七章-上(3)

 やがて部屋に入ってきた男は、シュマに向かって微笑みかけ、自分はエサンだと名乗った。エシュナの兄であるその男は、長と呼ぶには似つかわしくない、エシュナと二・三歳しか違わないであろう青年だった。
 寝台の上で上半身だけを起こし目をぱちくりさせているシュマに、エシュナは再び笑顔を見せ、エサンは二年前、亡くなった父の跡を継いで長となったこと、若いけれど人望があって皆には信頼させていることを、シュマに教えてくれた。
 そんなことないよ、いつもエシュナが助けてくれてるじゃないか、と謙遜してみせるエサンをシュマはまじまじと観察する。エシュナと同じ栗色の髪と瞳の青年は、確かに皆から好かれそうな、人の良さそうな風貌を呈していた。
 つらいなら話さなくていい。そう言ってくれたエシュナの前で、しかしシュマは、今までの出来事を何もかも二人に語った。突然のメルゥの死、行われた儀式、選ばれた自分、そして果ての山で起こったこと――その全てを、ありのままに告げたのだ。
 二人は寝台の横の椅子に腰掛けたまま、じっとシュマの話を聞いていた。話の途中、エシュナはことあるごとに心配そうな表情を見せたが、それとは対照的にシュマの胸は少しも痛んではいなかった。
 つらいとか悲しいとかではない。かといって明るい思いを抱くわけでもない。ただただ、何もない場所を風が通り抜けていくように、どうしようもなくシュマの内は空っぽだった。何を話しても何を思い出しても、シュマの心は少しも動かなかった。――だからひょっとするとエシュナは、そんなシュマの様子に対して、心配そうな顔をしていたのかもしれない。
 話の間中沈黙を崩さなかったエサンは、シュマが話し終わってもしばらくのうちは目を伏せたまま黙り込んでいたが、やがてゆっくりと顔を上げる。
「――そうか。儀式によって籠を追われたのか」
「……」
 シュマは何も答えなかった。エサンはふっと長いため息をつく。
「この村はそういう巡り合わせなのかもしれないな。シュマ、丁度きみに起こったのと同じような話がね、昔にもあったんだ」
 出てきた言葉は意外なものだった。はっとして見返したシュマに対し、エサンは確認するようにエシュナの方を見やる。彼女はこくりと首を上下させた。
 エサンがシュマに向き直る。
「そうだな、シュマ。きみにはこの村の始まりを話しておこう」
「始まり……?」
「ああ。この村は一組の男女から始まったという。男の方は、住んでた国を追われた流浪の旅人。女性の方は、籠の巫女だったそうだ」
「……巫女」
 今も昔も、民が籠から外に出れたはずがない。巫女であるならなおさらだ。そう思ってつぶやくと、エサンはうなずく。
「ああ、きみの思っている通り、籠から出られるわけがない。でもその時は、少し事情が違ってね」
 エサンの瞳の中で、生真面目そうな光が揺れている。
「ある年に籠で、これまでにない大規模な凶作が起こった。畑にはほとんど何も実らず、森の木は実をつけず、獣たちもたくさん死んでしまった。どうしようもなくなった民たちは、家畜のクィルを食用にすることで何とかしのいだそうだ。……でもそのせいで籠のクィルたちはね、一気に数を減らしてしまったんだ」
 シュマには、その事の重大さがよくわかった。クィルを大量に殺して食べるようなことは、よほどのことがない限りしないのだ。そうしてしまえば、次の年に生まれる子どもが減る。とれるミルクも減る。そして、次の年に生活していくことができなくなる。
 けれどその年は、それを承知でクィルを殺さなければならなかったほど、酷い不作だったのか。
「凶作がその年だけならね、まだ何とかしようもあったんだ。でも、そうはならなかった。次の年も同じくらい酷い不作が籠を襲った。クィルも減らしてしまった籠の民に、もう為す術はなかった。彼らはほとんど絶望していた」
 シュマは以前に姉巫女に聞いた話を思い出す。籠を襲った大凶作。確かその時は、
「……一人の巫女が儀式に臨んで、神となって民を救ったって……」
「そう。それが表向きの事実だろうね。でもそれが真実であるわけがないことを、もう君は知っているはずだ。……つらい事実だろうけど」
 気遣うような笑みを向けられ、シュマは無言でうつむいた。儀式によって神となることは、ありえないのだ。それをシュマは知ってしまった。
「儀式は本当に行われたよ。それは真実だ。でも、神となるための儀式じゃなかった。絶望していた民たちに、巫女は神となって籠を救ってくれるのだと信じさせ、希望を与えるための儀だ」
 希望――仮初めでしかないそれを、果たして希望といえたのだろうか。
「それで、巫女はどうなったんだ」
 シュマは問う。偽りの儀式で、巫女が行き着く先は果たしてどこだったのだろう。
「まさか俺と……」
「そう。きみと一緒だよ、悲しいことにね。でも、彼女の場合はその存在を疎まれてではなく、真実を知りながら自ら志願したらしい。彼女は自ら望んで、絶望しきっていた民に希望を与えるための生け贄となったんだ。……いや、なるはずだった、かな」
 エサンが少し微笑む。
「巫女は果ての山の中で生命を絶たれるはずだった。彼女自身はその定めを受け入れていたんだろう。でも、結局そうはならなかった。彼女を殺める役を言いつかった護衛衆の者が、彼女を哀れんでね」
 いつでも無表情で、無言のままアガルたちの後ろに控えていた護衛衆の面々を思い出す。彼らに哀れむなんて言葉はどうにも似合わなかったけれど、長い歴史の中、そういう男がいたこともあったのかもしれない。
「男は巫女を哀れみ、手を下すことができなかった。ひょっとしたら密かに想いを寄せていたのかもしれない。『恋は盲目』って、言うだろう?」
「……知らないぞ。そんな言い方始めて聞いた」
「あれ、籠の中じゃ使ってないのかな……まあ、それはいいさ。ともかく男は、最終的に巫女を連れて果ての山を越え、籠の外に逃げたんだ」
 逃げた先で、二人は生まれて初めて外の世界を見たんだろう。今のシュマみたいに――。
「でも逃げ切ることはできなかった」
 エサンの声が、微かに哀れみを帯びる。
「男が戻ってこなかったことで、籠からの追っ手がかかった。巫女と男の捜索を命じられた別の護衛衆は、彼らを見つけ、そして男は闘いの中で命を落としてしまった」
 その件のところで、エシュナがシュマを気にするようにちらりと見てくる。大丈夫だと答える代わりに、シュマは気にしないでくれと首を振った。
「巫女もほとんど死にかけていた。だから追っ手の護衛衆は、てっきり死んだものと思って籠に戻ったんだ。でも不幸中の幸いか、彼女にはまだ息があった。でもそのままだとどのみち命を落としただろうけど、偶然そこに、旅人の男が通りかかってね」
「……助けられたのか」
「そうだ。旅人は巫女の命を救った」
 エサンが笑う。
「その旅人は、ある罪によって国を追われた、独りぼっちの男だった。巫女はやがて男の看病によって回復したけど、男と同じく行く当ても何もなかった。そんな孤独な者同士だった二人は、自然と一緒に暮らし始めたんだ」
 似た者同士の二人は、お互いの隙間を埋めるように、支え合うようになっていったのだろうか。
「病み上がりで体力のない巫女を連れて遠くには行けなかった。だから二人は、籠からそんなに離れていない森の中に家を建てた。二人からはやがて子どもが生まれ、その子どもたちがまた子どもを産む。そうして、少しずつ人の数は増えていった。――そして、今の俺たちの村がある。今は、そうだね、ざっと二百人ぐらいは暮らしてるかな」
 そう言ったエサンの後を、ずっと黙っていたエシュナが引き継ぐ。
「厳しい土地だけれど、それなりに細々と頑張っているの。森を拓いて畑を作って、後、山や川から砂鉄が取れるから、そこから作った武器で狩猟をするの。私も弓ぐらいは引けるのよ」
 自慢げに付け加えたエシュナの言葉にエサンがなぜか頭を押さえた。渋い顔をしてシュマの方を見てくる。
「……勘違いしないで欲しいんだけど、村の女全員が弓やらなんやら扱えるわけじゃない。男衆に混ざって猟に行くのなんて、うちのエシュナぐらいだ」
「ちょっと、それじゃまるで私が男勝りのお転婆みたいじゃない!」
「何言ってるんだ、その通りじゃないか」
「兄さんっ!」
 そのまま、嫁のもらい手がなくなるからもう少し女らしくしてくれないか、とか、別に兄さんに迷惑かけてないじゃない、とか、すっかりシュマそっちのけで言い合い始めた二人の声を、シュマはまるで遠くの出来事のように聞き流していた。言葉が飛び交う騒々しい中で、シュマは一人静かにエサンの話を反復し、そして一つの疑問を抱く。
「どうして、今でもずっとここに暮らし続けてるんだ」
 籠から出ることができたのに、どうしてこんな籠の近くに留まり続けているんだろうと、そう思ったのだ。
 唐突なシュマの声に、二人の言い合いがぱたりと止まる。二人の視線を受けて、シュマは静かに繰り返した。
「どうして長い月日の間、一度もここから移動しようと思わなかったんだ」
 エサンとエシュナが思わず顔を見合わせる。エシュナは困ったような顔をしていたが、やがてエサンが苦笑し、シュマに向き直った。
「確かにここより暮らしやすい土地は、いくらでもあるんだろう。そうだね、出て行こうとしたんだろう、きっと過去に何度も」
「……」
 そう言うエサンの声色は、今までの穏やかな調子と比べて、どこか奇妙に冷めている。
「けど、結局ここから出て行くことなんてできなかった。……シュマ、大国はね、まだ争いを繰り返し続けているんだ」
 微かに笑って見せた彼の顔には、どこか疲れたような色が滲んでいた。好青年の印象とは似つかわしくない、陰りのある色だった。
「そんなに頻繁ではないけど、ここにやってくる外からの旅人の話を聞くに、世界の国々はまだ戦火を燃やし続けている。一時的に戦争が終わったかに見えても、またすぐに別の国が争いを始める」
 エシュナは何も言わずにうつむいている。その顔には憂いが浮かんで見えた。
「そんな世界で、いったい俺たちに行くところがあると思うか? 俺たちには何を変える力もない。そんな俺たちは結局、争いの手を逃れ、ここでひっそりと隠れ住むしかなかった」
「……」
「偽りの籠から解放されても、やっていることは同じだ。神という希望がなくなった分、むしろたちが悪いかもしれない……籠の民たちと違って俺たちには、死後の救いすらないのだから」
 エサンが暗い笑みを見せる。
「俺たちは、籠から出て、けれどどこにも行けない鳥だ。そんな自分たちを、俺たちはこう呼ぶ。翼無き鳥の民≠チてね」
 それは、先ほどエシュナから聞いた言葉だった。そう言ってエサンは再び苦笑し、その横でエシュナは憂いを深める。
 そんな二人を、シュマはただ無感情で眺めていた。

 
 「俺はこれからどうすればいい」とシュマは最後に尋ねた。尋ねたというより、ほとんど独り言だった。
 胸の内はまだ空っぽのままで、痛みは一向に感じられなかったが、失ったのは感情だけではなかった。自分がここにいる意味も、これからすべきことも、シュマの前には何も見えない。
 そんなシュマに、意味なんて考えるな、とエサンは言った。
「意味なんてな、考えるだけつらいだけだ。人はどこにいたって、ただ生きて死んでいく。生き死になんて、運が良いか悪いかだけだ」
「……」
「世界は動き続けるし、時間は流れ続ける。季節も、天候も、変わり続ける。俺たちはその中で弄ばれて、たどり着いた先で生きてくしかない。人にはそれをどうすることもできないさ。ただ、お前は運が悪かったから籠を失い、そして運が良かったからこうして生きてる。それだけだ」
 運が悪かっただけ、良かっただけ。そう思った瞬間、シュマの中にわずかに残っていた、「自分の意味」を求める感情さえも、すっと消えていく気がした。そうなってしまうと、本当にシュマの中は空っぽでしかなかった。
「過ぎたことも、失ったものも忘れてしまえ。俺たちの祖先は籠から来たけど、今となってはもう籠なんて俺たちには関係ない。同じように、お前にだって籠はもう関係ない――そう思ってしまえ。全部忘れて、そしてここで生きればいいさ。俺たちはお前を歓迎する」
 「だから」とエサンはシュマに手を伸ばしてくる。
「ここで暮らせ、シュマ」
 微笑んでくる彼にシュマは力なくうなずき、そしてその手を握るしか、もうすることは残っていなかった。