籠庭の詩

五章 世界の果てで(1)

「はいっ、できたよ」
 背後から、支度を手伝ってくれていた母タブサの声が声がする。側でじっと見ていた妹が、わあっと歓声を上げた。
「すごいすごい! お兄ちゃんかっこいい!」
「そ、そうか?」
 無邪気な褒め言葉が気恥ずかしく、シュマは片手で頭をかく。母は同意するようににこりと微笑んだ。
「いいよ、とてもよく似合ってる」
「母さん……」
 シュマは、目の前に置かれた鏡の中の自分の姿を覗き込む。そこには、真新しい深紅の衣に身を包んだ自分の姿があった。今日の儀式のために母が、シュマの別の服を繕い染め直してくれたのだった。確かにそれは、シュマの焦げ茶の髪と目ととてもよく合っていた。
 衣が赤であるのは、赤が神と人との繋がりを示す色であるからだ。この籠の外へとたどり着ける生き物など存在しないが、赤く燃える炎より昇る煙だけは、空を貫き神界へと届く――そう、信じられているのだった。
「シュマ」
 母が名を呼ぶ声がする。声の方を振り向いた瞬間、シュマはふわりと抱きしめられていた。
「私はあんたを誇りに思うよ――頑張っといで」
 メルゥが自ら亡くなった理由、そしてシュマには彼女を救うべきかどうか答えを出せないこと、母にはシュマのそれらの思いを伝えられてはいない。こんなに祝ってくれているというのに、嘘をついているようで申し訳なかった。けれどシュマはこくりとうなずく。自分にできることをすると、頑張るのだと決めたことは、紛れもない事実なのだから。
「ああ。ありがとう、母さん」
 その時、シュマの衣の裾を誰かが引っ張った。見下ろすと、妹が少し潤んだ瞳で見上げていた。少し驚いて、「どうしたんだ」と尋ねると、幼い少女はうつむく。
「お兄ちゃん、神様になるの……? そしたらもう、会えないの……?」
 一瞬、言葉に詰まった。胸がずきりと痛む。
 妹は幼すぎて、神のことも、メルゥの死のこともあまり理解していない。シュマは、メルゥに会いたいからと儀式に臨むことを決意したけれど、そのせいでこうして悲しむ者だっているのだ。
 シュマは妹の側にしゃがみこみ、そっとその髪を撫でた。
「ごめんな。もう、こうして会って話すことはできない。でも、俺はずっとお前のこと見てるから、母さんを助けて元気に生きるんだぞ。――それに、永遠に会えないわけじゃない。な?」
 妹はしばらくうつむいたままだったが、やがて顔を上げる。少しだけだったが笑顔が見えた。それを確かめて、シュマは微笑み返す。
 そして、少し離れた所にぶすっとした顔で立っている少年へと視線を向けた。
「お前もだぞ。元気でやれよ」
 最近、両親にもシュマにも何かと反抗してばかりで、シュマが選ばれた時も祝いの言葉すらよこさなかった弟。彼は今も相変わらずそっぽを向くだけだったが、ぼそりと小さな言葉が聞こえた。
「そんなの、言われるまでもない……ちゃんとやんなきゃならないのは兄貴の方だろ」
 正直、何か言葉が返ってくるとは思っていなかったシュマは、わずかに目を見開く。そして、すぐに笑顔になった。
「ああ――わかってる、ありがとう」
 父親は今は家にいないけれど、じきに帰ってくるだろう。シュマの姿を見て、何というだろうか。
 そんなことを考えているうちに、少し視界が滲みかけた。愛すべき家族にもう会えない。それを改めて思うと、シュマの胸は切なく痛むのだった。
 けれどそれでもシュマは、向こうへ行くと決めたのだ。


 そしてその夜、再び真っ赤な炎が夜空を焦がした。森に入るすぐ直前の草原で、そこだけ円形に草木の刈り取られた儀式の場。その中央に作られた組木の上で炎が荒ぶる様は、魂送りの時と同じような光景であったけれど、それにも関わらずシュマの目には違う風に映った。
 今シュマの顔に熱気を吹きつけるそれは、魂送りの儀のどこか静かな炎と違い、とても鮮やかな激しい炎だった。まるで生命を持っているかのように、闇の中で大きくうねり、火の粉を散らす。
「この籠の創造主、我らの大いなる母、気高き女神、及び我らを見守り下さる神々よ。太古に創られしこの籠より、 御身(おんみ) へ捧げる火を受け取り (たま) え。さすればこの聖なる火、我らと御身との繋がりの証とならん」
 炎より数歩離れて向かい合あった姉巫女が、朗々と唱え上げる。シュマは、彼女よりさらに後方へ距離を置いて立ち、姉巫女の背と炎とを無言で見つめていた。
 そして、そのさらに後ろでは、シュマと姉巫女と炎とを取り囲むように、他の巫女たちが円状になって控えている。儀式に参列する何百人もの籠の民たちは、それよりもかなり遠くで固唾を呑んで儀式の進行を見守っていた。
 満月が見下ろす中、緊張が満ちた澄んだ夜の空気に、姉巫女の声が響き渡る。
「我らは今宵、下されし 御言(みこと) に従いて、 神化(しんか) の儀を行わん。 御元(みもと) へ向かいし少年の名は、シュマ。その者、九ノ村にてクィルを育むを 生業(なりわい) とせし者にて、ヤナンの息子なり」
 こんな大それた場で呼び上げられる自分の名を、シュマは、今度こそは何とか受け止めることができた。未だに、どうして自分なのだという思いはある。けれどそんなことには捕らわれず、シュマはシュマの思いをしっかりと持っていれば良いという、恐らくはそれだけなのだと思う。
 だからシュマは、押しつぶされそうなほどに張り詰めた中、それでもうつむかずに前を見る。
「儀に先立ち、かの者の強き意志を御元へと捧げん。そは一つの清し誓いとならん。――シュマ、選ばれし者よ、今一度 (なんじ) に問おうぞ」
 姉巫女がゆっくりと身体の向きを変える。その、冷たさを含んだ薄灰色の瞳が、真っ直ぐにシュマを射貫いた。シュマは、ぐっと口元を引き締めて彼女を見つめ返す。
「選ばれし少年よ、己の心に従いて、偽りなき答えを示すべし。汝、神の 御心(みこころ) を受け入れ、籠の外なる神の御元へ赴く意志と覚悟があるや否や」
 シュマは無言で姉巫女の問いを反復する。少し震える拳を握りしめ、そっと口を開いた。
「――あります」
 決して大きくはないその言葉は、けれどはっきりと辺りに響き渡った。姉巫女が微かに微笑み、白髪を揺らして再びシュマに背を向ける。
「選ばれし者の意志、しかとここに示されたり。これをもって儀式の開始となさん。神々よ、今ここに旅立つ少年を心安く御身の元へと迎え入れられんこと、我ら謹んで願い申し上げるものなり!」