五章(6)
こつり、と岩場に足音が響く。その音に促されユエンが顔を上げた先には、一人の護衛衆の男が立っていた。彼のたった一人で戻ってきた様子を見てとがめ、ユエンは短くため息をつく。
これでは失敗したと見て取るべきだろう。シュマがユエンの元から逃げ出すのは計算のうちで、それを男が待ち伏せしておく手はずだったが、上手くいかなかったのか。
「手ぶら……ってことは、逃したのか」
ユエンの厳しい声に、男は静かに頭を下げた。
「申し訳ありません。共にいたカーリに足止めされまして」
そこで一端言葉を切った彼だったが、なお何か言いたげな顔をしているので、ユエンは怪訝そうにまゆをひそめる。
「どうした? 何か?」
「……あの、あのカーリを共に儀式に向かわせたのは失敗だったのではありませんか。少年のみで山に入ったのなら、我々がわざわざ動かずとも、獣どもに襲われ命を落としたやも……」
それを聞いたユエンはため息をつく。
「それでは駄目だと何度も言っただろう。確かにカーリ無しなら、あの少年は勝手に死んだかもしれないし、こうやって足止めされることもなかったかもしれない。でも、勝手に死ぬのに任せるのは、それはただの運任せでしかない。我々は確実に少年を仕留めなくてはならない」
ユエンの非難めいた言葉に、男は何も言わずに目を伏せた。ユエンはそれをちらりと見て続ける。
「一番簡単なのは、山に入る前か、山の麓付近で殺してしまうことだったが、それでは騒ぎが民たちにまで伝わりかねないし、何より少年が民たちの方へと逃げる可能性が高い。誰にも知られず少年を始末するには、ある程度山を登り、少年が下へ降りて逃げることのないようにしてからでなくてはならなかった」
ユエンは、少しだけ忌々しげに息を鋭く吐き出す。
「そして、山を登ってから始末するためには、手を下す側である我々も山を無事に登りきり、なおかつ少年を見失わないようにしなければならない。そのためにはあのカーリの存在が必要不可欠だとの結論は、何度も話し合った上で出したことだ。
カーリは少年の案内役となると同時に、我々をも無事に導くだろう。なぜなら、あのカーリの銀色の背と白い角は、闇の中でもよく目立つ。我々が、視界のきかない山の中で、彼らに知られぬようある程度の距離を取ってついていくためには、まさに格好の目印だった。――この説明は以前にもしたことだ。余計なことで手間を取らせるな」
ユエンの叱責に、男が慌てて深々と頭を下げる。「申し訳ありません」と感情を抑えた声が聞こえた。だがその時には既に、ユエンは岩場の上を歩き始めている。数歩進んだ後、ふと男の方を振り返ってユエンは問いかけた。
「カーリはどうした?」
「いずこかに逃げ込み見失いました。今頃は少年の後を追っていることでしょうが、足を怪我していたので、そう速くは移動できないはず。急げば我々の方が早く頂上へ着くでしょう」
「……そうだな。怪我をしているなら、もはや大した邪魔もできないだろう。そうなった今、我々が考えるべきことは一つだ」
強い口調で言ったユエンに男がうなずく。ユエンは顔を上げ、闇に覆われた山頂付近を見据える。
「急ぐぞ。少年が籠を出る前に始末しなければならない。我々が、こんなまどろっこしい方法を選んで行動しているのは、全てはその目的のため。そしてそれは、他の何ものでもなく――この籠の秩序と平安のためなのだからな」
そう言うなり、ユエンはさっと駆け出し木々の間へ飛び込んでいく。続いて、護衛衆の男が影のように後を追っていった。
◆
しんとした空気に、シュマの草をかきわける音だけが響く。もう辺りには低木さえほとんどない。背の高い草だけの大地を、シュマはただひたすらに上を目指して駆けていた。
あれからどれくらい時間が立ったのだろうか。走り続けた体は限界に近く、おまけに、たった一人で行く果ての山は叫び出したくなるほどに孤独だった。
どうしてユエンと争わなければならなかったのか、どうして護衛衆までもが自分を狙うのか、ニィは大丈夫なのか――それらの止めどもない思いが、道中幾度となく浮かんでは闇の中へとかき消えていった。やがて、疲労で朦朧として考えることすらおぼつかなくなった頭の中、メルゥに会いたいという思いだけが、今のシュマを突き動かしている。
視界の限られた暗闇の中を、時折草に足を取られながらも前へ前へ、上へ上へ。決して止まらない。無理矢理にでも足を進める――そんな、気の遠くなるような道程の後、シュマがザっと音をさせて足下の草を踏みつけた次の瞬間、今の今までずっとシュマの前方にそびえ立ち続けていた山の姿は唐突に消え去った。
いくら目をこらしても、もはやこの場にシュマより高いものは何もなかった。シュマの周りにはぐるりと、やや薄明るくなってきた夜空が、おぼつかない様子で灯る星々とともに取り囲んでいるだけだったのだ。
しばらく呆然としていたシュマはやがて、もうこれ以上登る場所はないのだということを、ようやく悟る。
「ひょっとして、ここは……」
その瞬間、一気に疲労と感情とがあふれ出してきて、シュマは耐えきれずにその場へ崩れ落ちた。破裂しそうなほどの鼓動に喘ぎ、空気を求めて肺と喉は悲鳴を上げていた。
シュマの様子とは対照的に、辺りは恐ろしいほどに静かだった。虫の声一つすらシュマの耳には入ってこない。
「果ての山の、頂上――……っ」
無音の空間に響いた声は震えていた。あまりの緊張から解き放たれて、しばらくは何かを考えることすらできなかった。
そして空っぽになった頭に、頂上の清純な空気がそっと染み渡っていった頃、シュマはおもむろに立ち上がる。
まだ空は暗く、辺りがどうなっているのか見通しはきかない。でも、確かにここは果ての山の頂上――神の世界の入り口があり、人の世と神の世界とが交わるという場所だった。
(とうとう、来たのか)
ようやくここまでたどり着いた。そう思うと足が震える気がする。ようやくここまで、世界の果てまで来たのだ。
(ユエン……どうして……っ)
浮かんでくるのは途中に置いてきた少年の顔。そして、シュマのために危険を冒して飛び込んでいったニィの姿。
自分との闘いが試練だとユエンは言った。シュマの命を奪うために来たと。
それを思い出すと、胸が締め付けられる思いがする。それなのにシュマは、このまま神の世界に旅立ってしまって良いのだろうか――。
「……くそ、しっかりしろっ。ここに来て迷ってんじゃねえ」
叱咤するように自分自身につぶやいて、シュマは先の見えない目の前の暗闇を見つめ直した。ユエンと争ってまで、ニィを置いてまでシュマが頂上目指して進み続けたのは何のためだ。今諦めてしまったら、それら全てが無駄になる。
何があったとしても、今は前へと進むだけだ。その先に見える答えも、きっとあるのだと信じたい――メルゥの本当の思いも、試練とユエンのことも。
目の前にある、自分にできることをする。シュマはそう決めたのではなかったか。
(だから、もう、迷うな)
高鳴る鼓動を押さえて、シュマはきっと前を見据える。心を鎮め、すっと深く息を吸い込んだ。
「いと高き神々よ、ここに告げる我が言葉を聞き届け
給
え! 我が名はシュマ。籠の地より、
御身
の
思
し
召
しに従い馳せ参じし身なり!」
そうして腹の底から叫んだ。静寂の満ちた世界に、シュマの声だけが暗闇を切り裂いて響き渡る。
「我、籠の
理
において神とならん定め、謹んで受け入れん! その決意をもって、ここに願う。
汝
が力をもって清き
御元
への
導
を示し、神界への道、今ここに開かれんことを! 神々よ、我が願いをどうか叶え給え!!」
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