六章(2)

「全ての事の起こりは、メルゥの自殺だった」
 ユエンは静かに話の続きを語り始める。
 気付けば空はいつの間にか、青薄色の広がりへと移り変わっていた。果ての山の頂上であるここで、もはや遮るものは何もない。どこを向いてもシュマの目には、果てない青が透き通るように存在しているのが映る。けれどそのどこか空っぽな色は、もうここには何もないのだという事実を、シュマに何よりも強く思い知らせるのだった。
「自殺は、神の定めた最大の禁忌。けれどその禁忌を、皆を導く存在であり手本でもある巫女が犯す――そんなこと、あっていいはずがねーだろ。直後の民たちの混乱っぷりを、お前だって見てたはずだ」
「……ああ」
 力なくうなずきながら、押しかけた民たちにもみくちゃにされ危うくつぶされかけたことを思い出す。シュマにとっては幼なじみの少女でも、皆にとってメルゥは尊敬すべき稀代の巫女だった。
「だから最初、アガルは何もかも隠して、メルゥは病で死んだものと偽ろうとした。でもメルゥのやつ、その日に限って、村の娘を六人も呼んでてなあ。前日のうちに、トエに言付けさせていたらしい。ああそうさ。お前を呼んだみたいにだ」
 さっきもそうだったように、ユエンはもはやメルゥの死になど何も思わないかのような素振りで、淡々と話を続けていく。
「メルゥの死がわかったそもそもの発端は、その子たちがやってきて、まだ起きていないメルゥを家人が起こそうとしたからだ。メルゥは前の夜に、明日友達が来たら起こすようにって言ってあったらしい」
 何となく話の流れが見えてきた気がして、シュマははっとした。
「その子たちの目の前でメルゥの死は発覚して、自殺だってのも明らかになっちまったんだ。実はファシャの存在に気付いたのも、メルゥがそれを口にしたらしいことに気付いたのも、そのうちの一人だ。……運の悪いことに、薬草師の娘が一人いてな」
「それって……」
「わかるか? そういうことだ。 隠そうとする前に、真実はその娘たちにばれちまった。これが一人や二人なら今まで通り闇に葬って終わりだったものを、それが六人もいては、まとめて消してしまうわけにもいかなかった」
 ユエンが苦々しげに顔を歪める。
「こうしてメルゥの自殺は民に知れ渡った。それでもアガルと姉巫女は、民たちの混乱を収めなくてはならなかった。だから姉巫女の指示で、神からの啓示として、儀式≠ェ行われることになった。メルゥの自殺は理由があってのもの。選ばれし者によって彼女は救われるのだと、そう民たちには信じさせようってな」
 そして鳴らされた民集めの鐘と、告げられた姉巫女の言葉。あんなに堂々としていた姉巫女の言が全て、籠の秩序を守るための詭弁だったというのだろうか。そんな、それはあまりに――、
「でも、それでも問題が一つあった。儀式を行うことによって、選ばれし者は真実を知ってしまうってことだ」
 そして、ふいに投げられたその言葉は、ずきりとシュマの内に響く。
「その者が知った真実を、決して民へと伝えさせるわけにはいかない。そこで取られた手段はご覧の通りだ。選ばれたと偽り儀式へと出立させ、そして山の奥深くまで入りこんだところで、」
 それ以上はもう聞きたくないと、シュマは両手で耳を塞ごうとした。けれど、縛られた腕は少しだってそこから動こうとはせず――そして何の抵抗もできないまま、ユエンの声は直接シュマの鼓膜を揺らす。
「口封じのために、その存在を抹消するんだ」
 音もない明るい空間に、その言葉は虚しいほどに軽く響いた。
「それで、籠の秩序は守られる」
 でも、その意味はひどく重い。
「……どうして……俺が……」
 やっていることはまるで生け贄だ。それに、シュマは選ばれてしまった。
「さっき、過去に消された者たちと同じだと言ったろ。お前の思想が危険視されたからだ」
 その言葉に、胸の奥がざわついた。シュマがいったい何をした。こんな目に遭うようなことなんて何一つしていない。シュマはただ、普通に暮らしていただけじゃないか。
 急激に体が熱くなり、勢いに任せて立ち上がろうとしたが、後ろでシュマを見張っていた護衛衆の男がそれに気付いて肩を押さえてくる。膝を浮かせただけの姿勢のまま、シュマはユエンを睨んだ。
「勝手なこと言ってふざけんな……っ! 俺が何をしたって……っ!!」
 対するユエンはどこまでも静かに、 
「皆の中で唯一人お前だけが、メルゥの死を喜んでいなかった。それだけでなく、メルゥが生きることを望んだ……それは教えと反することだ」
 そう言われてはっとする。確かに、シュマの思いは皆とは異なったものだったはず。
「少なくとも、アガルから見ればそうだった。お前、メルゥに会いに行ったあの時、いったい何を話してた」
「俺は……」
 メルゥに呼ばれて出かけていったあの日、シュマはどうしてそんなに心配するのかと問われるままに、メルゥに『生きていて欲しい』と告げてしまった。『神なんてよくわからない』とも言ってしまった。
 言葉のないシュマに、ユエンがうなずく。
「そういうことだ。そしてお前は――それをアガルの家人に聞かれたんだ」
 家人に聞かれた。それを口の中で反復し、メルゥの家での事を思い返してはっとする。
 あの時メルゥの部屋まで案内してくれて、そして部屋から出たときにも待っていた女性がいたはずだ。シュマがメルゥと話している間ずっと部屋の前で待っていたというなら、もしや話を聞かれたのではと、あの時も不安に思ったじゃないか。
 腑に落ちかけたシュマの中で、けれど同時に「でも」という声が反響する。
「確かに話したのは事実だ……でも、それだけだろう……!? 確かに褒められた会話じゃないかったけど、でもたったあれだけで殺すなんて……!」
「……それだけだったって、本当に言い切れるのかよ」
「だってそれだけじゃないか!」
「本当にそれだけならそれで良かったし終わってた――でもその後すぐにメルゥは自殺したんじゃねーかっ!!」
 唐突に響き渡ったユエンの怒声。その瞬間シュマは、血の上っていた頭にまるで冷水を浴びせられたような気がした。膝を浮かせた状態から、力なくぱたんと硬い地面に座り込む。
 何かを言おうとしても声にならず、緩慢な動作でユエンを見る。彼の蒼色の瞳はまるで燃えるように濃く、苛烈にシュマをにらみ付けていた。これまでずっと無表情で冷淡な顔しか見せていなかった彼の、ようやく感じられる溢れんばかりの感情の発露――痛いほどに突き刺さる、紛れもない本気の思いだった。
「俺が、メルゥ、を……?」
 漏れ出た声は、自分でもわかるぐらいにはっきりと震えていた。
 考えてもみなかった。自分があんな話をしたから、メルゥは次の日に自殺を……? でも、メルゥがファシャを取りに行ったのはシュマとの会話とは全く関係がないじゃないか。
 でも――でも、ひょっとすると、シュマとの会話の中で、メルゥは『この籠が好き』『神になんてなりたくない』という思いをより強固なものとしてしまったのだとしたら。シュマとの会話が、何らかの引き金となってしまったのだとしたら。シュマが、原因だったとしたなら――、
「俺のせい、なのか」
 ようやく声を絞り出す。押しつぶされそうなほどに体が空気が重く、一語を発するのにすら苦労した。
「少なくとも、アガルはそう考えた。お前と話したせいでメルゥは妙な考えを持ってしまって、次の日に自殺したんだと」
「俺は……」
「どうせお前はこう考えてんだろ? メルゥがファシャを取ってきたのがそれ以前である以上、お前が原因だっていう確かな証拠はないって。ああそうさ。お前と話す前から死ぬつもりでいたのか、それともファシャは偶然ツァリの中に紛れ込んでただけで、お前との会話によってそれを使う気になったのか……そんなのもう誰にもわからねーよ。
 でも、お前とあんな会話をして、そして次の日に自ら命を絶ったという事実は変わらねえ。お前が引き金かもしれないって疑惑も消えねえ。それさえ存在してるなら、お前を危険と見なすのには十分だったんだよ。
 明確な証拠なんていらねーんだ。少しでも危険と判断したら、何か起こる前に摘んでおく。今までだってずっと、そうして籠を守ってきたんだからな」
 先ほどの怒声から一転、ユエンの声は再び元の冷ややかな調子に戻っていた。でもシュマは、まだ彼の瞳の奥で苛烈な炎が燃え続けていることに気付く。
 アガルはそう考えたという――なら、ユエン自身は?
(ユエンは、俺を――)
 ユエンもずっと、シュマのせいでメルゥが死んだと思っていたのだろうか。メルゥを奪ったシュマを憎んでいたのだろうか。だからあんなにためらいもなく、シュマを殺そうとしてきたのだろうか――。
「お前がいなきゃな、儀式なんてしなくてよかったんだ。ただメルゥが自殺してしまっただけなら、姉巫女が『メルゥは救われる』と宣言すれば、それで何とか収まってたかもしれない」
「……」
「でもお前という危険因子がいたことで、お前を消さなきゃならなくなった。結果的に、お前が儀式に向かうというはっきりとした証を見せつけることで、より強く民たちにメルゥの救いを信じさせることはできたさ。でもな、元をたどれば結局お前のために儀式は行われたんだ」
「……っ」
「こうしてお前は、偽りの儀式の中で、籠の平和と秩序のために殺されようとしている」
 ユエンの言葉が静かにシュマを打った。
 理由も何もかもが明らかになった今、それは紛れもない死刑宣告だった。
「……何で、俺を殺すのがお前の役目なんだ……。お前が俺を、憎んでるからか……」
 シュマの弱々しい問いに、ユエンは鼻で笑う。
「ふん、さすがに私怨で人殺しするほど堕ちちゃいねーよ。俺が来たのは、単にアガルに命じられたからだ。次期長としてな」
 でもユエンはその命令を受け入れたのだ。そしてシュマを憎んでいるという事実を否定しなかった。ならそれは……同じことだ。
「勘違いすんなよ。俺は将来籠の平和を守っていく身として、やらなきゃなんねーことをしに来ただけだ。お前なんざ微塵も関係ねえ」
 ユエンがそっけなく言ったその時、シュマの後ろで微かな衣擦れの音がした。その瞬間までずっと気配を消して黙していた護衛衆の男が、そこでようやく口を開く。
「ユエン様。そろそろ時間かと」
 びくりと身動きしたシュマの目の前で、ユエンはちらりと男の方へと目をやり、再びシュマへと視線を戻した。
「だ、そうだ。柄にもなくべらべらしゃべり過ぎちまったけど、まあどうでもいいことだよな。さて、そろそろ終わらせちまおうか」
「ユエン……!」
「何だよ、まだ何かあるっていうのかよ。今更助けてくれって懇願でもしてみるか? わりぃけど、そんなの一切聞きゃしねーぜ」
 そうして向けられた視線の中に、彼の怒りを垣間見た瞬間、シュマはもう何も言えなかった。このまま死にたいわけがない。でも、シュマを助けてくれる人はここには誰一人おらず、帰るべき場所もなく、もうシュマには、為す術もない。
 シュマはただただうつむいてきつく拳を握りしめる。これが自分の末路かと思うと、悔しくて悲しくて泣きそうだった。何もかもに見捨てられて、親友だと思っていた相手には憎まれて――そして、殺されるなんて。
「……」
「堪忍したかよ」
 何も言わないシュマを、諦めたと見て取ったのか、ユエンは護衛衆の男にちらりと目配せをする。途端に、男が後ろからシュマを強く押さえつけてきて、こうなるともうどうやっても逃げ出すことはできなかった。
 何か言葉を口にすることすらできないシュマの耳に、鞘から刀の抜ける金属音が届く。恐る恐る見上げた先には、ユエンが刃を構えて立ちはだかっていた。日の光に照らされてきらりと眩しく光る銀の刃を、シュマは絶望的な思いで見やる。
「……じゃ、さいならってことで……!」
 自分の行く末を見届ける勇気などなく、シュマはとっさにきつく目を閉ざす。
 その耳に――刀が空気を切り裂く音が聞こえた。