五章(2)
「見送ってやれるのは、ここまでだな」
先頭を歩くシュマの背後から、そんなユエンの声がした。シュマが足を止めて後ろを振り返ると、自身の手にした松明の炎に照らされて、闇の中にぽうっと浮かび上がるユエンの笑顔があった。
その隣にはアガルの姿もあり、さらにシュマの足下にはニィが行儀良く座っている。
「さよならは、言わないぜ。いつかまた会えるんだから」
そう言うユエンに、シュマはうなずく。
「ああ、わかってる」
答えながらシュマは、儀式の開始から今までの事を思い返していた。
姉巫女の取り仕切る儀式の始まりを告げる神事が終わり、シュマは家族や友人と別れを交わしていよいよ森の中へと踏み込んでいった。通常時でも立ち入ることの許されている、山の手前の領域までは、こうしてユエンとアガルと、そしてニィまでもがついてきてくれていた。シュマは、ニィには家族の元に残っているようにと言ったのだが、ニィはどうしてもついてくるとシュマにすり寄って聞かなかったのだ。人の言葉などわからないはずだが、シュマとの別れが迫っていることを、獣の勘が告げたのかもしれない。
けれど、それももうここまでだった。シュマはこれから一人で儀式に挑まなくてはならない。だが、行くと自分で決め覚悟した後でも、たった一人で行く道程はとても恐ろしかった。けれどそれでもシュマは、怯えと切なさを押さえて微笑む。
「今までありがとな。ちゃんと言ったことなかったけど、俺、ユエンのこと一番の親友だと思ってる」
「……今更なこと言うんじゃねーよ。聞いててこっちが恥ずかしい」
ユエンの言葉にシュマは笑った。最後まで、こんな会話ができて良かったと思う。ユエンとは、何があっても親友でいたいとシュマは願っている。
(トエとは、結局話せなかった……)
巫女殿を追い出されて以来、彼女とは一度も話していない。姿も、今日の神事で周囲に控えているのを見ただけだ――それにトエは儀式の間中、シュマと目を合わせることさえしなかった。
トエとの間にわだかまりを残したまま、籠を去らねばならないことだけがシュマの心残りだ。でも、もうどうすることもできないのだ。――シュマは、もう決して戻れはしないのだから。
「では、そろそろ良いだろうか」
ずっと黙っていたアガルが低く声を上げた。時が満ちたと、その彫りの深い落ち窪んだ両の目が告げている。シュマは彼の、感情が奥深くに隠された深淵のような瞳の色をじっと見つめて、そしてうなずいた。
「はい――今まで、本当にありがとうございました」
そう言って、深々と頭を下げる。再び顔を上げた時、足下でシュマを見上げるニィと目があった。まるで請うような視線にシュマは苦笑する。
「お前ももう、ユエンと長と一緒に戻れ。俺はもうお前とは一緒にいられないんだ。……ごめんな」
人の魂は死後に神の世界へと受け入れられる。――けれど、人でない動物たちの魂は人より劣るとされ、神の世界へは受け入れてもらえない。だからニィとは、これが本当に永遠の別れだ。
「……そのカーリは、怪我をして森で弱っていたところを助けたと言っておったな」
突然アガルがそんなことを言い出した。今そんなことを尋ねる意味がわからず、やや戸惑いながらもシュマは「はい」と答える。アガルは目を細めた。
「ならば、怪我をするまでは、森だけでなく果ての山をも駆け回っていたことであろう――共に、連れて行くがよい」
「え?」とシュマは目をしばたたいた。儀式へは、一人で臨まねばならないのではなかったか……、
「確かに、人は許された者しか果ての山に立ち入ることはできない。それは、人の魂はこの籠と神界の境を超えて行く力を持つからだ。だが、動物たちにその力はない。彼らはどうあがいてもこの籠を出ることはできない。だから、山に立ち入ったところで神はお怒りにはならぬ。事実、夜になると山から狼やカーリの遠吠えが聞こえてくるではないか」
アガルが少し微笑んだ。
「誰も山へ立ち入ったことはないゆえ、確かではないが、恐らく山にはどう猛な獣たちもおろう。特に今は夜、あまりに危険。そのカーリをつれて行けば、きっとそなたの助けとなろう。獣は獣の気配に敏感ゆえ、そなたの賢いカーリは、そなたに迫る危険を嗅ぎ取ってくれようぞ」
シュマはニィをじっと見下ろした。松明の灯りに映し出された、深い青の瞳がシュマを見返していた。こいつとだけはもう少しだけ一緒にいれるのだと、そう思うと胸の奥がじわっと温かくなる。
「今まで、お前には世話になりっぱなしだったな。世話ついでにもう少しだけ、俺と一緒に来てくれるか?」
柔らかな毛並みを撫でると、にじみ出るように、シュマの中に幼い頃の思い出や今までのことが浮かんでは消えていった。ニィと一緒にクィルたちを追い立てて駆け回ったこと、難産のクィルの側で朝まで夜を明かしたこと、明け方に無事に産まれて家族で喜び合ったこと、遊びに来たメルゥたちも大喜びしてくれたこと、そして彼らと過ごした日々……。
――シュマにとって、この籠≠ニは何だったのだろう。そう、ふと思う。不幸でなかったのは確かだ。メルゥといられて、ユエンがいて、トエがいて、シュマは幸せだった。そのまま、人として籠で生きているので、シュマは満足だった。
でも、それだけだったのだろうか。結局それは、流されて漫然と何となくここで生きていただけという、そういうことにもならないだろうか。今までシュマは、何を思ってここで生きてきたのだろうか――そんなこと、今まで考えたこともなかった。それを初めて思ったのが、メルゥが死んで、自身の籠の別れが決まった後だなんて、なんて皮肉だろうか。
メルゥは、この籠が好きだと微笑んで言い切った。シュマは――どうだったんだろう。
「……時間じゃな。選ばれし者よ、その強き意志をもって旅立つが良い」
アガルの声がする。シュマはゆっくりと立ち上がる。ふっと顔を上げると、ユエンと、未来の長と目が合う。その、珍しく笑みの消えた真剣な眼差し。
シュマはそっと口を開いた。
「それでは、行って参ります」
頭の中から先ほどの思考を追い出す。余計なことなど考えまい。今は、自分にできることをする、メルゥに会いたいという願いを叶える、ただそれだけなのだから。
「行ってしまったな」
シュマを見送って後、アガルがぽつりとつぶやいた。ユエンはその横顔をちらりと見やったが、彼の表情は松明の作り出す陰影で覆い隠されてしまっていた。ただ、その深い瞳だけが一瞬だけ灯りの中に浮かぶ。
ユエンは再び視線をシュマの消えた方へと戻し、アガルのつぶやきには何も答えなかった。
「行ってしまった……か」
アガルが再び繰り返す。それを聞いてユエンは、思わず皮肉めいた笑いを漏らしそうになったが、すんでのところでこらえた。
行って『しまった』ということは、この男にも少しは残念に思う心があるのだろうか――ユエンには、とてもそうは思えなかった。メルゥが死んでからその日のうちに、あの決定≠下した彼の冷静さと、そして残酷さをユエンは知っている。
そして、その役目をユエンへと任せる冷酷さも。
「……それでは私も、参りましょうか」
ユエンは静かにアガルへと呼びかけた。この男の下で働くようになってから、随分と冷たい声が出るようになったものだと思う。そして恐らく、それはアガルが自分に求めているものだった。だからこそ彼は、この役目を自分へと託したのだ。
――この籠の長となるならば、鋭い刃物のように冷たく厳しくあれと、そういうことなんだろう。
「そうだな、行くがよい。――守るのだ、この籠の平安と秩序を」
地の底から響くような、低く重い声に、ユエンは深く拝礼する。将来このアガルのようになった自分を想像してみようとしたが、ふわふわとした思考は像を結ぶ前にかき消えてしまった。それで結構だ。正直な話、そんなものにはなりたくもない。
刃物のような鋭利さが、確かにこの籠の長には必要なのだろうと、それは理解している。けれどユエンには、どうしてもこの男を尊敬する気にはなれなかった。
「……承知、いたしました」
それでもユエンは、了解の意を示し、いっそう深く頭を下げる。そして再び顔を上げてのぞき見た彼の両目は、恐ろしいほどの深さをたたえていた。
けれどそれは、青空や湖の澄んだ水のような、清々しい深さとはかけ離れていた。見つめていれば、自分でも気が付かぬうちに黒々とした闇に捕らわれ、否応なしに深淵の底深くへと堕ちていく。そんな、底冷えのする深さ。
このまま闇に捕らわれるか、それとも青空の下へと出て行けるか、自分の命運は、この夜にかかっているのだろう――。
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