五章(5)

 ユエンがシュマに向かって走ってくるのが見える。そして彼は、シュマに追いつく寸前、腰につけた鞘からさっと中身を抜き放った。その、月の光で鈍く輝く刃が、シュマに向かって振り下ろされる。それを見るなり、シュマはただ夢中で後ろに飛んでいた。シュマの目と鼻の先を、斬撃が駆け抜けていく。
「やめろ! ユエン!」
 シュマが喘喘ぎながら叫ぶ間にも、ユエンは次の動作に移っていて、振り下ろしたままの刀をそのまま横に薙ぐ。シュマは考える暇もなく、半ば地面に転がるようにしてかろうじて斬られるのを防いだが、避けきれずに髪の毛が数本宙に舞った。――ぞっとした。親友が、ユエンが、本気で自分を殺そうとしている。
「……ユエン!!」
 叫んだ声が裏返る。転がったままのシュマのすぐ上に、既に刀を構え直したユエンが立っていた。その青色の瞳は、微塵の冗談も含んではおらず、底冷えのする無表情でただシュマを見下ろしている。その刀を握った手が、さっと振り上げられる。闇の中で切っ先が冷たく煌めいた。
 何言ったってこいつは止まらない。このままじゃ斬られる――そう思った瞬間、ユエンが切っ先を振り下ろすよりわずかに速く、シュマはとっさに片足をユエンの足下へと突き出した。思いっきり蹴り飛ばしたことで、ユエンが体勢を崩す。その隙にシュマは必死で起き上がり、ユエンとの間に距離を取った。
 荒い呼吸を繰り返しながら、顔を上げてユエンを見る。胸の中では感情が渦巻いていた――凍えそうなほどに冷たく、痛い思いが。
「何でなんだよ……!」
 悔しくて悲しくて泣きそうだった。何でこんなことになっているんだろう。どうしてユエンがシュマを襲わなければならないのだろう。ユエンは、たった数刻前にシュマを笑顔で送り出してくれたはずなのに、あれは本心ではなかったというのか。
 ユエンは、本当はシュマの旅立ちを苦々しく思っていたんだろうか。でも、だからってどうして、どうしてこんな――!
「どうしてなんだ……! どうしてこんなことするんだ! メルゥが救われるかもしれないのに、どうしてお前が阻む! おまけに俺を殺すだなんて……答えろっ、ユエン!!」
 シュマが怒鳴る。ユエンは今度は、すぐに再び飛びかかってこようとはしなかった。わずかな間沈黙が落ち、二人の丁度真ん中で燃えるたき火の音だけが響く 
 ユエンが、ふいに苦笑した。どこか影のある笑いだった。
「どうしても何もないさ。別にお前に恨みがあるわけでもない。ただ、これが今の俺の役目ってだけだ」
「役目……俺を殺すことが、か!」
 役目? 何の? 何のための?
 それに、その役目というのが何であれ――シュマとユエンの繋がりは、そんな簡単に裏切れるようなものだったのか。シュマが信じていたものは、その程度のものだったのか。
「ユエン! お前っ!」
 親友だと、確かにそう信じていた。それなのに、ユエンにとっては違ったんだろうか。彼にとってシュマは、こんな簡単に傷つけられるような存在だったんだろうか。
 握りしめた拳は小刻みに震えていて、食い込んだ爪が痛い。今抱いているのは悲しみなのか怒りなのか、あまりに混ざり合ったその感情を、解きほぐすことなんてできはしない。ただ、どうしようもなくやりきれなくて、悔しくて、泣きたいぐらいだった。
 感情の渦の中で急速に全てがどうでもよくなり、そのまま激情にまかせてユエンに向かって飛び込んでいこうかとさえシュマは思った。
 ――そしてまさに、体が勝手にそうしようとした直前、足下で小さな鳴き声がする。はっとして振り向くとニィがじっとシュマを見つめていて、一声鋭く吠えた。
 「ニィ」と知らず知らずのうちにつぶやいていた。そして、シュマに注がれたニィの瞳の静かさに、シュマはふっと我に返る。頭に上っていた血がさっと引いていった。
(駄目だ。落ち着くんだ)
 あふれ出しそうな感情を堪えて、シュマは自分自身に向けてつぶやいた。
 やみくもに突っ込んでいくなんて駄目だ。それに感情に振り回されている場合ではない――シュマには、やらなければならないことがあったはずだ。
「……ニィ、大丈夫だ。わかってる、ここで止まれないのは……」
 唇を噛みしめ、押し殺した声でつぶやいた。
 今自分が、ここに立っている理由を思い出す。頂上に辿り着くと、そしてメルゥの元へ行くと、そう決意してシュマは果ての山を登ってきたのだ。
 何の理由があってユエンがここにいるのかもわからない。けれど、ユエンがシュマを阻むというなら、シュマはユエンに立ち向かわなければならない――。
(ユエン、本当にどうしてこんな――)
 それでもまだ、どうしてという衝撃と、ユエンと争うことへの迷いは残っている。拳を握りしめて前を見ると、ユエンの瞳と目が合った。もう一度いつものように笑いかけてはくれないのか。そんな思いを、シュマは振り払うように首を横に振る。
(でも、どうすればいい)
 ユエンをどうにかしない限り、シュマは先へは進めない。でもユエンは自分なんかより強い。さっきだって、ぎりぎりで避けることしかできなかった。
 立ち向かったところで勝てる可能性などない。それに何より――ユエンを傷つけたくはない。
(何とかして逃げ道を)
 シュマはばれないように周囲の状況を確かめる。
 二人とも岩場の上に立っているが、シュマの後ろは籠を見下ろせる崖、対してユエンの後ろは、そびえ立つ山。ユエンを通り越して山の中へ逃げ込めれば、逃げ切れるかもしれない。でも、シュマが木々の中へ飛び込む前に必ずユエンがシュマへと斬りかかってくるだろうし、仮に逃げ込めたとしても背中に投げ矢でも打たれれば終わりだ。
 何とかして隙を作らなければならないが――。
(でも、戦いにおいて俺があいつに勝っていることなんて)
 ない、と断言しかけて、はっと気付く。力や技術ではどう足掻いても勝てやしないシュマだが、全てにおいて負けているわけではない。だからこそ、先ほどシュマはユエンの振るう刀を避けられた。
 すばしっこさと、瞬発力。これだけは、毎日のようにクィルを追いかけていたシュマに利があるのだ。
 そして今、向かい合った二人の丁度真ん中の辺りで、煌々と燃えている焚き火。火との距離は、わずかにシュマの方がユエンより近い。
(やるしかない、か)
 覚悟を決めて、シュマは恐る恐る腰につけた刀の柄へと手をのせる。金属の擦れる音ともともに抜き放って目の前に掲げると、その感覚に思わずぞくりとした。これを誰か人に向けたことなど初めてだ。ユエンと練習で勝負したことはあるけれど、その時はただの木刀だった。
 今ユエンに向けているのは、紛れもない真剣。それにこれは、もはや遊びでもなんでもない。
「へえ? やっとやる気になったってか。……でも、お前に俺が倒せんのかよ?」
 ユエンが面白そうに口元を歪める。シュマはそれには答えず、ただ無言で柄をきつく握りしめた。ちらりと一瞬だけ焚き火の位置を確かめる。
 そして刀を斜め下に構え直し、すうっと深く息を吸い込んだ。
「行くぞ、ユエンっ!」
 叫ぶなり、刀を構えたままシュマは一気に地面を蹴る。そして、そのまま勢いを止めることなく走り出した。
「……ふん。いちいち宣言するとか律儀なやつ」
 小馬鹿にした声がして、数拍遅れてユエンも走り出すのが見えた。
 シュマと同じく刀を構えたユエンの姿が近づいてくる。二人の距離が徐々に縮まる。臆して立ち止まりそうになるのを叱咤して、シュマは走り続けた。刀を握る手に力がこもる。
 そして、ユエンとの距離があとわずかになった時、シュマは下げた刀を振り上げてユエンに斬りかかる――ふりをして、同じく後一歩のところに迫っていた地面の焚き火の炎を、燃える木枝ごと思いっきり跳ね上げた。
「なっ!?」
 ユエンが目を見開く。直後、宙を舞った炎がユエンを襲いかかり、ユエンは呻いて顔を庇う。その瞬間、シュマは猛然と向きを変えて山の中へと突進していった。
 「待て!」と怒鳴るユエンの声が後ろからした。金属の音がしたから、ひょっとすると追撃で刀か矢を投げようとしていたかもしれない。けれど、その頃にはもうシュマは木々の間へと夢中で飛び込んでいた。
(何とかなったか……っ)
 まだ緊張で心臓は破れそうに高鳴っている。お粗末な作戦だったが、何とか山の中へと逃げ込むことができた。こうなれば飛び道具の心配はしなくてもいいだろうが、早くしないとまた追いつかれてしまう。そう思い、草をかきわけてひたすら奥へ奥へと入っていった。
 しかしその刹那、前方で何かの影が走った。
「……っ!」
 シュマははっと息を呑み、反射的に立ち止まる。
 シュマが進む前方に、何者かが待ち構えている――そう気付いた次の瞬間、黒光りする刃がものすごい速さでシュマ目がけて突き出されてきた。とっさに体をひねったが、肩に熱い感触が走って思わずうめき声が漏れる。
 そして、その時視界の隅で揺れた、相手の衣の色のシュマは愕然とした。見覚えのある紺染めの衣――長の元で働く、護衛衆の所属である印。
「何で……何で護衛衆まで俺を!!」
 驚愕がほとばしり出る。ユエンに続いて、今度は護衛衆。本当に、本当にどうしてなんだ。シュマが儀式に成功してメルゥを救うことを、皆は願ったのではなかったのか。どうしてそれを、こんな形で邪魔しなければならない。
 だが、そんなシュマの叫びにも相手はただの少しも反応しない。機械的に刀を構え直したのが、暗闇の中でもかろうじて見透かせる動きでわかる。
 動かないと、このままでは殺される。けれど、一歩踏み出したところでずきりと肩に痛みが走り、シュマはうめいて立ち止まってしまった。――そのわずかな遅れが明暗をわけた。護衛衆の男の体が沈み込んだかと思うと、次の瞬間にはシュマのすぐ前にあった。目を見開くシュマの眼前で、比較的短めの刀が振り上げられる。その切っ先はシュマ目がけて一直線に落ちてくる――反応できない。終わりなのか――? こんなところで――!

 ザ――っ!

 その時、シュマの真横を猛然と風が駆け抜けていった。そしてシュマの目に飛び込んできたのは、護衛衆の男の胸元へと飛び込んでいった小さな影。
「ニィ!!」
 不意を突かれた男は、舌打ちをして胸元に取りすがるニィを振り払い、距離をとる。その男に、ニィは再び矢のように突撃していった。
「ニィやめろ! 戻れ!!」
 シュマは叫んだが、ニィは決して攻撃を止めようとはしない。刃を避けながら男にまとわり付き、男をシュマから遠ざけようとしている。
 そのニィが一瞬だけシュマの方へ顔を向け、宝石のような両の目がはっきりと見えた。そこに浮かんだ光にはっとした。それはあまりに強く、しっかりとシュマを見据えていたのだ。
(ニィ……先に逃げろって、言っているのか……?)
 置いていけるわけないと、そんな逡巡の後に、シュマはぐっと唇を噛みしめる。肩の痛みに堪えて、体の向きを変えた。
「ニィ……頼む、無事でいろ!」
 そしてシュマは、男とニィに背を向けて、木々の中へと紛れ込んでいった。収まらない傷の痛みも、顔にぶつかる木々の葉も、もはや構いはしなかった。
 ユエンが追ってきていたのかどうか、護衛衆の男があれからどうしたのかはもうわからない。ただシュマは、ひたすらにニィの無事を祈りつつ、必死で頂上を目指して走り続けたのだった。