五章(4)

 ニィの歩きはさすがだった。こんなに暗い中だというのに、真昼と変わらない素早さで進んでいく。それをひたすらに追ううちに、いつしかシュマたちは元の獣道へと帰ってきていた。
 元の道に復帰してからも、ニィは先陣を切ってくれた。再び登るだけの動作に戻ったが、時折ニィが獣道を逸れ、脇の草木の中へと紛れていくことがあった。そんなときは必ずシュマも後を追い、共に身を隠して息を潜める。すると大抵、何か通り過ぎて行く気配がするのだった。――ニィは本当に賢かった。避けられる危険全てを、彼は察知してみせたのだ。
 けれど、やはり何回かは最初のように面と向かって出くわすことになり、死と隣り合わせの感覚を味わなければならなかったが、その度にシュマは必死で逃げた。腰に刀は携えていたものの、使える自信も勇気もない。猟師ではないシュマは、何か野生の生き物に対して刀を振るった経験はほとんどなかった。逃げられるものなら、そうしたかったのだ。
(弱いな……俺)
 この夜ほど強く、それを思ったことはなかった。結局のところシュマは、ただのクィル飼いの少年に過ぎず、この山の中ではただの獲物でしかない。けれどそれでいちいち落ち込もうという気にもならなかった。余裕がなかったというのももちろんあるが、果たさなければならない役目がある以上、シュマは何とか前を向いていられた。
 そんな中「ちょっと休もう」とシュマが言い出したのは、山の中に唐突に開けた、見通しの良く平らな場所に出た時だった。そこは巨大な岩が山から張り出して高台のようになっており、端まで歩いて行くと眼下に広がる籠の様子が見渡せた。
 籠といっても実際はおわんのような形で、周りをぐるりと山に取り囲まれている。その中央付近に、ぽつぽつと灯りが灯っているのが見えた。そのあたたかな灯りを目にした途端、シュマは自分の中に何かたまらない感情がこみ上げてくるのを感じた。笑いたいのに泣きたい気もする――その思いを、シュマは言い表す術など持たなかった。
 やがてシュマは籠に背を向け、岩の中央付近へと戻っていった。それから近くに落ちている小枝などをかき集めると、腰袋から火打ち石を出し、柄から抜いた刀の刃へと打ち付けて火の粉を飛ばす。しばらくすると、ぽうっと小さな炎が頭をもたげた。
「ニィ。水、飲むか?」
 水の入った木筒を取り出し、シュマの隣に静かに座ったニィに声をかける。片手に水を零して差し出すと、嬉しそうに寄ってきては口をつけた。
 しん、と透き通った静かな夜だった。シュマはおもむろにひんやりとした岩の上に寝転がり、抜けるような黒い空を見上げる。ぽっかりと浮かぶ月は、見事な満月。
 投げ出された腕を少しずらすと、ニィのさらりとした毛並みに触れる。そのままそっとその背を撫でた。
「お前とも、もうすぐお別れか」
 ぽつりとそんな言葉がこぼれ出たが、ニィは何も反応を見せなかった。
「そしたらお前とは、もう会えないんだよな……」
 自分がいなくなって、ニィはどうするのだろう。……きっと、どうもしないのだろうなという気がした。クィルの世話役はきっと弟に代わるだろうから、今度は弟を助けてやっぱり走り回っているのだろう。そんな光景が鮮明に頭の中に浮かんでくる。
 そうして、そうしていつかは、この籠の大地へと還っていくんだろうか――。
「お前たちは、死んだらいったいどこに行くんだろうな……」
 神の世界には行けない、人でないニィたちは、体は地へ還って、けれどその魂はいったいどこへ向かうというのだろう。どこへも行けず消えてしまうというのか。……それはあんまりだ。あまりに悲しい。
「魂になって、ずっとこの籠に留まってんのかな……。せめて、そうであって欲しい……」
 消えることはないのだと、せめてそう信じていたかった。会えなくても、きっとどこかで繋がっているのだと。それなら、少しは寂しさが薄れる気がしたのだ。
「なあ、もし、もしだぜ。もし、メルゥが神になって救われることを選ばなかったら……」
 そうすれば、メルゥはもう神にはもうなれない。けれどこの籠で、自分の知っている者たちの側で――その者たちがいなくなったらその子孫たちを――永久に見守り続けていくことができる。それはきっと、メルゥにとっては幸せなことなんだろう。彼女がそれを選ぶなら、それでいい。
 じゃあ、シュマはどうなんだろう――籠に残るか、神になるか選べと言われたら、シュマはいったいどちらを選ぶんだろうか――今から神になりに行こうという時に、あまりに今更な問いではあるが。
「メルゥが永久に籠に残ることを決めたら……ニィお前、メルゥの側にずっといてやってくれないか」
 シュマは、この儀式に成功すれば神になってしまう。そうすれば、メルゥがこの籠に残ることを選べば、もうシュマはメルゥと一緒にいてやることはできないのだった。
 けれど、ニィたちの魂が籠に留まり続けるものなら、いつかはメルゥの魂と出会うこともあるのかもしれない。
「あいつさ、何だかんだで寂しいと思うんだよ、ずっと一人で籠に残ってるのは。だから、頼まれてくれないか、俺の願い。メルゥと一緒に、いてやってくれ」
 応えはなかった。けれど何となくわかってくれたような気がして、シュマは少し微笑む。そしてそのまま、ニィの月色にも似た銀色の背を、ゆっくりと撫で続けていた。
 しばらくじっと寝転がっていたが、夜の空気は寒い。動かずにいるとそのうち寒気がしてきて、シュマはばっと身を起こした。
「そろそろ行こう。多分、あと少しだ」
 シュマはそうニィに微笑んでから、視線を上に移して山の山頂の方角を見つめる。
 これだけ登って来てもなお、シュマの先にそびえ立つ果ての山の山頂付近は、夜闇に覆い隠されてよくわからない。けれど、頂上はもうそんなに遠くないと、シュマの勘が告げていた。周りに生える木々も、段々小さな低木が増えてきている。
 試練というのはいつシュマに訪れるのだろうか。今までの道程も大変ではあったが、試練というには少し違うような気がしていた。だから、遅かれ早かれ何かの試練がこれからシュマを襲うだろう――それを、シュマは越えられるのだろうか。
(やるしか、ないよな)
 ここまできて泣き言は言っていられない。前を見ていよう、その先にメルゥがいる。
「よしっ」
 叱咤するように自分の両膝を叩き、シュマは立ち上がろうとしてニィを見やった。ところがニィは既に立ち上がっていたものの、そこから動く様子を見せておらず、その視線は木々の茂みの方にじっと注がれている。まるで何かを見つけたかのような仕草だったが、道中に山の獣に気付いた時見せたような、緊張した表情はない。
「ニィ?」
 どうしたんだろうとシュマが首を傾げた時、ニィの視線の先の木々の間で何かがきらりと光った気がして、シュマは反射的に目を凝らす。
 ――そこでシュマが体を横にずらしたのは、ほとんど勘のようなものだった。

 キィン――っ!!
 
 次の瞬間、痛いぐらいの金属音が耳中に広がった。一瞬のことに視覚は追いつかず、真っ先に飛び込んできたのは、その硬い物同士のぶつかる甲高い音だけだった。だから最初はわからなかった。茂みから飛んできた何かを、たった今自分が紙一重の差で避けたということも――その飛んできたものが、今シュマの横に転がっている投げ矢であるということも。
 やがて、真っ白になっていた頭に徐々に色が戻ってくる。そして遅れてやってくる驚愕。シュマは荒く呼吸を繰り返しながら、呆然として「矢……」つぶやいていた。
(俺、目がけて……?)
 見下ろしたそれは、シュマの腕より少し短い木の棒に、やじりと羽がついた大きな矢だった。こんなもの、猟師たちが持っているのを見たことぐらいしかない。
 姉巫女が自分に打たせた眠らせるためだけの矢とは全然違う、明確に相手を傷つけるための矢――それは確かにシュマ目がけて飛んできて、そして岩に衝突して転がった。体をずらさなければ、まだそこにいたはずのその場所で。
 ――寒気がする。いったい誰が? どうしていきなり?
「……誰なんだよ、そこにいるのは!」
 猛然と吠え始めたニィの声で、ようやくシュマは自分を取り戻す。弾かれるように立ち上がりながら、夢中で叫んでいた。
 すぐには反応はなかった。辺りは静まりかえっていて、これは自分の気のせいで本当は何も起こらなかったんだと、そう思いたくもなる。けれど、どうしたところで矢の存在は消しようがない。
 自分の鼓動が聞こえそうなほどの沈黙の中、見つめる先の木々の間が、やがてザっと大きな音を立てて動いた。
「……ったく。そんなに注目されたら出てきにくいってのー」
 この場の緊迫感も何もかも、完全に無視した気の抜けた声。
 シュマは虚を突かれて固まるしかなかった。その反応も――出てきた人物も、シュマが予想できたはずもなかったのだから。
「……ユ、エン……?」
 呆然と名を呼んだ声は掠れていた。どうしてここに。その言葉は驚きのあまり声にならない。
 そこにあったのは間違いなく、下で別れを告げてきたはずのユエンの姿。何十年先に彼が自身の生を終えるまで、会うことなどできないと覚悟してきたはずの、彼の姿だった。
 どうして彼が、ユエンがこの果ての山の中にいる? いや、むしろ――どうしてここにいられる?
「驚きすぎだっての。いいじゃねーかよ、俺がいたってさ」
「何で、お前が……俺以外には、裁きが下るんじゃ……」
 シュマ以外は、この山に立ち入ることなどできないはずだった。それなのにどうしてシュマ以外の人間が、それもユエンがここにいるというのか。
 立ち尽くしているシュマをよそに、ユエンは呑気に首を傾げる。危険だらけのこの山の中で、その動作は不自然なほどに自然体だった。
「んー、知らねーけど、まあ俺がここでぴんぴんしてるってことは、とりあえずまだ裁きとやらは下ってないってことだよな?」
 そこにあるのは長年の親友のいつもの姿。口調もからっとした笑い方も何も変わらない。
 だから、ついふっと気が緩んでしまう。誘われるように、警戒心はシュマの中からするすると抜け落ちていった。
 ユエンの笑顔につられて、シュマまで笑いかけそうになった時、ユエンはシュマの足下に転がっている矢をちらりと見る。その口元に、微かに笑みが浮かんだ。

「あー、外しちまったか。ちゃんと、狙ったんだけどなあ?」

 ――瞬間、足下がぐらついた気がした。動悸が苦しい。背筋がすうっと寒くなって震えが走った。
 ユエンの姿もその笑顔も、全てがさっと色褪せてシュマから遠のいていく。シュマは知らず知らずのうちに、足下で砂利の耳障りな音を鳴らせて後ずさっていた。
「お前、今、何て……?」
「ん? 今言った通りだぜ? その矢を放ったのは俺だっての」
 ユエンはまだ笑っている。でもその姿は、わずか一時の間に、ユエンではない見知らぬ誰かと化していた。シュマには、今のがユエンの台詞だなんて信じられなかった。ユエンがシュマ目がけて矢を放つなんて――あまりに悪い冗談だ。
 ユエンが一歩前に出る。シュマは押されるようにじりじりと後ろに下がる。
「ユエン! 冗談は止めろ……頼むから……っ」
 からからに渇いた喉から絞り出した言葉に、しかしユエンは応じなかった。代わりに、彼は困ったように肩をすくめる。
「本気で当てに行ったのに、避けられるとか落ち込むなあ。お前、案外すばしっこいのな。驚いたわ」
 ぞっとするほどに変わらない口調。でも今は、それが怖くて仕方ない。
「ユエン! 何で……!」
 また一歩下がったシュマに、ユエンは面白がるように片目をひょいと持ち上げる。
「お前姉巫女に言われたろ? 試練があるって」
「……それ、は……」
 試練……? それが今だと? それも、
「……お前が、試練だっていうのか……?」
 驚愕すら通り越し、呆然と問い返すシュマに、ユエンの口が動いた。
「多分そうなんだろうなあ。姉巫女がどういう意味でお前にそれを言ったかなんてしらねーけど、とりあえず俺はお前を阻むぜ? だって俺は――お前を殺しに来たんだから」
 ひょっとしたらふざけているだけなのかもしれない。かろうじて残っていたシュマのそんな希望は、ユエンの笑顔の前に砕け散った。うろたえるだけのシュマに、ユエンは駄目押しのように話し続ける。
「理解したか? つまり俺は、お前を上までたどり着かせるわけにはいかねーってこと。そゆわけで、お前が生きて上に行きたいなら、俺をどうにかしなくちゃならねえの。ま、もっとも――、」
 彼の口の片端だけが、シュマを小馬鹿にするようにつり上がる。――それは、シュマの初めて見る、彼の軽蔑の表情だった。
「多分そんなの、お前には無理だぜ? だから、とりあえず覚悟よろしくってことで。な?」
 ユエンの嘲笑が降ってきた刹那、岩の足場を蹴る硬い音が、冷え切った空気と闇とに響き渡った。