五章(7)
シュマが発した言葉の最後が余韻を残して辺りに溶け消えていく。そしてシュマは、何かが起こるのを息を潜めてじっと待った。心臓が破裂しそうなほどの緊張が続く冷たい空気の中、それでもシュマは待ち続けた。待って、待って、待った。
そして――そして、
何も起こらない
。
「どうして――」
困惑を隠せず、シュマは焦りと共に呟いた。もう一度目の前の闇に向かって呼びかけたけれど、それでも辺りはしんと静まりかえったまま、何の変化もない。
じわり、と胸に一滴落ちた不安がにじみ始める。口からは、どうして、と頼りない声が漏れた。ここに来れば、果ての山の頂上へたどり着けば神の世界への道が開かれる――そのはずでは、なかったのか。
「誰か……誰か、いないのか!」
焦りの募るままに、気付けばシュマは思わずそんな台詞を口走っていた。だが、その誰にとも知れない言葉に、返ってきたのは耳鳴りを覚えるほどの静寂だけだった。
あまりに密度の濃い静けさと、増していくばかりの不安に、押しつぶされてしまいそうだ。
(きっと、どこかに入り口か何かが)
ひょっとしてこの先に何かあるのだろうか。どうかそうであってくれ。そんな願うような気持ちで、シュマはふらふらと前へ出る。薄暗い中を足先で探りつつ恐る恐る進んでいった。
ここまで来るともう草は生えていないのか、柔らかいものを踏みつける感触はなく、反対に地面は随分と硬かった。
と――、
「げっ……」
直後、腹の底にひやりとしたものを感じ、シュマはうめいて足を止めた。それとほぼ同時にシュマは、自分の足下の辺りで、何かがころころと転がっていく音を聴いた。
――それが、小石が上から下へと真っ逆さまに落ちていく音だと気付いた瞬間、シュマはぎょっとして息を呑む。そうやって軽いを音をたてながら、小石は下へと落下していった。恐らくは、切り立った岩壁にぶつかりながら――。
「が、け――……?」
すうっと背筋に寒気が走る。気付かずにあのまま足を止めなかったらどうなっていたのかと、想像するとぞっとした。
目を凝らせば暗闇の中、シュマのつま先のすぐ先で、地面が切り取られたかのように途切れているのがかろうじて見て取れる。それだけで一目瞭然だった。シュマの先には、もう、何もない。
この先はもうこれ以上進むことはできない崖であるのだと、シュマは嫌でも理解する。高さはよくわからない――でも、それを確かめてみる勇気などシュマにはない。
そんな中、一つ明らかなのは、シュマはもうこれ以上どこにも行けないのだということだった。それだというのに、待っていたところで何も起こる気配はない。籠の出口も、神の世界への入り口も、何も見つからない。
「くそっ……、どうして何もない……! 何も起こらない!」
これ以上先がないということは、ここは紛れもなく果ての山の頂上の最果て。それはまさしく人の生きる籠の果てであり、ならこの暗闇の向こうには、神の世界があるはず。
けれど崖下を見透かそうとしても、この先に何があるのか見ようとしても、そこには黒々とした闇しか見えないのだった。
まさか、ここから向こう側に飛び込めと――? いや、でもいくら何でもそんな捨て身なことができるわけが――。
(いったいどうすれば……っ)
心の中で何度も問いかけれども、誰が答えてくれるわけでもない。シュマの前にも後ろにも、冷ややかな静寂がたたずんでいるだけで、やっとここまで来たのにと悔しさに唇を噛む。
――そしてそれは、シュマがそうやって途方に暮れ立ち尽くしていたその時だった。
シュマの見つめる前方の暗闇の遙か先方が、どうしてかほんのり白く明るくなってきていることに気付く。
はっとして目を凝らす前で、夜明け前の薄明かりに似たその白さは、暗闇の彼方で少しずつ強まり、そして辺りににじむように広がり始めていた。それと同時に、シュマの前に立ちはだかっていた厚い暗闇は薄れていくのだった。
その幻想的な様子に息を呑んだその時、白んできた暗闇の先で、何かが一点きらりと光った。薄暗い中に異様な強さを放ったその光の眩しさに目を閉じる暇すらなく、呆然とするシュマの目の前で、その一点を起点としてみるみるうちに溢れんばかりの光がこぼれ出る。そして、
――そして、白く美しい光が、まるでシュマ自身を包み込むかのように、あまねく世界の全てを照らし出した。
「え……?」
漏れ出たシュマの声は、ひどく掠れていた。
唐突に現れた白い光は、染み渡るように次々とシュマの前の暗闇を照らし渡し、闇はすうっと透き通って消えていった。
最初は、眩い光に目が眩んで何も見えなかった。そうして真っ白になった視界はしかし、やがてゆっくりと色づいていく。その先にシュマは思わず息を呑んで、眩しさに細めていた目をゆっくりと見開いた。
シュマの息の音が、やわらかな光で包まれた世界に響いた。そうしてシュマは身動きすらもできず、ただただ目の前の光景を見つめていた。――その、溢れ出た光で照らされ、シュマの前に広がった世界を。
「何だ、これ――……」
シュマが立っていたのは、確かに断崖絶壁の最端だった。首を伸ばして見下ろせば、その足下には、目眩がするほどに遙か下まで続く、切り立った岩壁。シュマはその上の、岩肌が多くのぞく土の上に立っている。
――けれど、その崖の下に広がっていたものは、あまりにシュマの想像していたものとは違っていた。切り立った崖が、下っていった先にやがて下の大地にぶつかった場所、そこをを起点として、崖下に見渡す限り広がっていたのは、
「森……だっていうのか……これは……?」
森と、シュマにはそう言う他なかった。崖下で首をもたげているのは背の高い木々たちの姿――けれど、その数と広さはシュマの知る範疇を遙かに超えていた。いくら彼方まで目を凝らし、首を回したところで、シュマの目に映るものはおよそ木々の群れ以外に何もない。それは、畏怖さえ感じるほどの広さと密度で、シュマが立つ崖の下の大地を覆い尽くし、見渡せる限りのずっと先まで続いていたのだった。果てなど見えるわけもない、あまりに巨大な樹海がそこにある。
そして、樹海の先の見えなくなったその上で、眩しくきらめく白い光が――夜明けの空で輝く朝日が、静かにたたずんでいた。それは、シュマが今まで毎日眺めてきたものと何ら変わらない、明けの空と朝の光だった。
そこで初めてシュマは、ついさっきまで果ての山の向こうを覆う闇だと思っていたものは、光のない中で黒く染まって見えた、見渡す限りの木々の群れであったのだと気付く。
(こんなことって……)
足がすくみ、力が抜ける。シュマはその場にするすると座り込んでいた。
果ての山の先には神界がある。そこは、数多の神々のすまう、苦しみも悲しみもない幸福で美しい場所――そのはずではなかったのか。それなのに、この樹海が広がる様はどういうことだろう。さすがのシュマも、神々がシュマたち人間と同じ見た目をしているとは思っていない。でも、どこをどう見渡しても、神らしき姿などどこにも見当たらない。そこにあるのは、ただただどこまで広がる木々の群れでしかない。
いったい、これは――、
「これが、神の世界だっていうのか……?」
「――んなわけねーだろ。これのどこに神がいるように見えんだよ」
ふいにそんな台詞が飛び込んできて、シュマははっと息を呑んで振り返る。振り返った先には、いつからいたのか、紺青の髪の少年がシュマよりわずかに数歩離れただけの距離に立っていた。
「ユエン……!」
追いつかれてしまったことへの焦りとともに、先ほどの彼との闘いが脳裏に蘇り、シュマは弾かれるように立ち上がる。一方のユエンは構えようともせずに自然体でそこにいた。
そして彼は、そんなシュマの様子に冷たい笑みを浮かべる。
「なーに焦ってんだよ。何やったって結果なんて変わらないだろ。お前にはもう、逃げる場所なんてない。それ、わかってんのか?」
せせら笑うユエンに、シュマは言葉に詰まる。少しずつ近づいてくるユエンに、一歩下がろうとしたけれど、小石が転がり落下していく音が足下から聞こえ、はっとして足を止めた。彼の言う通り、もう逃げ場なんてものはなかった。
「大人しく諦めろよ。お前には逃げる場所もなければ、到達するべき場所だってもうないだろ? ……いや、なくなったと言うべきか?」
「……っ」
「まったく笑うしかないよなあ。果ての山は神の世界と籠の中とを仕切る山。その頂上まで辿り着けば神の世界に行ける。神の世界は、全ての者が幸せな美しい世界……なんてさ。ほんと、ばっかじゃねーの。見ろよ、これ。アホみたいにでかいだけで、結局はただの森じゃねーかよ」
唇を噛んでうつむくしかないシュマに、ユエンの言葉が刺さる。果ての山を越えても、神の世界はない。それは、全て受け止めきるには余りある事実だった。
でも、いくら見直したところで、崖の向こうに広がっているのは、巨大な樹海と、空と、朝日だけなのだった。どうして、とそんな思いが何度もシュマの中で木霊する。ずっと目指してきた、神界という存在は唐突にシュマの前から消え去って――そして浮かんでくるのは、ただただ呆然とした思いだけ。
「どうしてだよ……っ」
感情にまかせてシュマが押し殺した声を漏らすと、ユエンの近づいてくる足音がはたと止まった。
「どうしてなんだよ! 何で果ての山の向こうに神の世界は無いんだよ! じゃあこれは何なんだ!? この巨大な森は、この世界は何なんだよ!!」
思い切り怒鳴って顔を上げると、手を伸ばせば届きそうなほどの距離にユエンはいた。否応なく互いに見つめ合う形になった彼は、もう少しも笑ってなどいなかった。
その顔に影が落ちる。諦観じみた様子で、まるでため息のような静かな声が聞こえた。
「果ての山の先に、神の世界なんて無い。何だと問われたって、名前なんかついてやしない。これは、ただの――、
――ただの、
俺たちの世界の続きだよ
」
無表情な顔でシュマを見据えたまま、ユエンの右手がさっと上がる。
「だからお前は、もうどこにも辿り着けやしない。メルゥを救うことだって、できない。だから何一つできやしないまま、お前はここで終わるんだ。 ――今だ、やれっ!!」
その鋭い言葉とともに右手がさっと振り下ろされた次の瞬間、シュマの耳に飛び込んできたのは、猛然と空気の切り裂かれる音だった。
あっと思ったその時には既に、いったい今までどこに潜んでいたのか、先ほどの護衛衆の男が真横にいた。そしてはっとして振り向いたその瞬間、受け身を取る間もないままに、シュマの視界は反転したのだった。
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