三章(4)

 シュマ……。

 ずっと闇の中を漂っていたような気がする。そして気付けばシュマは、真っ白な空間の中にいた。視界の中には白色しか見えない。どこが壁で床なのかもわからない。そんな世界だった。
 朦朧とする中で、シュマはある声を聞いた気がした。どこか遠くからのような、それでいてすぐ側でささやかれているような、不思議な声だった。

 シュマ……起きて……。

 誰から呼ばれているのかはわからない。でも、シュマはどうしてもその声に応えなければならないような気がしてならなかった。けれど、声を出そうとしても体中が重く、誰だと問いかけることすらできなかった。
 相手が誰なのかもわからないのに、シュマの胸にひどく切なく懐かしい感情があふれ出し、懸命にその声に向かって手を伸ばそうと足掻く。けれど、やはり指一本すら動かすことは叶わず、待ってと言うことすらできないままに声は次第に彼方へと遠ざかっていった。
 そしてシュマの意識もまた、再び闇へと沈んでいったのだった。



 ギッ――……。

 どこかで木のの軋む音がする。それを最初シュマは、夢の中で聞いたのだと思った。だが徐々に意識がはっきりとしてくるにつれ、手のひらに触れた床の冷たい感触と、背中にある壁の固さに気付く。それは決して、夢の中で感じるようなふわふわとしたとらえどころのないものではなかった。
 シュマはゆっくりとまぶたを開く。ぼんやりとした視界の中に、白い服の少女が映った。肩で切りそろえられた髪が、夢うつつの中である少女と重なる。
「メルゥ……?」
「お気が付かれましたか、シュマ様」
 けれど、聞こえた声も口調も、かの少女とは似ても似つかぬものだった。はっとして、ようやく視界が晴れる。
 シュマの前では、まだ幼さの残る見知らぬ少女が正座していた。着ている衣は白かったが、裾の長い巫女のそれではなく、色こそ白いが民が着ている物と変わらない簡素なものだった。まだ正式な巫女ではない、巫女見習いの少女であろうと想像がつく。
 視線を落とし、無意識のうちにシュマは自分の手のひらをじっと見つめていた。握り込むと確かな感触がある。
 今自分がいるのは、恐らくは現実――なら、シュマの名を呼ぶ声が聞こえたのは夢の中の出来事だったのかと、ぼんやりと思ったところで、その少女はシュマに向かって一礼した。
「ご気分はいかがですか」
「大丈夫だ……けど、いったい」
 シュマは目をしばたたかせる。どうしてこの少女は今シュマの前にいるのだろうと思った。それに、大体ここはどこだというのだ。
(どこかの、部屋……?)
 薄暗い、小さな部屋だった。端から端までは、シュマの足で数歩もない。だが、その小ささに反し、造りは大層なものだった。四隅には大きな柱が立ち、少女の側の行灯に照らされて、壁と床の見事な木目が見える。
「ここは……どこなんだ」
「巫女殿の中にございます」
 少女の返答に、シュマは目を見開いた。
 巫女殿は中ノ村から北に進んだところにある、人里離れた大きな館だ。トエのような巫女たち、そしてこの少女のような見習いのための、生活と修行の場だった。
 だが巫女殿は男子禁制で、男の身で立ち入りを許されているのは身辺の安全を守る護衛衆の者たちのみなはず。そんなところに、なぜシュマが。
「姉様のご判断でございます。神化の儀に選ばれたシュマ様は、今はどこに行ったところで皆の注目を浴びられましょう。そのシュマ様が落ち着いて話をされるためには、巫女殿をおいて他にはないと、ここにお運びになられました」
 神化の儀。運ぶ。
 その言葉に、シュマの頭に一気に今までの記憶が蘇ってくる。はっとして、シュマは壁にすがっていた背を勢いよく起こして少女を見た。
「そうだ……! 俺、今までいったいどうして!」
「一刻ほどの間、お眠りになっておられました」
 眠っていた、とシュマはその言葉を繰り返す。
 どうしてそうなったのか、肝心のその記憶がない。そしてとっさに記憶の隅まで思い巡らして気付く。シュマの記憶は、ある一点で途切れているということに。
「いったい……何があった」
 少女に問うと、彼女はそれについては何も答えず、再び軽く頭を下げた。
「それについて、また、これからのことについては姉様がご説明なされます。――ご案内いたしますので、ご同行願えましょうか」