三章(7)
長い廊下を、ひたすらにシュマは走った。男たちはどこまでも追いかけてくる。あわよくば振り切れればと最初は思っていたが、そんなものは甘い考えとすぐに悟ることになった。つかず離れずの状態は維持できても、それ以上距離を広げることはどうやってもできない。そんな中、次第にシュマには疲れが見え始めていた。
(くっ、きつい……)
呼吸は既にひどく乱れており、心臓は今にもはち切れそう。そんな必死の走りも甲斐なく、後ろとの距離は少しずつ少しずつ縮まっていく。
そして数回目かに後ろを振り返った時、シュマはぎょっとした。――すぐそこまで、彼らは迫っていたのだ。
(駄目だ、追いつかれる――!)
みるみるうちに距離が狭まっていく。彼らの手が届くのはもう秒読みだ。ほら、もうすぐそこに手が――、
ガタン。
いきなり聞こえた物音にはっとした。長いだけに思えた廊下の終わりが、気付けば少し先に見えている。そしてその突き当たりの部屋の扉が――開いている。
「シュマ! 早く!」
見知った声がする。同時に隙間からちらりとのぞく少女の顔。
――トエだ。トエが開いた扉から顔をのぞかせて、シュマに向かって叫んでいる。
「早く! この中に!」
どれだけすぐ近くに彼らが迫っているのかは、もう恐くて振り返れない。代わりにシュマはただ無我夢中で入り口に向かって突進する。わずかに背中に誰かが触れたような感触があった次の瞬間、シュマはなりふり構わず部屋の中へと飛び込んでいた。
直後に鳴り響く扉の閉まる強い音。そしてシュマは冷たい木の床へと転がっていた。
「はぁっ……はぁっ……」
酸欠で目の前が暗くなりながらも、シュマは無理矢理言葉を絞り出す。まだだ、まだこれでは彼らは部屋の中へシュマを捕まえに来る。
「トエ……っ、俺を、追い出さないように……あいつらに……っ、俺は……」
聞かないといけないことが、と言いかけてはたと気付いた。トエの閉めた扉は決して開く様子がなく、そして、部屋の中も外もひどく静かだということに。
「入って……こない……?」
息切れに紛れて呆然とつぶやいたシュマに、トエの落ち着いた声がする。
「心配しなくても大丈夫よ。護衛衆の者たちは、部屋の中まで入ってくることはできないから。彼らは廊下しか行き来することを許されていないの。唯一巫女殿に出入りを許された男たちと言えど、その行動は制限だらけよ」
それを聞いて一気に緊張が解けた。脱力感でしばらくは何も話す気にならず、転がったまま荒い息を繰り返していた。
「随分と馬鹿なことをしたものね。罰せられてもおかしくないわよ、あなたの行動は」
トエが扉から離れシュマの方へ歩いてくる。上から呆れ気味の声が降ってきて、ようやくシュマは体を起こした。まだ少しくらくらしている。
本当にここはトエの自室のようだった。向かって右側には小ぶりの机が備え付けられており、奥には寝床、その他書物や身の回りの品があちこちに置いてある。その生活感に、ようやく巫女殿の重苦しい空気から解放された気がして長いため息を吐き出した。
――けれど、いつまでもこうしているわけにもいかない。それもまた事実なのだ。
「トエ、お前なんだよな。神から儀式のことを伝えられたのは」
やがておもむろに問いかけた声に対し、返ってきたのは沈黙だった。トエは黙ってシュマの横に腰を降ろす。ため息に似たつぶやきが聞こえた。
「……だから、どうするというの?」
「教えてくれないか。この俺が、儀式に選ばれた理由を」
トエの口が引き結ばれ、目を細めてシュマを見てくる。品定めするかのようなその視線はどこか先ほどの姉巫女に似ていて、シュマの腹の底にひやりとするものが走った。
そしてトエは、今度こそはっきりとため息を漏らす。
「……ないわ、そんなもの」
「!?」
驚いてシュマは横のトエをばっと振り向いた。彼女の表情は変わらない。
「本当よ。あなたの名前は告げられても、その理由なんてお聞きしていないわ」
「そんなっ」
「――大体、どうして理由なんてものが必要なの?」
聞き覚えのある台詞。びくりとして口をつぐんだシュマに、トエの静かな声がした。
「理由なんてものに意味はないわ。選ばれたあなたは、やらなければならないことをする……それだけでしょうに」
姉巫女と同じ言葉だった。それを聞いた途端、シュマはすっと体が冷えていくのを感じていた。――わかっていた、トエだって巫女だ。昼間も巫女としての彼女をシュマは目の前で見せつけられたばかり。だがそれでも、彼女だけは違うような気がしていたのだ。
シュマはしばらく押し黙っていたが、やがて、弱々しい声で言う。
「だって俺にはわからない、どうして俺なのか。ふさわしいのは、俺じゃない……」
「どうしてそんなに否定するの? あなたが選ばれたのは、確かなことだというのに」
トエが訝しげに問いかけてくる。シュマはぎゅっと自分の膝を握りしめた。
「選ばれても、俺はどうすればいいのかわからない。わからないんだ……何が正しくて、何をすべきかも、俺には……」
シュマのセリフはどんどんしぼんでいき、最後までトエに聞こえた自信はなかった。だがその瞬間ずっと細められた彼女の目が、聞こえていたことを何よりも物語っている。
「わからない? まだそんなことを言っているの?」
そして聞こえてきたのは、びっくりするぐらいに冷たい言葉だった。
「これだけ言ってもどうしてわからないの? メルゥは救われてこそ幸せになれる、それの何がそんなに疑問だというの。――じゃあシュマ、聞くわ。あなたは、メルゥがこの地に縛り付けられたままでも良いというの? どうなの、シュマ!」
苛立ちの込められた台詞だった。
そこまで言えばさすがのシュマも、「救われてほしい」と言うものとトエは考えていたのかもしれない。だから少しの沈黙の後、それでもシュマが「わからない」と漏らした時、彼女の顔に浮かんだのは明らかな驚愕だった。
「どうして」と、彼女から押し殺した声が漏れる。
「信じられない……あなたは、メルゥの幸せを願ってはいないということなの?」
「違う! そうじゃない!」
トエの台詞に思わず叫んでいた。わずかに目を見開いた彼女に、シュマは必死に言葉を紡ぐ。
「俺だってあいつに幸せになってほしい! それだけは、信じてくれ……!」
すぐに反論が飛んでくるのを覚悟したが、意外にもトエは黙り込んだまま。しばらくして、暗がりに紛れてしまいそうな微かなため息の音がした。
「……ならあなたは、メルゥにとって救われることは幸福とは呼べないと」
妙に静かなトエの問いに、シュマはぎゅっと拳を握りしめる。
体の芯にずきりと響く痛み。知らず知らずのうちに考えることを避けていた事実が、浮かび上がるように脳裏に蘇り始める。
「……だって俺は、知ってしまったんだ」
つぶやくように吐き出すと、トエがまゆをひそめてくる。
シュマは手に力を込めたまま、昨日のメルゥの言葉を反芻する。死んでほしくないと、シュマの口からこぼれ落ちた言葉に対し返ってきたその台詞。それを繰り返す度に、半日以上経過してようやく実感をともなってきた喪失感が、シュマの胸を重く刺す。
――そしてシュマは、知ってしまった。
「あいつ言ってたんだ。生きていたいって、神になんてなりたくないって、この世界が好きだって……!」
私ね、この世界が好きだよ
神様になんてなりたくない
みんなの側にいたい
それを聞いてしまって良かったのか、未だにシュマにはわからない。その言葉を聞きさえしなければ、きっとシュマはメルゥの置き手紙の意味になど気づけなかった。
私が私のままで、私の世界にいるために
私の世界――この籠にいたいと言い残して、メルゥは散っていった。
「メルゥは神になることなんて願っちゃいなかった。あいつが願ってたのは、この籠にい続けることだったんだ! だから、だからあいつは……!」
昨日のメルゥの姿と言葉、残された書き置きを何度も何度も繰り返して、それでも導かれる結論は同じだった。
「あいつは、メルゥは、自分で死を選んだんだ……っ」
語尾は掠れて言葉にならない。たどり着いてしまった事実はあまりに悲しい――メルゥは、自ら死を呼び込んだのだ、と。
病が重く、自分が神となってしまう日がそう遠くないことを知っていた彼女は、そうはならないために、この地にとどまり続けるために――愛する者たちの側にいるために、自ら禁忌を犯して命を投げ出したのだ。
病で命が果てれば神となってしまう。そうなればもう籠にいることはできない。メルゥが選んだのはそれに抵抗する道。自ら籠に縛り付けられ、皆の側に在り続ける道――、
「……ないで……」
ずっと沈黙を守り続けていたトエが、唐突に何かをつぶやく。聞き取れずに問い返そうとしたその瞬間、トエがばっと顔を上げてシュマをにらみ付けた。直に見えたトエの瞳は、言葉にならないほど複雑な感情に彩られていた。
「ふざけないで! メルゥがそんなことするはずないじゃない!」
その口元から漏れたのは押し殺した叫び。今にも立ち上がらんばかりの彼女の剣幕に、シュマは言葉に詰まった。怒りとも悲しみともつかないその言葉は、痛みを伴ってずきりとシュマの身に響く。
「嘘よ! メルゥはそんなことしない! そんな神も民も裏切るような真似、あの子がするはずない!」
「でも、トエ」
「しないわ! 大体それが本当なら、女神がお救いになるはずないじゃない!」
トエの瞳が鮮烈にシュマを射貫く。薄闇一枚通して見えたそれは、今まで見たことがないほどの強い光をたたえていた。
「そんな大馬鹿者を女神はお救いにならないわ!」
その言葉を聞いた時、シュマは唐突に体の奥がじわりと熱くなったのを感じていた。気付けば、指先は微かに震えている。
「大馬鹿……だろうか」
徐々に膨れあがりつつある熱を何とか抑え、独り言のように繰り返した。トエは激しい目でシュマをにらみ付ける。
「そうよ、当たり前でしょう? 自ら神となる術を放棄して、この無意味な籠にしがみつくなんて、絶対に間違っているわ! 愚か者よ!」
無意味。間違い。愚か者。
――その言葉を聞いた瞬間、シュマの中で一気に熱が弾け飛んだのだった。
「そんなことねえ! 勝手なこと言ってふざけんな!」
体の動くままにその場に立ち上がる。勝手に言葉が口を突いて出て、シュマは思わず声を荒げていた。いきなりの怒声に、トエが一瞬身を引く。
メルゥの死からずっと、まるで凍えてしまいそうだったシュマの体の芯に、激しいまでの熱が宿っていた。それはおよそ半日ぶりに感じる、呼吸に詰まるほどの生々しい感情だった。
「大馬鹿って、誰がそんなこと決めたんだよ! 間違ってるなんて誰に言えるんだ!」
メルゥの死が正しかったなんてことは言えない。こんな結末は望んでいない。
けれどその願い自体はどうなのだ。メルゥの思いまでもが――間違っていたのか。
「神になることを願わないのはそんなにおかしいか? 愚かなことか? どうして、ここじゃ駄目なんだよ……っ!」
この籠の中での生は、そんなにくだらないだろうか。そんなに、否定されるべきことだろうか。――そして、この籠にいたいと願ったメルゥの思いは、そんなに間違ったことだろうか。
「この籠はそんなに不幸か、この世界はそんなにつまらないか!」
トエは激しい瞳でシュマをにらみ付けている。それをシュマは真っ直ぐに見返した。
「少なくともメルゥにとっちゃそうじゃなかった! だからメルゥは心から、籠にいたいって願ったんだ。それが自分の幸せだと思ったんだ! それは間違ったことなんかじゃねえ……っ!」
でも皆はメルゥは救われるべきだと言う。この籠はつまらないものだという。
そしてシュマに――メルゥを救えと言う。
「俺はいったいどうすればいい! どうしろって言うんだよ! 何が正しいんだよ……!」
神になるという救いを目指す籠の教え。メルゥを救えと命じた女神の言葉。けれど、それに抗い籠に在り続けようとしたメルゥの思い。
それらに挟まれて、いったいシュマはどうすればいい――……。
「……情けないわね」
その時聞こえた言葉に、シュマは思わず目を見開いていた。唐突にシュマとトエとの間の空間に投げられたそれは、別人かと思うほどの冷たさをはらんでいたのだ。
そしてトエの顔からは、いつの間にか感情が消えていた。無機質な瞳が、見下したようにシュマを見据える。
「馬鹿じゃないの。いつまで子供じみたことを言っているつもり? 本当に、情けない」
「……じゃあ何で俺だったんだよ! 俺なんて選ばなきゃ良かっただろ!?」
侮蔑にも似た彼女の態度に、シュマは床を踏み鳴らして衝動のままに怒鳴る。予期せず投げ込まれた自身の状況に対する戸惑いは、いつしか怒りへと形を変えていた。体の中がどうしようもなく熱くて、抑えることなんてできない。
だから最初から言っている。何で――何で、自分なんだと。
「ああ俺は情けないさ! そんなの言われなくてもわかってる! でもそれなら俺なんて選ぶなよ! もっとふさわしいやつなんていくらでもいるだろ!? 何でわざわざ俺だったんだよ! 何で!!」
シュマの脳裏に、背を向けて去っていった親友の姿が蘇る。あの時、いったい彼が抱いた思いは何であったのか。
「何で俺なんだ! どうしてあいつじゃ……ユエンじゃないんだよ!!」
いくら考えたところで、ユエンの方がシュマなんかよりよっぽどかふさわしい。ユエンの方がよっぽどメルゥに近かったし、ユエンならきっと――メルゥの救いを心から祝福してやれる。
「どうしてなんだよ……! どうして、どうして俺なんか――!」
叫ぶような台詞がほとばしり出た。
それきり肩を上下させているシュマに、トエはもう何も言わない。しばらくはただ無感情にシュマを見ているだけだったが、やがて視線を外し、吐き出すようにつぶやいた。
「――くだらない。愚かすぎて呆れるわ」
「お前それ本気で言ってんのか!」
あまりの台詞にシュマが再び怒鳴った瞬間、トエががばっと立ち上がる。目線のそろった彼女の瞳には、今まで見たこともないような激しい憎悪が浮かんでいた。
「本気で言っているわ! あなたと話してたって時間の無駄よ! もう帰ってちょうだい!」
「トエ……お前!」
「帰って! これ以上、この神聖な館をあなたの馬鹿げた考えで穢すことは許さないわ!!」
凄まじい剣幕の中、トエがシュマに向けたのは、幼い頃からの友人を見る目ではなく、異端の者に向ける軽蔑だった。
唐突にトエが両手を打ち鳴らす。すると、その音に反応するようにして、部屋の扉がさっと開いた。外から紺染め衣の男が二人飛び込んでくる。トエは彼らをちらりと見やって、そしてシュマを指さす。
「彼を、館の外に連れ出してちょうだい!」
彼らはトエに一礼するとすぐさま、立ちすくんでいるシュマに走り寄ってくる。シュマはじりじりと後ずさった。
「おい、トエ! さっき護衛衆は中には入って来れないって……!」
シュマの抗議に、トエは鼻で笑う。
「言ったわ。たしかに護衛衆は中へは入れない――緊急事態において、巫女が命じた場合を除いて、ね」
「なっ……」
「本来なら姉様とのお話の後すぐに出て行くべきだったところを、友人としての情けで助けたけれど、これ以上馬鹿げた戯言でこの場を穢すならもう留め置くことはできない。――今すぐ出て行きなさい」
その言葉を皮切りに、男たちがシュマの両腕をさっと抱える。シュマはとっさにもがいて抵抗したが、大の大人二人に、それも日頃から訓練を積んでいる護衛衆の男たちにかなうはずもない。あっという間に床の上を引きずられ、足と床とが擦れる虚しい音がする。
「トエ!」と彼女の名を呼んだけれど、彼女は何も言わず、冷たい表情のままさっとシュマに背を向ける。いくら呼んでも、もう決して振り返らなかった。
両脇からの力が強くなる。シュマはあっという間に部屋の外へと引きずり出される。そしてシュマの目の前で、トエの背中は、扉の重い音とともに部屋の中へと消えたのだった。
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