた空気の中、彼女の言葉の意味はじわりじわりと浸透していく。
 そして何度か彼女の台詞を反復し、シュマはようやく理解した。
 ――これは、罪の償いだ。
 メルゥもう魂だけの存在で、この地に縛られどうすることもできない。そのメルゥの罪の償いを、他の誰かが代わりしなければならないのだ。そして、その者が儀式に成功すればメルゥの罪はなかったことにされ、儀式に臨んだ者ともども救われるのだ。
「お喜びなさい、そして感謝いたしましょう。女神はやはりメルゥを見捨てるようなことはなさらなかったのです。こうして救いの可能性を与えてくださったのです!」
 じわり、と再び辺りの空気が熱を帯びた。誰か一人が歓声を上げたのを皮切りに、なりを潜めていた歓喜が氷が解けるように人々の顔に灯っていく。
 その中でシュマはひっそりとうつむいた。確かに可能性は与えられた。だが、
(いったい、誰が儀式に向かう)
 シュマの心に唐突に疑問が落ちた、その時だった。
「――さて、問題は誰が儀式に赴くかということです」
 見計らったかのように飛び込んできた、静かな姉巫女の台詞。シュマははっとして耳を澄ませる。心臓は早鐘を打ち始めていた。
「誰が赴くかは、既に女神がお決めになっておられます。今告げた神託が下りしおり、神はそのこともお伝えになったのです!
 女神が選ばれたたった一人、それは――」
 耳を傾けながら、シュマはじっと姉巫女を見つめる。そしてシュマの視界の中で彼女はゆっくりと首を動かす――その次の瞬間、突然心臓がびくりと跳ね上がった。彼女の視線とシュマの視線とが、ぶつかったような気がしたのだ。
(俺を、見てる……?)
 一瞬のことだと思い、一旦視線を逸らしてから再び顔を向ける。でも変わらない。感情の見えない瞳二つが、真っ直ぐにシュマを見ているように感じられる。
 どうして、とつぶやきかけてはっとした。シュマを見ているのではない。シュマではなくて、本当に見ているのは、
「お前じゃ、ないのか。ユエン」
「……」
 つぶやくように隣へ放った言葉に、返答はなかった。
「儀式に選ばれたのは――お前なんじゃないのか」
 姉巫女は間違いなくシュマの近くを見ている。けれどざっと見渡しても、メルゥと特別関係のあった人間は見当たらない――ユエン以外には。
「お前は、メルゥの恋人だった。あいつのすぐ側にいた。それに、神になる器だって十分備えてる」
「……」
 ユエンの才気はシュマが一番良く知っている。しばらく一緒にいるだけでわかる。ユエンは、シュマの知っている誰よりも賢かった。
「お前なら、選ばれるにふさわしい」
 シュマの密やかな声に、対するユエンはしばらく無言のままだった。
 前では姉巫女が護衛衆二人を背後に引き連れて、静かに一歩前へと踏み出していた。立っていた場所を離れ、人垣の中を進み始める。その様子を人々は道を空けながら恐る恐る見守っている。遠くの者も近くの者も、その場の人間全員、いったい選ばれるのは誰かと一心に彼女を見つめている。
 そんな無数の視線も構わず、人々によって形作られたを道を姉巫女は堂々と進んでいく――シュマたちの立つ、方向へと。
「やっぱり、お前なんだ」
 シュマがそう繰り返した時だった。
「……俺じゃ、ねーよ」
 聞こえたのは、衣擦れに紛れてしまいそうなほどに微かな、ユエンのつぶやく声だった。シュマははっとする。
「……ユエン?」
「俺じゃ、ねーんだ。それは……絶対だ」
 落胆とも、諦めとも、悲しみともとれる声だった。
 姉巫女はもうすぐ側まで来ている。思わず戸惑いを覚えるほどの頑ななユエンの否定に対して、そんなはずないと言い返そうとしたその時、

「九ノ村、ヤナンの息子、クィル飼いのシュマ、こちらを向きなさい」 
 
 一瞬で全ての音と時が止まった――そんな気さえ、した。そして次に訪れたのは、自分の鼓動の音が周りにも聞こえるのではと思えるほどの、異様な静けさだった。
 最初に思ったのは、なぜそこで自分の名前が、それも姉巫女の声で呼ばれるのかということだった。シュマには全くわからなかった。そしてそれを理解することを恐れ、思考は完全に停止する。真っ白になった中で息もできずに固まるシュマに、もう一度姉巫女の声が降りかかった。
「こちらを向いて下さい、シュマ殿」
 促され、恐る恐るシュマは視線をユエンから姉巫女の方へと向ける。手を伸ばせば届くほどすぐそこに、姉巫女が静かに立っていた。シュマは生まれて初めてこんなに間近で、彼女の薄灰色の瞳をのぞき見た。
 驚愕は遅れてゆるゆるとやってくる。彼女が呼んだのはシュマの名だという、その意味を理解するのにさえシュマはかなりの時間を要した。そして、あまりの事態に聞き間違えではないかと必死に記憶を思い巡らしても、脳裏に響くのはやはりシュマの名前。
「なん、で。なんで、俺の名前を……」
「貴方が選ばれたからです、シュマ殿」
 選ばれた。その言葉はまるで、初めて聞く単語であるかのようにシュマの耳を通り抜けていった。姉巫女の声も、まるで遠くから聞こえてくるかのように実感がない。周りの人々の視線が一斉に自分に向けられているのもわかったが、それだって壁一枚挟んだかのように、あまりに不確かな感覚しかもたらさない。
 ただ口の中がからからに乾いて痛いほどにひりついていて、その痛みだけがやたらと鮮明だったのだ。
 ――今、姉巫女はなんと言った? シュマが選ばれた? そんなわけ、ないじゃないか。あるはず、ないじゃないか。
「うそ、だ」
 掠れた声で、やっとそれだけを絞り出す。姉巫女が微かに顔をしかめた。
「何で、俺が。そんなわけ、」
「いいえ、 (わたくし) は真実しか言っておりませぬ」
「でも、俺が選ばれるなんて……!」
「それでも、神は貴方をお選びになられたのです」
 どこまでも姉巫女の声は静かで、そしてうろたえるばかりのシュマを見る目は、あまりに冷ややかだった。
 呼吸が苦しい。ひどく、寒気がした。
「神に間違いなどありません。貴方は否定する必要も、憶する必要もありません」
 無感情なまでに冷静な彼女の言葉を、シュマはこれもまた遠くの方で聞いた。どうしていいのかわからず、頭は真っ白になったまま少しも働いてくれない。助けを求めるようにユエンの方を見たが、彼はどうしてか余所を向いたまま全く反応しなかった。
 訴えようとした。これは間違いだと、自分が選ばれるわけがないと。けれどまるで言葉をなくしてしまったかのように、出てくるのはたどたどしい台詞だけ。
 違う、違う。違うのに――、
姉様(あねさま)
 聞き覚えのある声で姉巫女の敬称が呼ばれ、誰かの足音がする。見ると姉巫女の後ろにいつの間にかトエの姿があった。姉巫女がトエをちらりと見て、再びシュマに向き直る。
「詳しい説明は、場所を変えていたします。トエについて行ってください」
「けどっ、俺っ……!」
「自信をお持ちなさい。あなたは選ばれたのです――貴方はそれを、受け入れるだけです」
 諭すような顔で言われ、シュマは口をぱくぱくさせたきり何も答えられない。そんなシュマの元にトエは静かに近づいてきて、そして耳元でささやく声がした。
「……今は何も言わずに、ついてきてちょうだい」
 振り向けば、トエの真剣な顔がそこにあった。「ついてきて」ともう一度彼女が繰り返す。けれどシュマはますます混乱するばかりで、首を振って逃げるようにトエから一歩後ずさる。
 うろたえてただただ周りを見渡した。皆はシュマだけを見ている。そこにあるのは羨望と尊敬と期待の眼差し――やめてくれと思った。やめてくれ、そんな目で見るな。自分はそんなものには応えられない。ふさわしいのは自分じゃない。
 どこを向いても誰かがいて、同じようにシュマを見ていて、いくら探せども逃げ場なんてない。そして、たまらずに親友がいるはずの場所へ視線を向けたその時、シュマの目に映ったのは――まさに今、シュマに背を向けて人垣の中に消えていこうとしている、ユエンの姿だった。
 ――その瞬間、混乱しかなかった頭に一気に感情があふれ出してきて、シュマはただその背に手を伸ばす。反射的に絞り出された声は、自分のものとは思えないほどに震えていた。
「待てっ、ユエン……っ! これは何かの……っ」
「シュマ!」
 何かの間違いなんだと、そう言いかけたシュマをトエが鋭く制止する。そのままシュマの服の裾をつかんできたその手を振り払い、シュマはただ焦りと衝動のままに叫んでいた。
「やめろ、放せ! 選ばれたのは俺じゃない! 俺なわけがない!」
 「シュマ!」とトエが制止の声を上げている。暴れるシュマを見かねたのか、姉巫女が後ろを振り返り、そこに向かって何か呼びかけている。そう思った直後には、彼女の背後から護衛衆の紺初め衣の男たちが現れるのが見えた。
 力尽くでシュマをつれていくつもりなんだ。そう気付いたシュマは、無意識のうちに後退していた。
「やめろ……!」
 もう一度、熱に浮かされたように繰り返す。掠れた声は恐らく誰にも届かなかった。
「何かの間違いなんだ。俺は、俺はっ」
 シュマは異端者だ。皆が当たり前に望むことを、シュマは喜べないのだ。シュマが願っていたのはメルゥが生きることだ。間違った考えだと知りながら、その思いを抱き続けていたのだ。
 そして今、恐らくはシュマだけがメルゥの本心を知ってしまったのだ。そんな自分は、もう、
「俺であるはずがないんだ! だって、俺は――」
 ――メルゥの救いを、皆と一緒に喜ぶことなんてできないのだと、喉元までせり上がっていた台詞を最後まで言いかけたまさにその時だった。シュマの耳に、空気を切り裂く鋭い音が微かに届く。そしてあっと思った次の瞬間、腕に鈍い痛みが走ったかと思うと、突然猛烈な脱力感が襲ってきた。
 頭の中がすっと白くなり、シュマは立っていることもできずに膝からがくっと崩れ落ちる。驚いて叫ぼうとしたけれど、それはもう声にすらならない。
 自分に何が起こったのか理解する前に、シュマの意識はあっという間に遠のいていく。トエが何か叫んだ気がした。姉巫女も何か言っていた。けれど、それを聞き分けることはもうシュマには叶わない。
 そうしてシュマの意識は、急速に闇へと沈んでいく――視界が黒く塗りつぶされる寸前、シュマが最後に見たのは、群衆の中にそっと消えていくユエンの背中だった。