五章(3)

 シュマが生まれて初めて足を踏み入れた果ての山は、肌を刺すような静寂と、骨の髄まで染みこむような冷たさで満ちていた。一歩踏み出す度に、湿った草を踏みつける自分の足音が、想像していたよりずっと大きく響いてどきりとする。
「ニィ……」
 辺りに響かないよう、小声で呼びかけながら後ろを振り返ると、暗がりの中に気配がして、シュマの後をついてくる小さな姿があった。
 こんなに心細いのも初めてではないだろうか。初めての地に、たった一人。落ち着こうとしても呼吸は荒くなり、心臓は早鐘を打つ。ニィがいなければ立ちすくんで動けなかったのでは、とまで思われた。今は、ニィのあたたかな気配が、無言でシュマを後押ししてくれていたのだ。
(道は、間違ってないよな……)
 シュマは足下に目を凝らし、内心そうつぶやいた。そこにあるのは道なんて大層なものではなく、細々とした獣道だけだったが、シュマは来た道がわからなくならないように、木の枝に糸で印を付けながら頼りない道をたどっていく。
 こんなに草木の多い茂った山の中、周りの植物に引火したらと思うと、危険すぎてとても松明は使えない。シュマは視界の制限された暗い山の中、頭上の木々の間から顔をのぞかせる月明かりだけを頼りに、何とか進んでいく他なかった――はずだったのだが、思わぬ助けがあった。ニィの角だ。
 カーリの白い角は、月明かりの下では白い光を反射してぽうっと光る。暗闇の中で、青白い輝きが控えめにこぼれ落ちる様は幻想的でさえあったが、今はそれが視界を広げるのに一役買っていた。
 けれど、それでも遠くまで見渡すには、ニィの光だけではとても足りない。だからどこまで道が続いているのか、いったいどれだけ登ればいいのか全く予想がつかなかった。先の見えない道は、まるで永遠に続いているかのようで、それを登り続けるのは結構に苦しい作業だったのだ。
 ニィが何かにぴくりと反応したのは、その時だった。
「ニィ、どうした?」
 ふいに歩みを止めたニィを、シュマは不審に思って振り返る。だが当のニィはシュマの問いかけに応える様子もなく、虚空を見つめたまま静止していた。その両耳が、今までにないくらいぴんと立てられているのに気付いた瞬間、シュマの胸にざわつきが走る。
「まさか、何か……いるのか?」
 シュマがそう尋ねるのと、ニィがシュマに飛びついてくるのはほぼ同時だった。猛然とシュマへ突進してきたニィに反応できず、シュマはそのまま地面へ押し倒される。
 シュマは突然のことに混乱を覚えつつ、自分の上に乗りかかったのニィに、「どうしたんだ」と問おうとした。けれどその寸前、シュマの視界の端から端まで、ニィのさらに頭上を飛び越えて駆け抜けていった何かの影に、シュマの声は呑み込まれる。――何かいる。その思考にたどり着く前に、頭の中が真っ白になった。
 身動きできずに固まりかけていたところに、服の裾をぐいと引く強い感触がする。ニィがシュマの服を噛んで引っ張るその力強さで、シュマははっと我に返った。
「ニィ……逃げるぞ!」
 何かの影はまだすぐそこにいる。それがシュマたちの方をさっと振り返り、闇の中で怪しく光る目が見えた瞬間、シュマはあらん限りの力で地を蹴った。獣道を逸れ、茂みと木々の群れの中へと飛び込んでいく。それが追ってきているのが気配でわかったが、後ろも振り返らず走り続けた。
 どれだけ走ったかわからない。時間の感覚も方向も見失った頃、ようやくシュマは足を止めた。もう、追ってきている気配はなかった。
「はぁっ……はぁっ……」
 しばらくは息が切れて声も出せなかった。走りすぎた足からは一気に力が抜けて、シュマはその場に座り込んだ。まだ鼓動が収まらない。体は小刻みに震えていた。
 狼か、それとも何か別の獣だったのかはわからない。けれど、さっきニィが突き倒してくれなければ、シュマはいったいどうなっていたのか。それを思うとぞっとする。
「ニィ、ありがとな……。お前のおかげで命拾いしたよ……」
 ニィと、そしてニィを連れて行くようにと言ってくれた長に心から感謝した。それと同時に、この山の危険さを改めて思い知る。
 籠と神界とを仕切る山――ここはもう、人の住む世界ではない。そんなものは最初からわかっていたことだが、改めて背筋がすうっと寒くなる。
「しっかし、まずいな……。ここがどこなのかさっぱりわかんなくなっちまった……」
 焦りの混じった声が出た。やみくもに走ったせいで、先ほどの道からいったいどう来たのかわからない。つけていた印を見つけられれば道もわかるが、こんなに派手に見失ってしまっては、この暗さの中探せるかどうか……。
 馬鹿だ。もう少し落ち着いて逃げることだってできたはずなのに。そもそも、シュマがもっと周りに気をつけてさえいればこんなことには、
「ん……? ニィどうした?」
 再びニィがぐいぐい裾を引っ張っている。また何かいるのかとシュマは一瞬身構えてしまったが、ニィの落ち着いた様子を見るにどうやらそうではないようだった。
「まさかお前……道、わかるのか?」
 そう問いかけると、まるでシュマの言葉に応えるかのように、ニィはシュマから離れた方へ数歩進み、静かな表情で振り返る。ついてこいと、そう言っているようにシュマには感じられた。
 暗闇の中でも美しく光る、二つの宝石のような青い目と、優美ささえ感じさせる白く輝く角。それらを見た途端、焦りと後悔でいっぱいだった心の中がすっと凪ぐ。ありがとう、と顔を伏せると、くぅ、と小さな鳴き声がした。