籠庭の詩

六章 零れ落ちた先に(1)

「そうして彼女は、全てを嘘で塗り固め、この地を閉ざすことで平安を手に入れる道を選んだ。誰も籠の外に出ないようにすることで、他国に知られることなくひっそりと生きていくことを彼女はよしとした。――その彼女の名は、ツァリといったらしい」
 ユエンの長い話が終わった後、最後に付け加えられた言葉にシュマは思わず瞠目した。
 ツァリ。それはメルゥが亡くなる前日に見せてくれた、彼女が好きだった花の名だ。意味は――名も無き存在=B
「……ああ、あの花のツァリと同じ名だよ」
「どうしてそんな……」
「彼女は自ら 女神(にょしん) と言い伝えられることで、こうして後生に語り継がれ続ける存在になったろ? でもな、そうすることで本来の彼女の姿は消えちまったわけだ。彼女が昔本当は何をしたのかを知ってるのは、アガルと姉巫女と、各村の村長たち、護衛衆のほんのごくわずか、そして次期長の俺だけだ」
 そうしてシュマたち民からは、真実は何もかも遠ざけられてしまったと――全ては、籠の平和のために。
「他の民たちの間では、本当の彼女の姿は、女神としての彼女の存在の影に埋もれて消えちまった。だから女神でない彼女は、誰も知らない、まさに名も無き存在=Aだ」
 そう言って、ユエンはどこか影のある笑みをうっすらと浮かべる。
「彼女の真実の姿と同様に、共に消えてしまうはずだった彼女の名前は、こうして意味を変えて伝わった。そして誰か呼んだか花の名前になった。……まったく皮肉な話じゃねーか」
 ユエンの言葉に、シュマはうつむいて手を握りしめる。腕をぐっと横に引いたが、護衛衆の男によって後ろ手に縛られた腕は、ほんのわずかにしか動かせない。
 縛られて地面に座り込んだ姿勢のまま緩慢な動作で振り返ると、途切れた果ての山の先端の向こうに、広大な樹海が深緑のうねりとして存在していた。いくら見返しても、その光景は変わらない。
 何もかも夢であれば良いのにと、そう思えて仕方がなかった。山に入ってからの出来事も、たった今ユエンから聞いた話も、全て。
 ――実際、本当は全部夢なのではないだろうかと、シュマは何度もそう思った。これまでずっと当たり前だと信じていたものが、全てシュマの手の中からあまりにあっけなく脆く崩れ落ちていく――。
「それじゃあ、この巨大な森を越えた先には……」
「広い世界と、たくさんの国があるんだろうな。それがどんな風なのか、何百年と経った今でも争いが続いてんのかどうかは、俺も知らねーよ」
 さして興味もなさそうにユエンが言う。その淡白な表情に、シュマはすがるような思いで視線を送った。
「けど……! 平和を守るためだけなら、何でこんな凝った嘘を作り上げる必要があったんだよ。死後は神の世界に行けるとか、神になれるとか、そんなことまで言い伝える必要ないじゃないか!」
 そんなシュマをちらりと見て、ユエンは冷淡に言い放つ。
「神話にあるだろ? 人は神の暇つぶしでしかない自らを憂い、嘆いた≠チて」
「それは……」
 シュマがうなずくと、微かにため息が聞こえた。
「籠に移り住んで、これで平和になると喜んだのは良かったんだが、いざ蓋を開けてみるとここはそんな楽園って場所でもなくてな。そうだろ? 気候は厳しいし、飢えることだってある。そのうち、それに文句言うやつらが現れたんだ」
 シュマから視線を外し、遠くを見るような瞳でユエンは続ける。少しずつ明るさを増し、次第に青みがかってくる空から光が降り注いだが、照らされた横顔は別人のように冷ややかだった。
「ツァリは最初に作った神話においても、籠を出て神界に行くことはできないとしてた。でも、これだとそのうち、無理矢理籠の外に出ようとする人間が現れるかもしれないと彼女は考えてな」
「……」
「そこで彼女は、神界に行くことはできないだけじゃなくて、やろうとしたら神による罰が下るっていうのに変えた。同時に、死後は神界に昇って神になれる≠ニいう一節を付け加えた。自殺も禁止した。
 生きている間は、絶対に神界へ行くことは許されない。でも、精一杯生きれば死後は神となって救われる……これなら、人々は救いのために籠の中で一生懸命生きるだろうと、そう彼女は考えたんだろ。実際その通りだろーが。今じゃ誰も果ての山を越えようとはしないし、自殺なんてしたらメルゥの時のあの騒ぎだ。死後に神になり救いを得るのが全て……皆、そう思ってる」
 暗誦するように一気に言いきった後で、ユエンの口元が皮肉めいた光とともに歪む。
「はっ、いつだって人は希望のために生きるのな。最初はツァリが差し出した安住の土地≠ニいう希望のために生きて、次は死後に救われる≠ニいう希望のために生きる。そのくせ、いざその希望が手には入ったら『ここでの生活は大変だ』なんて幻滅していく。……ほんと、ばっかじゃねーの。死後の救いを願って死んでったやつらも、今頃は『神になれるなんて嘘じゃないか』なんて文句言ってんのかよ。いや、それともどこにも行けない魂は、死んだら完全に消えちまって、何かを思うことすらできないってか?」
 突き刺すようなユエンの言葉に、シュマは一人うつむいて唇を噛んだ。死後に行けるという神界を明確に思い描いていたわけではないし、強く願っていたわけでももちろんない。けれど、死んだってどこにも行けないというその言葉は、ひどい絶望感を伴ってシュマを打った。それなら人は死んだら、いったいどうなるというのだろうか。
 そんなシュマの耳に、ユエンの嘲笑めいた笑いが届く。
「でも少なくとも生きてる間は、希望が偽物だってことになんか誰も気付かねーわけだ。まあ当たり前だよなあ。籠の外に何があろうと何が起ころうと――例え外から籠に入ってくる人間がいても、それが民に知らされることなんかねーんだから」
 ――外からの、人? その言葉を反復して、シュマは思わずはっと息をのんだ。
 今まで生きてきて、誰か籠の民以外の人間に出会ったことなんて、シュマは一度もなかったのに。
「入って、来てるのか……、外からの人間が……」
 ああ、とうなずいたそのユエンの返事は、さも当然という風にあまりに軽い。
「近くにあるらしい国からの旅人だったり狩人だったりな、たまに籠の中に迷いこんじまう馬鹿が一人二人いる。そこのでかい森のおかげで多くはねーけど、ゼロでもねーんだ」
「そんな……」
 それなのにシュマは、そんなことは何一つ知らなかった。
「お前みたいなのが知るわけないさ。お前だけじゃねえ、これだけ閉じた籠の中だ、一人でもよそ者がいればすぐに大騒ぎになる。――でも、これまで一度だってそんなことはなかった。これがどういう意味か、わかるか?」
 問いかけられて瞠目する。半ば真っ白の頭に、じわり、と一つの単語が浮かんでくる。そしてシュマは恐る恐る口を動かした。
「……消されてる……」
「そ、大せーかい。果ての山を越え、その続きの森を越えて一歩でも籠に踏み込んだやつは、見つかり次第捕らえられてんだよ。で、ここで一つ問題が出てくるよなあ。どうやって籠の中に入ってきたやつをすぐに見つけるか? んー、こう言ったってわかんねーか。じゃあ質問変更、どうやって見張ってるか?」
「見張る……?」
 外からの人間を見張るなんて言っても、そんな設備は籠の中にはないと、そう言いかけてシュマははたと気付く。
 考えてみれば確かにある。籠を取り囲む高い台。それはまるで何かを見張るように――その存在が脳裏に翻った瞬間、シュマの息をのむ音が辺りに響いた。
「まさか、巫女やぐらが……!」
 驚愕に顔を歪めたシュマに、さも当たり前と言わんばかりにユエンはうなずく。
「そういうことだ。神の声を聞くため、なんてのは大嘘。実際は、あのやぐらは外からの侵入者を見張るためのものだ。だから、あんな森の始まるすぐ近くに、しかも籠を取り囲むように、結構な数配置されてんだろ」
 また足下が崩れていく感覚がした。巫女やぐらまでが、巫女までもが、シュマの知るものとは違っていく。
 シュマの脳裏に、メルゥとトエの姿がすっと浮かんでは消えていった。彼女たちはこのことを知っていたんだろうか。まさか彼女たちも関わっていたと? そんなこと――。
「巫女の仕事の主な部分は、森から出てくる怪しい人物を見つけ次第、護衛衆の詰め所に知らせることだ。連絡には訓練した鳥を使っててな、護衛衆は知らせが来次第すっ飛んでいってそいつを捕まえる。全ては民が知る前に終わっちまうんだよ」
 うつむいたまま、感情を押し殺してシュマは口を開く。
「……巫女たちは、真実を知っているのか」
 メルゥとトエは――。
「姉巫女は全部知ってんな。でも他は、詳しくは何も知らされてねーよ。知らないままに、指示されるままに見張ってる。まあ、何か変だなぐらいには思ってるのかもしんねーけど、幼い頃から教え込まれてきた事実を、そう簡単に否定できるもんじゃないだろ」
「……」
「それにな、例え何か気付いたところで、何も知らない振りをするしか道はねーんだよ。誰かに知ってしまったことを話したり、少しでも何か変な真似をしたら、彼女たちには籠への侵入者と同じ運命が待ってる。――それによって知ってしまった人間にも、だ」
 相も変わらず淡白な表情で放たれたその台詞に、ぞくりと寒気がする。籠の底にそんな黒々とした暗闇が渦巻いていたなんて、信じたくもなかった。
「……メルゥは、トエは……真実を、知っていたのか」
「トエのことは俺は知らねーよ。メルゥは……知らなかったんだろ。じゃねえとと自殺なんかしないさ」
 当たり前のように返ってきた返答に、シュマの胸がずきりと痛む。
 この籠に居続けたい――そう願って散っていった少女。でも神話が全て嘘だったというなら、その思いも行動も、何の意味もないものに成りはてる。だって、死んでも神にはなれないのだ。神の世界なんてどこにもないのだ。存在しないものを拒否する必要なんて、メルゥには最初からなかったのに。
 どうしてこんな、残酷すぎる結末しか待っていなかったのだろうと思う。メルゥはあんなにも、心から願ったというのに。そのメルゥの願いも、彼女のために登って来たシュマの思いも、全てが打ち砕かれてしまった。
「一部の人間しか知らないし、そこで修行してる巫女たち本人だって知らねーけど、巫女殿の下には地下牢があってな。捕まったやつらは全員そこへ放り込まれる」
 メルゥのことなんてどうでもいいかのように、ユエンの話は次へと移っていく。それがどうしようもなく悲しくて、シュマはただ目を伏せた。
「……それから、どうなるんだ」
「一生死ぬまで幽閉か、すぐに殺されるか、アガルの指示で決まる。まー、どのみち生きて日の目を見ることはねーな」
 言葉もないシュマを前に、「でも」とユエンは続ける。
「そうやって巫女が突然いなくなったら騒ぎになるだろ? 獣に襲われて亡くなったとか、適当な理由が付けられるわけだ」
「そんな……」
「巫女だけじゃねーぜ。長い歴史の中だ。神話に反する考えを持ったやつが、一人もいなかったわけじゃねえ」
 そのユエンの言葉に、なぜかとても嫌な予感がした。
「民の中でも、何か籠を脅かす危険な考えを持っていたりそういう行動をとったものには、もれなく同じ道が待ってる。……ま、今回のお前みたいにな」
 ――ずん、と胸の奥に衝撃がきた。シュマみたいに……そう唐突に自分へと振られた台詞に、はっとしてのろのろと顔を上げる。真正面からのぞき見たユエンの瞳の奥は、深すぎて見透かすことなんてできなかった。
「どういう、ことだ」
 ぎごちない言葉が漏れた。ユエンは冷淡な目でせせら笑う。
「今回、この儀式が行われたことと、そしてそれにお前が選ばれた理由は、メルゥを救うために神がお前を選んだ、なんてものじゃもちろんねーぜ」
 馬鹿にした調子に、シュマは後ろ手にぎゅっと拳を握りしめた。まだ何かあるんだろうか。まだ、まだ――シュマの世界は崩れ落ちていってしまうのだろうか。
「全ては今言った通りさ。お前も、過去に消されていったやつらと同じなんだよ――シュマ」
 目の前で、ユエンの口からこぼれる声は、やはりどこまでも冷たかった。