三章(5)

 部屋を出ると、護衛衆の男が二人、廊下に立って待っていた。彼らを加えた四人で、果てなく続いているのではないかというほどの長い長い廊下を、少女の掲げた明かりを頼りに進む。やがてたどり着いた最奥の部屋で、姉巫女は待っていた。
 籠が創られてからの気が遠くなるほどの年月、神の意思を伝え民を導いてきた巫女たちの歴史ゆえだろうか。巫女殿の中は重苦しいまでの濃い空気に満ちていた。並大抵の静寂とはわけが違う、のし掛かってくるような沈黙。まさかこんな所に自分が入る日が来るなんてシュマは夢にも思っていなかった。それも、このような形で。
 そして大きく厚い扉を、シュマの前を行く少女が押し開ける。
「気が付かれましたか、シュマ殿」
 姉巫女の低い声が、入り口のシュマたちにまではっきりと届いた。シュマは一瞬だけびくりとして足を止め、すぐに少女に続いて部屋の中へと入っていく。後ろをついてきていた護衛衆の男たちは、中までは入ってこなかった。
 先ほどの何倍もある広い部屋だった。その奥、一段高くなった場所へ姉巫女は正座していた。彼女の衣の裾が、床へと綺麗に広がっている。
 部屋の中央まで来たところで、少女はふいに膝を折って床へと正座する。深々と姉巫女に頭を下げ、そして立ち上がりそのまま部屋を去っていった。一人残されたシュマは所在なげにその場に突っ立っていたが、やがて姉巫女からの「お座りなさい」との静かな声で、慌てて膝を折った。
 そして、姉巫女が口を開く。
「まず詫びねばなりませぬ。さきほど貴方に働いたご無体、どうかお許しくだされ。貴方自身は何が起きたのかもわからなかったでしょうが――眠り薬を仕込んだ矢を、護衛衆の者に命じて貴方に射させていただきました」
「な……っ」
 突然の告白に唖然とするシュマに、姉巫女は平然と続ける。
「矢といっても、ごく小さな針のようなもの。ぱっと見ただけでは気付きませぬし、傷とて残ってはいないでしょう。薬も効果が切れれば体には何の影響もございません。しかし乱暴な手段に及んだのは事実ゆえ、お詫びを申し上げておきます」
 シュマは自分の右腕を見る。確かに意識を手放す直前、この腕にわずかな痛みを感じた。けれど姉巫女の言う通り、もはや何の傷跡も残ってはいない。
 どうしてそんなことをと反発が浮かんできたが、実際に口にできるわけもない。結局シュマは何も言わず、ただ軽く頭を下げただけだった。
 だが次の瞬間、「ですが」と姉巫女の固い声がし、シュマは思わずびくりとする。
「こちらが乱暴だったのは事実。ですが、貴方にも非はございます。 (わたくし) がそのような手段に訴えたのは、貴方が言ってはならない事を口走りかねなかったため」
「……それ、は」
 シュマはあの時の自分を思い出す。シュマは寸前のところで、メルゥの救いを喜べないと、そう言いかけてはいなかったか。
「何を言おうとしていたか、追求する気はございません。ただ、貴方の身はもはや貴方だけのものではないと、申し上げておきます」
 うつむくシュマに、姉巫女の抑揚の少ない声が降りかかる。
「貴方は神に選ばれた。選ばれなかった者たちからすれば、貴方は尊敬と羨望の対象。その貴方が何かしらの好ましからざる発言をすれば、彼らはいったいどう思うのか言わずともおわかりになるはず。きっと、果たして本当に神から選ばれた存在なのかと、疑い始めることでしょう。それは、避けねばならぬ事態です」
 気付かれないようにシュマは唇を噛んだ。果たして本当に自分は神から選ばれたのか、それはシュマ自身が一番疑っているというのに。
 顔を上げられずうつむいたままでいると、姉巫女のやや軽くなった口調が聞こえてきた。
「しかし、まあ、あの時は貴方も混乱していたのでしょう。いきなり選ばれたと告げられたのですから、無理もないことです。あの場にいた民たちにも、貴方は驚きのあまり気を失ったのだと、そう伝えてございます」
「……」
「だから貴方のあの言は、それ故に出たものであって、決して本心ではない―― そうですね・・・・・ ?」
 姉巫女がそう言った途端、部屋中の空気が凍り付いた。シュマの心臓がどくんと跳ね上がる。
 額を冷や汗が伝った。姉巫女の言葉はシュマへの質問でも確認でもない。これは脅しだ。神に選ばれた者として、そうでなければならないとの。
 シュマは答えられない。姉巫女の望む答えなんて、シュマには返せない。
「シュマ殿――どうなのですか?」
 黙っているところへ、追い打ちをかけるような姉巫女の言葉。顔を上げて彼女の表情を見る勇気は、シュマにはなかった。
「そう……です」
 震える声で肯定を示す。姉巫女が微かに笑ったのがわかった。
「そうでしょうとも。それでこそ、選ばれた者の姿。今後とも自身の立場を分かった上での、責任ある言動をお願いいたします」
 そして、再び老女はくつくつと笑みを漏らしたのだった。
 その様子にぞくりと鳥肌が立つ思いがする。膝の上で、握り込んだ手は震えが止まらない。
 早くここから出たいとひたすらに願った。何でシュマはこんなところにいるんだろう。早く帰って、全部忘れて眠ってしまいたい――、
「――それでは、本題に入りましょうシュマ殿」
 ふいに密やかに告げられた姉巫女の言葉で、シュマははっと現実に引き戻される。シュマの返答も待たずに姉巫女は口を開いた。
「既に言いました通り、貴方に与えられた使命は、儀式に臨み無事成功させることです」
「……はい」
 数拍遅れてうなずく。姉巫女が儀式の話を始めた途端、部屋の空気がひどく重くなった。息が苦しく、鼓動は早鐘を打っている。
「儀式の内容は、既に女神より下っています――貴方は儀式において、『果ての山』へと立ち入り、その頂上を目指すこととなります」
 シュマは思わず声を上げかけ、すんでのところでそれをこらえた。シュマたちにとって、『果ての山』へ入るというのはとても恐ろしいことだ。足のつま先だけでも山に入った瞬間、神の怒りに触れて裁きが下ると言われているのだから。
 そんなシュマの驚愕を知ってか、姉巫女が少し笑う。
「ご安心なさい。儀式の夜だけは、神は貴方だけには山への侵入をお許しになられます。貴方のために、山頂までの道が開くのです。怒りが下るようなことはございません」
 シュマはごくりと生唾を呑み込む。焦りと緊張で嫌な汗をかいていた。
「しかし、易々と頂上まで行けるわけではありません。道中貴方には何かしらの試練が与えられます。貴方に求められているのは、それを乗り越え、頂上にたどり着くことです。そうすれば貴方は認められ、その身のままに神の世界へと招き入れられることでしょう」
「……」
「お分かりになりましたか?」
「……はい」
 促され、シュマはつっかえがちの返事をする。
 シュマだけに道は開くのだという。そして、神から与えられるという試練。
 話が大きすぎて、その中心に自分がいるという事実が理解できなかった。どうして、本当にどうしてシュマなのだ。
 シュマが返したのは自信なんて欠片もない声だったが、それでも姉巫女は同意と取ったようだった。
「よろしいでしょう。それでは儀式まで、十分に精気を蓄えてくださいませ。儀式が行われるのは――三日後となります」
「……!?」
 三日というあまりに急な数字に、シュマは驚いてばっと顔を上げる。今までずっと、驚愕し焦りつつも、それでも自分には関係ないことのような感覚がどこかにあった。儀式なんて、まだ先の話だと思っていたのだ。
 それが、わずかに三日。
「どうしました?」
 姉巫女が静かに問う。臆しつつも、シュマは何とか声を絞り出した。
「あの……急すぎ、ませんか」
 姉巫女はうろんげに顔をしかめる。
「どうして。三日もあれば十分でしょう。それに、今必要なのはできるだけ早くメルゥを救うこと。違いますか?」
「それ、は……」
 言っていることの正しさと、彼女の威厳に押し込められ、シュマはそれ以上何も言えない。黙っていると、姉巫女がくすりと笑った。
「もしや、臆しておられるのですか?」
「……」
 声には出さず、シュマはこくりと首を上下する。
「そうですか……けれど、狼狽えることはありません。貴方は選ばれた。そして、こんなに早く、それも生きて神となる権利を手に入れたのです。貴方は進めば良いだけなのですよ」
 臆しているのとは違う。シュマはただ、自分がふさわしいだなどと微塵も思えず、選ばれた事実も信じられないだけだ。
 けれど、シュマはおずおずとうなずかざるを得なかった。それを見て姉巫女は満足げに少し微笑む。
「では、今宵はこの辺りにしておきましょう。もう夜更け。貴方はお帰りなさい」
 シュマの後方でガタリと音がして、振り返るとシュマをここまで導いてきたあの少女が扉の側に立っていた。それを確認して、姉巫女が立ち上がりかける。
「あ……あのっ」
 場を収めにかかった姉巫女に、反射的に呼び止める声が口を突いていた。
 動きを止めた姉巫女がシュマを無言で射すくめる。黙り込みそうになりながらも、シュマは震える口元を開いた。
「あの……どうして、俺だったんですか」
 姉巫女はしばらく無言だった。けれど、やがてくすりと暗がりに紛れそうなほどの笑い声が漏れる。それにはどこか小馬鹿にしたような響きがあって、シュマははっとした。
「おかしな方ですね。そのようなこと、知って何の意味がありますのやら」
 口元は緩んでいるが、目は少しも笑っていない。その厳しく冷たい目は無表情でシュマを見つめている。
 その時初めてシュマは彼女を、畏怖や尊敬ではなく、純粋に恐いと思った。
「でも……俺は、知りたいです」
 膝の上に置いた指先は震えていた。恐ろしいほどに、姉巫女の目は冷たい。
 けれどシュマは引かなかった。引けばきっと永遠に、答えは得られない。
「随分と食い下がりますね? ですが、 (わたくし) は無意味なことを言うつもりはありませぬ。あなたは神に選ばれた、その事実が全て。あなたは受け入れるのみ。それがどうしてかなんてことに意味はありませぬ。例え何かしら理由があったとしても、神々がお定めになった理由など、私たちにはどうやっても手の届かないもの。……そのようなこと、 私から伝えるまでもないでしょうに」
 くすりと、もう一度含みのある笑みを漏らし、姉巫女はさっと立ち上がる。そのまま歩き始める彼女に対して、慌ててシュマは腰を上げた。
「でも……っ、もし理由があるのならどうか……! どうか!」
「お静かになさいまし。声が大きいですよ」
 やや声を荒げたシュマに、姉巫女の鋭い台詞が飛ぶ。それにはっとして口をつぐんだ。いつの間にか必要以上に声が大きくなっていたことに気付く。姉巫女に鋭く見据えられ、無意識に一歩下がっていた。
「ここは巫女たちの修行の場。心安らかに過ごすために、男子の立ち入りは護衛衆を除いて一切禁止。それを今回は貴方のために特別に便宜を図ったのです。
 貴方なら大丈夫と信用したからこそ。それを、いたずらに騒ぐような真似をするなら (わたくし) が許しませぬ。場合によっては、今すぐ叩き出しますよ」
「……申し訳、ありません」
 縮こまってひたすら頭を下げる。まだ何か言われるものと覚悟したが、意外にも姉巫女はすぐに声を和らげた。
「では、もうお帰りなさいませ。――彼女についていけば、大扉まで出られましょう」
 シュマが顔を上げて振り返った先で、見習いの少女が深々と一礼した。