六章(3)

 死ぬのはいったいどんな感じなんだろうと思った。やはり痛くて苦しいのだろうか。暗くて寒いのだろうか。それは嫌だな、死ぬなら一瞬がいい、なんて妙に現実逃避した思考が頭の中を駆け抜けていく。
 ――でも、そうして想像していたような痛みは、いつまでたってもシュマを襲ってはこなかった。そしてその代わりに、

 ガンッ。
 
 そんな、何かを殴るような鈍い音が、シュマのすぐ後ろから聞こえたのだ。 
「え……?」
 混乱を覚えて声を上げた直後、ふいにシュマを押さえつけていた男の手が弛む。間髪空けず、どさっと地面に何かがぶつかるような音と振動とが、シュマの背に伝わってきた。
 そのまま、やはりいくら待ってもシュマに死は訪れなかった。それでもしばらくは動けずにいたシュマだったが、あまりに静まりかえった辺りの様子に、やがて恐る恐る目を開ける。
 前には相変わらずユエンが立っていたが、握りしめた刀の切っ先が指すのは既にシュマではなく、だらんと地面へ向かって下げられていた。シュマはそのままユエンをなぞるように視線を上げていき、やがてユエンの両目を視界に入れる。彼の視線は、シュマより少しずれてシュマの後方へと向かっている。
 混乱を抱いたまま、シュマはユエンの視線をたどるようにぎこちなく首を後ろに回す。と――、
「え……!?」
 途端に自分の口から驚愕の声がこぼれ出た。振り返った先の地面には、ついさっきまでシュマを押さえつけていたはずの護衛衆の男が力なく倒れ伏していたのだ。その目は固く閉じられて、動く様子もない。
「ユエン……?」
 戸惑いつつ呼びかけた先の少年はというと、無表情でちらりと目をやってきただけだ――と思えば、いきなり何の前振りもなく再び刀を振り上げる。びくりと心臓が跳ね上がり、今度こそ終わりかと身を強ばらせたが、結局またしても想像したようなことは起こらなかった。
 それどころか、ユエンが刀を振り下ろすと同時に何かが切れるような音がして、ふいにシュマの両腕を縛っていた縄の感触が消える。
「は……?」
 ゆっくりと動かした両腕は、ちゃんと視界に入る位置までやってきた。あっけにとられて目の前のユエンをぽかんと見つめてしまったシュマを、ユエンは気に入らなさそうな顔でねめつけてくる。
「……さっさと立てよ、いつまで無様に座りこんでんだ」
 そう言われて、シュマは慌てて立ち上がった。そのはずみに肩の傷が痛み、やや顔をしかめる。
 それを見て取ったユエンが口を開く。
「ま、見ての通りだな。俺はお前を斬ると見せかけて、実際はすぐ後ろにいたそいつの頭を平打ちして気を失わせた、と」    
「なんで、そんな」
「何でも何もないだろ。俺はお前を殺さなかったんだよ。それが全てだ」
 殺さなかった。シュマはその事実を噛みしめる。ユエンは、結局シュマに刀を振り下ろすことはしなかった。
「ユエン、お前まさか俺を……」
「勘違いすんなよ」
 言いかけた言葉は、ユエンの鋭い台詞で遮られる。そして、カチャリ、と音がしたと思った次の瞬間、シュマの目と鼻の先に銀色の刃の切っ先が突きつけられていた。ほんのわずかにでも安堵しかけた気持ちは、一瞬で氷のような底冷えへと変わる。
 そしてシュマを射貫いたユエンの瞳の中では、青色の炎が燃えていた。
「お前を殺さなかったからって、別にお前を助けたわけでもなんでもねえ。俺はその邪魔な男をどうにかしただけだ。俺は最初からこうするつもりだったんだ」
「それは、どういう……」
 問い返したシュマにユエンの鋭い視線が刺さる。その瞳の冷たさに、言葉は途中で詰まって出てこなかった。
 その時、ユエンがようやく刀を地面に向かって下げる。緊張から解放され、思わず深く息を吐き出したシュマの前で、彼はふっと視線を虚空へと向けた。
 その先には抜けるような大空。その雲一つない青色を背景に、一話の白い鳥が飛んでいるのが目に入る。それはシュマとユエンの見上げる中で次第に上昇していき――やがて、見えなくなった。
 沈黙の後、眩しい光を受けて彼の青空に似た瞳がすっと細められる。

「俺はな、この籠から出て行きたかったんだよ」

 唐突にユエンから飛び出した言葉がそれだった。思いがけない台詞に、思わずシュマは目を丸くする。
「出て行きたかったんだ。こんな籠なんて捨てて、外の世界に行きたかった」
 ユエンの顔が再びシュマへと向いた。
「……でもな、普段は出て行くなんて危険な賭だ。巫女やぐらから、森に入っていく人間は監視されてるし、少しでも怪しいと思ったりある程度経っても戻らなかったら護衛衆による捜索が出る。それで見つかったら連れ戻されて……まあ、そこで人生は終わったも同然なわけだ」
 森へ立ち入る時は、声の届く範囲でなら必ず森に入る理由を聞いてきて、そして山へは立ち入るなとの警告を告げる巫女たち。森へ入る人々は皆巫女に挨拶をしていくから、結局は全員に尋ねていることになる。あれはそういうことだったのかと、今なら思う。
「森へは、時々猟師に扮した護衛衆も見回りに入るしな。一か八かの賭けに出るには、ちょっと勝算が薄すぎんだろ。だから俺にとっては、この儀式はまたとない機会だった」
「そうか……お前っ」
「ああ。この儀式でなら、俺は怪しまれることなく果ての山へ登れる。じゃまなそいつさえどうにかしちまえば――……俺はもう、どこにだって行けるんだ」
 はっとする。ユエンは最初から、シュマを殺すつもりで山を登ってきたのではなかったのだと。そんなものは最初から彼の目的ではなかったのだと。
 そう見せかけた上で、ユエンは護衛衆の男を何とか動けないようにして、逃げるつもりでいたのだ。
「苦労したんだぜ。俺、自分が弱いとは思ってねーけど、訓練された護衛衆二人相手なんてまあ無理だ。アガルにあの手この手で理由を言って、どうにかこうにかお供をそいつ一人に減らした。もちろん疑われないように、これ以上ないぐらい従順な振りをしてだぜ?」
「……」
「で、そのついてきた一人も当たり前に俺よりは強いからよ、こうやってお前を殺す直前の直前まで引き延ばして、何とか、ってとこだ」
 忌々しげに語るユエンを、シュマはじっと見つめる。「そこまでして、どうして」と小さく尋ねた。ユエンが冷たく苦笑する。
「お前だってこの籠の全てを知ったろ。ばっかみてえと思わねーか。こんな狭い土地に、騙されたまま一生閉じこもって生きるんだぜ。馬鹿すぎんだろ」
「ユエン……」
「しかも死が救いだ? 死を目指して生きろ? ……ふざけんのもいい加減にしろ。死んだって結局何もねーだろうが。こんな嘘で塗り固められた籠に、生に、何の意味があんだよ。本当に、笑っちまうくらいつまんねー世界だ」
 押し殺した声だったけれど、その中には激しいまでの怒りと苛立ちが込められていた。
 狭い世界だ。ここから出て行きたい――思えば、ユエンが唐突にそう口にし始めたのはいつのことであっただろう。その時からユエンは、次期長として全てを知ってしまっていたのだと、今ならそうわかる。同じ事をつぶやくユエンを、シュマはまたかぐらいにしか思っていなかったが、何も知らないシュマの横で、ユエンはどんなに複雑な思いを抱えていたのだろう。何もかも捨てて逃げ出したいと――ずっとそう思っていたのだろうか。
(俺は、本当に何も知らなかったんだな……。親友の思いでさえも……いや、もう親友なんて言えないか……)
 うつむくシュマに、ユエンの声が降る。
「……それに、このまま籠に居続けたら、将来俺は長にならなきゃなんねえ。これだけ真実を知ってしまった今、もう俺に拒否権なんてないしな。拒否したら最後、俺がアガルに殺されるだけだ」
 ユエンの踏みしめた足下で、がりっと岩と靴との擦れる音が鳴った。
「俺はぜってー長になんかなるつもりはない。そんなもん例えアガルが土下座したってごめんだ。俺がこの世界を支配する大嘘の片棒を担ぐなんて、考えただけで吐き気がする」
「長になって籠を変えるっていうのは……」
「できるわけねーだろ。籠を牛耳ってんのは長だけじゃねえ。姉巫女もいんだよ。あの婆さん、自分に逆らう者は長だって殺してみせるぜ。メルゥが生きててあのまま姉巫女になれば、違ったのかもしんねーけど……それももう叶わないことだしな」
「……」
 何も言えずに黙ってしまったシュマの様子を見て取り、ユエンはふっとため息をつく。
「説明は終わりだ。俺はこの籠を出ていく……お前は、勝手にどこにでも行けばいいさ」
 それはあんまりな台詞だった。どこにでもと言われても、いったいどこに今のシュマに行ける場所があるというのか。
「勝手にって……」
「俺はお前を殺さなかった。でもそこまでだ。この後のお前なんて俺の知ったことじゃない」
 ユエンの台詞はやはり冷たい。
「おめおめと籠の中に戻って捕まろうが、籠の外に出てのたれ死のうが、もう俺には関係ない。あ、籠に戻って民に真実を触れ回って大混乱を引き起こすって選択肢もあるか? あの籠だってな、もう俺には関係ねーんだ。どうだっていい――全部お前の勝手にしろ」
 シュマのことも、籠のことも、全部どうでもいいと言うユエンに、シュマの胸は痛んだ。
 自分のことはいい。憎まれても仕方ないとも思う。でも、籠のことまでどうでもいいなんて言って欲しくはなかった。
 確かに真実はとても残酷で、嘘で塗り固められた世界だった。でも、だからって無意味だっただろうか。だって、ここには、
「籠のことも関係ないって……じゃあお前にとっては、メルゥのことだってもう、関係ないのか……?」
 ユエンが、トエが、メルゥが、みんながいたっていうのに。
「……お前がそれを言うのか」
 わずかの間の後、底冷えのする声がした。シュマを見るユエンの瞳は暗い炎で満ちていて、シュマははっと息を呑む。
 その次の瞬間だった――ユエンの体がさっと動いたように見えた直後、息が止まるかと思うほどの強い衝撃がシュマを襲う。そして間髪空けず、ふわり、と感じた浮遊感の後、シュマは背中ごと地面に叩き付けられていた。
 うめいて見上げると、そこには苛烈にシュマをにらみ付けるユエンの顔がある。目を見開いたシュマの上で、シュマの襟首をつかむユエンの手に力がこもった。
「ざけんじゃねえ! あいつをみすみす死なせたお前がそれを言うのか!? 何も知らずに我が儘ばかり言ってたお前が!」
 激しい感情とともに投げ出された言葉は、構える間すら与えず、シュマの内をえぐった。あえぎながらシュマは問う。
「……やっぱり俺のこと、恨んでるのか」
「ああそうだよ恨んでるさ! お前に直接の原因なんてないのはわかってる! でもな、どうしてあの時お前は、最後まで生きて神になって救われてくれって、そう言ってくれなかったんだ!!」
 何も答えられない。確かにそうシュマが言っていれば、あの時メルゥは死なずにすんだのかもしれなかった。
「それを、死んで欲しくないとか神になって欲しくないとか、自分勝手な我が儘ばかり言いやがって! どうして、どうして籠に居続けたいっていうあいつの言葉を否定してくれなかったんだ! どうしてそこで、神になってくれって言ってやれなかったんだ! 確かに俺だってメルゥにはずっと側にいて欲しいと思った。でも、こんな形でそれを望んでたんじゃない……!」
 シュマはようやく自分の浅はかさを思い知る。自分は何て愚かだったのか。どうしてこんなにも何一つ見えていなかったのか。
 幸せでいて欲しいと願った人の思いも、親友の思いも、何一つシュマには理解できていなかったのだと――。
「俺はお前を恨んで憎んだ。私怨で殺さないとか言っておきながら、最初は本当に殺してやろうかとも思ったさ。でもそんなことしたってな!」 
 ユエンが言葉を切る。押しつぶされそうな、気の遠くなるような長い長い沈黙があって、そして、
「あいつはもう二度と戻ってこない……!」
 掠れて消えそうなユエンの声が、微かにシュマの耳に届く。
 一瞬、本気で泣いているのかと思った。だからその声だけで、シュマにはすぐ理解できてしまう。ユエンがどれほどメルゥを愛していたのか、そして、それを奪ってしまったシュマへの彼の恨みが、どれだけ深いのか。
「俺はな、こんなくそつまらねえ籠の中でも、メルゥさえいたらこの中で生きてみてもいいかと思ってたんだ。偽りだらけの世界でも、あいつさえいたなら俺は道化にだってなんだってなってやったさ!」
「……っ」
「でも全ては崩れ去ってしまったんだ! あいつだってもういない! 俺がこの籠に残る理由も……きれいに消えちまったよ」
「……」
 何も言えなかった。そんなシュマを、しばらくにらみ付けていたユエンだったが、やがてすっと表情が消える。シュマの首もとから手を離し、ゆっくりと立ち上がる音が聞こえた。
「俺は行く。お前とはもう二度と会わないだろうさ」
「……」
「じゃーな」
 別れの言葉。それにはっとしてシュマは反射的に身を起こした。見えたのは、シュマから遠ざかっていくユエンの背中。手を伸ばしても声を張り上げても――多分、もうシュマが何をしようと届かない。
(ユエン……っ)
 何一つ声にはならず、呼び止めることは、できなかった。
 ユエンは崖の端まで歩いて行って、降りれそうなところでも探しているのか、注意深く下を覗き込んでいる。その様をシュマはただぼんやりと突っ立ったまま眺めていたが、やがて岩と砂ばかりの地面に目を落とす。
 体が重くて、動こうとしても動けなかった。これからどうすればいいのかもわからない。山頂はこんなに明るくて、空はこんなにも青く広がっているというのに、まるで自分の周りだけ闇で覆われてしまったかのように、シュマの先には何も見えない。
「くっ……メルゥ……っ」
 そんな資格はないのにと自覚しながらも、うわごとのように、記憶にこびりついて離れない少女の名を呼んでしまったその時、

 シュッ――……っ。

 ユエンの足音と自分の息づかいの他には何も聞こえない場所に、ふいに異質な音が紛れ込んだ。何かが風を切り裂くような音。聞き覚えのあるような気もするその音が、いったい何なのか確かめようとシュマが顔を傾けたその瞬間、
「ぐっ……!」
 突然ユエンのうめき声が飛び込んでくる。そして――シュマの視界に鮮血が飛び散った。
「ユエンっ!!」
 悲鳴に近い声を上げて、シュマはユエンの元へと駆け寄った。崩れ落ちそうになっていた彼を慌てて支え、そっと地面に降ろすと、再び「うっ」と苦しそうな声が漏れる。
「ユエン! おい、しっかりしろ!」
 今目の前で起きていることが信じられなかった。目を閉じて何も答えられない様子のユエンに、シュマは必死で何度も呼びかける。
 どうしたなんてものじゃない――ユエンの胸に、矢が深々とささっているのだ。そこから流れ出す深紅の血は、ユエンの服を染め始めている――。
「そんな……何だってこんな……! 矢なんて誰が!」
「くそっ……」
 焦るばかりのシュマに、何とか目を開いたユエンは忌々しげにぼやく。痛みに顔をしかめつつも、地面に手をついて無理矢理体を起こした。そしてシュマが止めるのも聞かずにそのまま声を張り上げる。
「おいっ! そこにいんだろ! さっさと出てきやがれ!!」
 崖側から反対方向へ少し離れた場所の草むらへと、ユエンの視線は向けられていた。草むらといっても人一人がやっと隠れられるようなわずかなものでしかなかったが、それが響き渡ったユエンの怒声に応じるように、おもむろにザっと動く。その中から、長身の男がすっくと立ち上がった。
「……嘘……だろ……?」
 呆然とした声はシュマからだった。信じられない面持ちで、その男の彫りの深い両眼を見つめる。ユエンでさえも、息をのんで目を見開いたのがわかった。「そんな」と、声にはならず唇だけが動く。
 自分の目を疑ったが、男の存在は変わらない。そして、シュマの中に一つの考えが浮かんでくる。
「ユエン、お前……ひょっとして、試されてたんじゃあ……」
 震える声で問いかけたが、返答はない。ユエンの目は見開かれたまま、男へとじっと注がれていた。
 やがて、そのユエンの口が微かに動く。
「……アガル……」
 押し殺した声は、驚愕と絶望とに彩られていた。