七章-上(2)

「メルゥ! ユエンっ!!」
 喉の奥から声がほとばしり出る。今度は確かな音として聞こえた自分の言葉にはっとして、反射的に目を開けた瞬間、真っ白な世界は消え去った。代わりに見慣れた木の色が視界に飛び込んでくる。
 なぜかシュマはどこかに横たわっている状態だった。その上半身を、反射的に跳ね上げるように起こす。先ほどまでぴくりともしなかったのが嘘みたいに、体は軽かった。
 その途端、左肩に刺すような激痛がきてうめく。座り込んだまま、体も少しふらついていた。

「ちょっと! 急に動いちゃだめじゃない!」

 突如としてシュマの耳に、甲高い女性の声が飛び込んでくる。驚いて「え?」とつぶやいた直後には誰かの手が伸びてきて、四の五の言う間もなくふらつくシュマを支え、元通りに横たわらせていた。
 それは本当にあっという間のことで、全くわけのわからないシュマは呆然とまぶたを瞬かせる。
「えっと……?」
「あら、何だかいきなり乱暴してしまってごめんなさい。でもあなたが悪いのよ?」
 全く悪びれない調子の声をたどり、ようやくシュマは自分を見下ろす若い女性の存在を理解する。横になったシュマに微笑みかけている彼女は、栗色の瞳と随分ときれいな顔立ちの持ち主で、そこから栗色の軽く波打つ髪がさらさらと長くこぼれ落ちている。
 知らない顔だ。まだ呆然としたまま女性の顔を見つめているシュマに、再び彼女は微笑んだ。
「とりあえず、おはようかしら。そして初めまして。私はエシュナよ、あなたの名前は?」
「シュマだけど……」
 問われるままに名乗りながら、頭だけを回して辺りを見渡した。どこかの家の中だろうか、木の壁で囲まれた狭い部屋だった。その正方形の部屋の、端に置かれた寝台の上に、シュマは寝ているのだった。奥の両開きの窓の間から差し込む光が、部屋中を明るく照らしている。
 シュマの家と大差ない造りだ。それならここは――籠の中だというのだろうか。
 「籠に、戻ってきたのか」とつぶやくと、エシュナの顔が少し歪んだ。その目はシュマを哀れむような申し訳ないような、そんな光をたたえていた。
「ごめんなさい……ここは、シュマの望む場所では、きっとない」
「……」
 その言葉を聞いても、シュマは特に何も思わなかった。やっぱり、という渇いた思いが、胸の奥の方で微かに疼いただけだった。
「ここは、籠の外の村。私たちはそこに暮らす民。翼無き鳥の民=A私たちは自分たちのことをそう呼ぶわ」
「……」
「シュマ、あなたはね、森の中で倒れているのが見つかってここに運んでこられたの。あなたを見つけて知らせてくれたのは、ルトという男の子よ」
 要するに、シュマは助かったのだ。森の中をさまよっているうちに意識が途切れ、あのまま闇に呑まれて何もわからなくなってしまうのだと思ったのに、こうして目覚めが訪れた。――それを感謝すべきなのかどうか、今のシュマにはわからなかった。
「外の村……」
 ぼんやりと反復すると、エシュナがうなずいた。間髪空けずに、くすりと笑い声が聞こえてくる。
「急に言ってもよくわからないかしら。よしっ、百聞は一見にしかず。ほんとは、動いちゃ駄目なんだけど、ちょっとだけなら別に大丈夫よね。シュマ、立てる?」
 「ゆーっくり、ゆっくりよ」と念を押しておいてから、エシュナがシュマを支えてくる。それにすがるようにしながら、シュマはそっと寝台から出た。左肩を庇いながら土の床に置いてあった布靴を履き、エシュナと共に窓辺へと向かう。
 エシュナが片手で窓を押し開くのと同時に、量を増した日の光と、吹き抜ける風がシュマたちの元へと飛び込んできた。
「これが、私たちの村よ」
 エシュナが微笑んで言う。シュマは窓の向こうに広がった風景をぼんやりと眺めやった。
 森を一部分切り拓いてできた村のようだった。木造の家々が幾つも集合して立ち並び、それらを取り囲むように、藁葺き屋根を越えて森が広がっているのが見える。ここからでは村の全部は見渡せないが、家々の間を歩き回る人々の活気を見るに、結構大きな村のような気がした。人々のざわめきに混じって、どこからかカンカンという金属音が聞こえてくる。
 視線を上に上げると、遠く森の先に、岩壁が天高くそびえ立つ様が見て取れた。それは紛れもなく、シュマが越えてきた果ての山の姿だった。遠くといってもそんなに離れているわけでもない。この距離なら多分、この村はシュマの気を失った場所からそれほど離れてはいない。
(本当に、俺は籠を出てきてしまったんだな)
 これが、籠の外にある村――どうしてか、シュマがたどり着いてしまった先。
「俺一人、なのか」
「え?」
 突然問いかけたシュマの言葉に、エシュナが驚いたような声を上げる。
「俺の他には……誰か見つかった人はいなかったのか」
 言い直したシュマに、エシュナは少しのためらいを見せたが、やがて静かに首を振った。「そうか」とシュマは淡白な調子でつぶやく。そんなシュマの態度に、エシュナが少し心配そうな表情をつくったが、それだけで何も聞いてはこなかった。
 それから、エシュナにうながされて寝台に戻ろうとしている時、隣の部屋でガタンと物音がした。「あら」とエシュナが声を上げる。
「出かけていた兄が戻ったみたいだわ」
「……兄?」
「もちろん私の兄よ。兄さんはね、この村のまとめ役をしているの。そうね、長みたいなものかしら」
 長と言われて、思わずシュマはエシュナの顔をまじまじと見つめ返してしまった。エシュナの年の頃は二十ほど。そんな彼女が長と呼ばれる人物を兄に持つというのは、シュマには少し想像し難かった。
 長といえば、年を経て経験を積んだ者がなるものではないだろうか。だとすれば随分と年の離れた兄弟だ。
 そんなシュマの思いを知ってか知らずか、エシュナがくすりと笑う。
「兄さんのこと、呼んでくるわね。この村の詳しい説明は、兄さんがしてくれるわ」