四章(4)

「メルゥ、今日な、ユエンと森に行ったんだ」
 日の落ちた後の薄暗い部屋で、シュマは寝台の上の少女に呼びかける。少女からの反応は、ない。
「俺たち川に落ちてびしょ濡れになってさ。……おかしいだろ? 特にあいつ、川に落ちるの二度目だぜ。川に祟られてるんじゃねえのか、ってな」
 それでも少女――メルゥは、目を開けることすらない。当たり前だ、そんなことはわかっている。けれど、きっと声は聞こえているはずとシュマは信じた。魂送りの儀までは、魂は肉体に留まったまま。ならば、こうして語りかけるシュマの声だって聞こえるはずだと。
「メルゥ……俺、お前にずっと黙ってたことが、一つあるんだ」
 アガルの館。そのメルゥの部屋。そしてシュマは、メルゥが亡くなって初めて、彼女の顔をまともに見ていた。頭は空っぽで何も考えられず、言葉は勝手に口からこぼれ落ちてくる。そして気付けばシュマは、一度も告げたことのないその思いを口にしていた。
「俺さ……お前のこと、好きだったんだぜ。知ってたか?」
 知っていたはずがない。シュマはそんな素振り、おくびにも出さなかったのだから。
 いつからだなんて細かいことはもう覚えていない。気付いた時には既に、その思いはシュマの中にあった。
 だからメルゥとユエンが恋仲だと知った時、シュマはユエンを妬んだ。しばらく避けてさえいた。けれど、ユエンと二人でいる時のメルゥの幸せそうな笑顔を見てそんな醜い思いは消し飛んだ。
 シュマはメルゥの笑顔さえあればそれで十分だった。メルゥが幸せであれば、シュマだって幸せだった。だから、それでいいと思った。そして、メルゥへの恋慕は一生誰にも言うまいと決めたのだ。
「大好きだったんだ。お前が笑っていてさえくれれば、それで俺は十分だった。だから俺の願いは、お前が生きるこの籠で、一緒に生きることだった。お前が、幸せに生きていてくれることだった」
 けれど、もうメルゥは生きてはいない。シュマの願いは、結局叶いはしなかった。
「けど、死んでもこの籠にい続けるのがお前の幸せだっていうなら、俺はそれで構わない。お前の気持ちも、間違ってるとは思わない。ただ――」
 シュマは言葉を切る。シュマしか話す者がいない部屋で、そのシュマが黙ってしまえば後にはもう空っぽの静寂しか残らない。
「お前にもう会えない……それだけが、俺は悲しくて仕方ない……っ」
 笑ってさえくれれば、十分。だがそれさえも、もうシュマの側にはない。
「俺は今まで、この籠を不幸だと思ったなんかない。この籠から出たいって、そう思ったこともない。俺はここで生きていられれば、それで十分だった。それが誰のおかげか知ってるか? お前が……いたからだ」
 メルゥが、ユエンがいて幸せだったように、シュマはメルゥがいれば幸せだった。
「人は死んだら神の世界に行くっていう。でも、それって何なんだ。神って何なんだ。人の魂って何だ? そんな遠すぎる存在、俺には想像すらできない……俺はただ、この俺が触れられる世界で、お前と、そしてユエンとトエと、俺の大好きな人たちと一緒に、生きていたいだけだったのに」
 けれどその彼女は、既にシュマの世界から去っていってしまった。代わりに突きつけられたのは、神の世界という今まで自分になんて関係ないと思っていたもの。
 関係ないと思っていた――でも、もうそんなこと言ってはいられないのだと、ようやくシュマは気付いた。
「わからないけど、確かにあるんだよな、神の世界ってのは。あの果ての山を越えた先にに。そしてそこに行けば――お前に会えるっていう」
 よくわからなくても、確かにそこにあると言うのなら、目指してみようとシュマは思った。歩き続ければたどり着けるというのなら、信じて進んでみようと。
 だって、シュマは、
「俺は、お前に会いたい」
 どうかあの笑顔を、もう一度――シュマは、ただそう願うのだ。
「だから、俺はお前に会いに行く。お前に会うために、俺は儀式に臨む。――無茶苦茶な理由だろ? でもそれが、俺の見つけた俺の理由だ。だから俺は、お前に会いに行くよ。俺に今できることなんて、それぐらいだ」
 らしくもなくごちゃごちゃ考えるより、『会いたい』という目の前の思いをぶつけてみよう。その方がきっとシュマらしい。
 救われるべきなのかどうなのか、その答えはまだ出ていないけれど、それはシュマが神になってメルゥに再会した時にメルゥ自身が決めてくれればいいと思った。シュマはそれに従おう。今も昔も、メルゥの幸せがシュマの幸せなのだから。
 そうしてシュマは、静かに眠るメルゥにそっと笑いかける。目を閉じたメルゥの顔は、死んでいるなんて信じられないぐらい、本当に綺麗だった。
「じゃあな。また会おう――メルゥ」

 
 その夜、皆が見守る中で、高く積まれた薪に火がつけられた。やがて闇空を、真っ赤な炎が焦がす。その中へメルゥの棺が運ばれていくのを、人目を避けた端の方で、シュマはじっと見つめていた。
 炎は激しさを増していた。激しくも、それは胸が苦しくなるほどに切なく、そしてあまりに美しい。
 けれどそれは、一夜限りの儚い炎でもあった。明日の朝になれば、狂おしいほどの紅蓮は、静かな白煙へと姿を変えるだろう。
 そうして (からだ) は灰となって地へと還り、魂は昇華されてゆく。
 そうやって、この籠は巡ってきたのだという。今までも、そしてこれからも。
「ユエン」
 シュマは静かに、隣に立つユエンへと呼びかける。微かに応じる声があった。
 シュマはそっと口を開く。
「俺、儀式に行くよ」
 返事はすぐにはなかった。しばらくして、彼が微かに笑ったのがわかった。
「じゃあ、頼むぜ、色々と。――頑張れよ」
「ああ。お前もな」
 交わされたのはそれだけだった。
 それきりシュマもユエンも黙り込み、黒い夜空を染め上げる紅蓮を、静かにじっと見つめ続けていた。