六章(4)

 見間違えるはずがなかった。その長身と彫りの深い鋭い目、その奥で揺れる厳しい光。籠の民なら誰だって知っている、長アガルその人が、シュマとユエンの見つめる先に直立している。
「あんた……何で……」
 ユエンが呆然とつぶやいた。その間にも矢の刺さった場所からは出血が続いていて、堪えきれずにふらついた彼の体を、シュマは再び支える。そして、アガルの方へとゆっくり視線を向けた。
「長、どうして、あなたが……」
「ふん。死は逃れたか。運のよいことだな、シュマよ」
 返ってきた声色にびくりとした。今までも、アガルの言い方はいつだって厳しく堅いものだったが、それでもこんなに冷たい響きは含まれていなかったのに――。
 臆するシュマに、アガルは感情の見えない目を向ける。
「先ほどユエンに向かって、試されていたのではと言ったな? 意外に勘が良いのだな、その通りだ」
 アガルの低く重い声が地を這った瞬間、シュマに支えられたままのユエンが、微かにびくっと動いた。
「そうだ、私は試していたのだよ。本当にユエンが長にふさわしいかどうか、さもなくば……ここで切り捨てるべきかどうか」
 その言葉に寒気を覚える。ユエンはアガルを始めとする皆を騙し、この籠を出ていくつもりでいた。そして騙しきれていると思っていた。
 でもその実、アガルもユエンを試していたのだ。信用しているように見せかけて、ユエンを安心させておいてから。
「……いつからだ」
 ユエンがうめくように言う。シュマは「もうしゃべるな」と言ったが、ユエンは全く聞く耳を持たなかった。
「いつから、俺を疑ってた」
 アガルのため息がする。
「最初から信用などしておらぬよ。私は誰も信用していない。だから此度も、誰に任せることもなく自分自身で赴いた。……でもまあ、そなたは私の命通りによく働いておったから、配下の者のうちでは信用している方だった。おかしいと思ったのは、そなたが山へついてくる護衛衆を一人に減らした時だな」
「……くそっ」
「そなたは騙せた気でおったようだな。だが私とて、あれしきの小賢しい理由ごときで騙されはせぬ」
 アガルの視線がじっとシュマとユエンの二人に注がれる。その深い瞳には一切の感情が見えなかった。喜びも悲しみも、何一つがなかったのだ。
「ユエン、私の命に逆らったそなたはもはや必要ない。だからといって、全てを知ったそなたを生かしておくことはできぬ。シュマ、そなたも同様だ」
「長……!」
 必死の思いで呼びかけたが、アガルの表情は欠片も動きはしない。
「無抵抗に命を奪うような真似はせずにおいてやろう。どちらでも良い、準備ができたら刀をとるがよい」
 何を言ったところで、もはや無駄な様子だった。シュマはアガルから視線を外し、脈打つ心臓と荒い呼吸を押さえて小声でユエンへと問いかける。
「ユエン、まだ動けるか? 俺が支えるから、何とかして逃げ……」
「無理だぜ、シュマ」
 早口で言った台詞はユエンの鋭い声に遮られた。いつになく最初から諦めた様子のユエンに戸惑いながらも、「でも」と食い下がるシュマに、ユエンは静かに言う。
「あの胸くそ悪いおっさん、腹立たしくて仕方ねーけど信じられねえぐらいつええんだ。俺とお前じゃ、どうやったって逃げられやしない」
「だけど、そんな……!」
「俺の命運もここまでってか。あーくそ、何てつまんねえザマだ――」
 暗い表情で苦笑するユエンに、彼の言うことは冗談でもないのだと、絶望的な思いで悟る。ユエンでさえ無理なら、シュマなんかが闘ったところでどう足掻いても勝てはしない。
 このまま死んでしまうのか、と思った。何もできないままに、全てを失ったままに。だって、シュマにできることなんてもう何も残っていない――、

 ――違う。何もできないなんて、そんなことはない。

「おい、シュマ? お前何を……」
 ユエンが戸惑った声を上げる。シュマはユエンを支えていた手をゆっくりと下ろし、ユエンをそっと地面に座らせた。そして、腰につけた刀の存在を確かめてから、すっと静かに立ち上がる。その様子を見て勘づいたのか、ユエンの喚く声がする。
「まさかやり合うつもりか!? てめーは馬鹿か! 勝てるわけねえ!」
 ユエンに背を向けて、振り返ることなくシュマは口を開いた。
 何もできないなんて嘘だ――ここに、ちゃんと残っている。
「勝つつもりなんてないさ」
「なっ……」
「なるべく長く死なないようにするから、お前だけは、逃げてくれ」
 「おいてめー何考えて」とまだ騒いでいるユエンの声を背に受けながら、シュマはすっと深く息を吸い込む。そして、言葉と共に静かに吐き出した。
 残っているのはできることだけじゃない。伝えられることも、まだこの胸の中にある。
「ユエン、すまない」
 その途端、ユエンの声が聞こえなくなる。代わりにはっと息をのむ音が耳に届く。
「本当に、すまない。お前の言う通りだ。俺は、我が儘を言ってばかりのただのガキだった」
 声が震えそうになるのを必死でこらえ、シュマは静かに言葉を綴り続ける。黙ってしまうわけにはいかない。今伝えておかなければ――もう二度と、謝罪の機会は訪れない。
「何でもっと、お前らのことわかってやれなかったんだろう。何でもっと、周りを見れなかったんだろう。俺は自分のことしか考えてなかった。自分の穏やかな日々を守ることしか、頭になかったんだ……」
 その結果として、シュマは想い続けていた少女を失った。親友だと信じていた少年を、取り返しのつかないほどに傷つけてしまった。
「許してくれなんて言わないし、言えない。お前が俺を憎むのも仕方ないと思う。――でもな、こんなこと言ったらまた怒鳴られるかもしれねえけど、そんな資格ないのもわかってるけど、俺はまだ、お前が、好きだ」
 再び、ユエンが息をのむ音が響く。
「お前が俺のことをどう思ってようが、俺はお前のことを親友だと思っていたい。お前のことを大切に思っていたい。お前に生きていて欲しい。お前を――助けたい」
「シュマ……お前」
「俺にはこんなことしかできないし、そんなんじゃ罪滅ぼしにも何にもならない。でも、それでも俺は今自分にできることをやりたい。お前を生かしたいんだ。だってお前は、親友だから――」
 ずっと我慢していたというのに、結局最後の最後で声が震えた。やっぱ自分は駄目だなと思いながら、振り返らずに言葉を紡ぐ。
 最後にユエンの顔を見たかったけれど、シュマにはできなかった。ここで振り返ってしまえば、ようやく決めた覚悟が全部崩れ落ちてしまいそうだった。
「ユエン、本当にすまない……そして、今までありがとう」
「シュマ――待てっ、シュマっ!」
 もうユエンの声には一切構わず、シュマはアガルの立つ方向を真っ直ぐに見据える。ゆっくりと地面を踏みしめて、彼の前へと進んでいった。
 数歩の距離を置いてアガルと向き合うと、すさまじい重圧の気配が漂ってきて、そうすまいと思っても勝手に足が震えた。後ずさりそうなのを必死でこらえ、シュマは口を開く。
「俺がお相手します……長」
 鞘から刀を抜き取った手も、声も震えていたけれど、意地でも視線はアガルの両目を捉えたまま外さなかった。
「覚悟を決めたようだな。……では、行くぞ!」
 シュマと同じく刀を構えたアガルの、地鳴りのような低い声が足下を這ってシュマの元までたどり着く。それが合図だった。
 瞬間、凄まじい衝撃がシュマに向かって突き出されてきた。あまりの速さに動きは視野には上らず、シュマがわかったのはぞくりと鳥肌が立つほどに濃縮された風圧だけだった。
 それを体が動くままに、直感だけで横に避け――たと思った。
「がっ……!」
 左肩に走った熱さにうめく。視界の端に朱色が飛び散った。
 突きに気付くのも反応するのも、この速さの前には何もかもが遅すぎたのだ。シュマが飛び退くより先に、アガルの刀はシュマの肩を――先ほど護衛衆の男に斬られたのと同じ場所を――深く切り裂いていた。
 アガルは強い――ユエンのその言葉の意味を、今更ながらにシュマは心から実感する。シュマなんかとは到底格が違いすぎる。これではどう足掻いたところで、勝負にすらならないだろう。
 でも――退けないのだ。
「はぁぁ――っ!」
 悲鳴のような金属音が響き渡る。続けて繰り出されてきたアガルの斬撃を、今度はシュマは避けず、自らの刀でアガルの凶刃を受け止めた。途端に両腕をしびれが襲ったが、それでもシュマは決して刀を放さない。
「愚かな……いつまで保つとも知れぬものを」
 アガルの静かな声がする。確かに彼の言う通りだった。恐らくは腕力も含め全てがアガルの方が上なのだから、こうしていたところでいずれは押し切られ刃はシュマへと届く。
 けれど、
「そんなん、構やしねえ、よ……!」
 今さえ持ちこたえればいい。その思いと共に、シュマは叫んで刀を掴む手に力を込めた。普段出したこともないような力に腕は悲鳴を上げ、肩からの出血は止まらない。でもシュマはそれらの一切を気に留めなかった。自分のことも先のこともどうでもよく、ひたすらにあらん限りの力でアガルの刀を押し返そうとする。
 あまりの圧力に意識さえも遠のきかける中、シュマはただ一つのことを願い続けていた。
 今だけでいい。頼むから今だけ――だからユエン、逃げろ――!
「ふざけんな……っ」
 はっとする。刀と刀の擦れ合う摩擦音の合間をぬって、シュマの耳に届いたのは押し殺したユエンの声だった。
 後ろよりはやや斜めから聞こえたその声に、まだ逃げていなかったのかと、思わず振り返ろうとしたその時、

「ふざけんじゃねえ……っ! くっそおお――――っ!!」

 ――猛然と聞こえた怒鳴り声。そしてシュマの視界に、青空よりも濃い紺青の色が飛び込んでくる。シュマにかかっていたアガルの刀の圧力がふっと消える。青髪の少年がアガルを突き飛ばすのを、シュマは呆然と見送った。
 それからの事はあまりにあっという間だった。驚いたことにユエンは丸腰で、庇う物のない彼の身を無慈悲に刃が切り裂いたけれど、彼は少しも止まろうとしない。「ユエン!」と名を呼ぶシュマの目の前で、憑かれたかのように勢いの落ちないユエンと、留めようとするアガルはもみ合ったまま端へ端へとずれていく。
 そして崖の端まで進んでしまったその時――二人の足下の地面に、大きな亀裂が入ったのだ。
「ユエン……? おい、ユエン……!!」
 悲鳴を上げてシュマは駆け寄る。その間にも二人の立つ場所は崩れて、二人の姿は下へ下へと沈み込んでいく。
 シュマはまだ崩れていないぎりぎりの地面に足をつけて、夢中で手を伸ばした。足場と共に落下していく少年がシュマの方を振り向いて、彼もシュマに向かって手を伸ばしてくる。その姿に、届いてくれと祈りながらシュマはよりいっそう身を乗り出した。「ユエン!」と再びシュマは叫ぶ。嘘だそんなのは嫌だと、全身全霊で頭が体が拒否している。
 ――だというのに、こんな状況だというのに、振り返ったユエンが苦笑する。その口が、微かに動いた。 

 馬鹿だな、俺

 声は聞こえなかったけれど動きでそう伝わった。思わずシュマが目を見開いたその時、ユエンの足下で――わずかに残っていた最後の足場が砕け散った。

「ユエーンっ!!!」

 シュマの叫び声が木霊する。ユエンの手は虚しくシュマの手の中をすり抜けていく。それでも手を伸ばしたシュマの目の前で、紺青の色が宙に舞った。
 一瞬だけシュマとユエンの視線が合う。一瞬のはずのその時間はまるで永遠のように思えたけれど、ユエンが詫びるように目を伏せるのと同時に、シュマの前から蒼色の瞳が消える。そして、その姿はまるで空を拒絶するかのように、急速に地上へと引き寄せられていって――やがて、木々の緑の中に消えていった。
「……嘘だ……っ」
 シュマは動けなかった。金縛りに遭ったかのように指先の一本でさえも動かせず、ユエンが消えた先から目を離すことも、できなかった。
「嘘だ嘘だ嘘だ……っ」
 ほとばしり出た叫びは、ちゃんと声になっていたのかすらも怪しい。

「嫌だ、嫌だ、ユエンーっ!!」