七章-上(5)

 シュマがこの村にやってきてから、数日たった日の昼下がり。シュマは「水をくんできて欲しい」とエシュナに頼まれ、桶を持って井戸へと向かっていた。井戸場へ行くと既に先客がいて、シュマはしばらく待ちぼうけを食わされる。
 暇なので辺りをぼんやりと眺めていると、家々と人通りの間に、よく知った人物の姿が目に入ってきた。
(エサン……?)
 栗色の青年が村の中を歩いていた。どこかに用事でもあるのだろうか、早足ですたすたと進んでいく。
 とっさにシュマが彼の名を呼び、駆け寄って行こうとその時、しかしそれよりも速くシュマの先を越していった姿があった。    
「エサン!」
 呼びかける声はシュマからではなく、エサンの元に走り寄っていった長髪の青年からだった。その後ろにやや遅れて、いつも通り顔を覆い隠したリシェンの姿もある。
 エサンが驚いたように振り返った。
(トイルじゃないか。どうしたんだ)
 エサンを呼び止めたトイルは、そのまま何やら早口で話し始めている。リシェンは黙ってトイルの後ろに立ったままだ。
 何だか珍しい光景だと思った。年は近いはずなのに、エサンとトイルの二人が話しているのはあまり見ない。以前に一度だけ会話しているのを見たことがあるが、その時は温厚なエサンにしては驚いたことに言い争いの様相を呈していて、だからてっきり仲が悪いのかと思っていたのだが。
 今回も案の定、みるみるうちにエサンの顔が曇ってくる。対するトイルの表情も何やら真剣で、また喧嘩でも始めたらどうしようと、若干はらはらしながらシュマが遠巻きに見守っていると、
「……ここじゃ駄目だ……俺の家に……」
 風に乗ってそんなエサンの言葉が聞こえてくる。トイルがうなずき、二人は揃って向きを変えて、エサンの家の方角へと歩き出す。
 二人の間に流れている空気は決して良いものではない。シュマは、どうしようとしばらく逡巡した後、その場に桶を置いてこっそりと二人の跡をつけはじめた。
 険悪な雰囲気になったらすぐに止めに入るつもりだったのだが、そんな心配を余所に三人は何事もなくエサンの家にたどり着く。三人が入っていった後の閉じられた戸に、シュマはそっと耳を近づけた。盗み聞きには違いないので後ろめたくもあったが、今更引くこともできなかった。
 中から、突然の訪問に驚いているらしいエシュナの声がする。音から判断するに、彼女以外の三人は椅子に座ったようだった。
「……とりあえず、ざっくり言っちまえば、さっき伝えた通りだな」
「その詳しい内容は後で聞く。まず最初に、何でそれがわかった」
 トイルの気楽な調子に、エサンの厳しい声が重なった。シュマは思わずびくりと身動きしてしまう。
 やや言いづらそうな、中途半端な間があり、
「まあ……それは、あれだ。俺が人を中にやって調べさせたからだ――」
「何でそんなことをした。見つかったら面倒なことになると思わなかったのか」
 咎めるエサンの言葉には、明らかな棘が含まれている。トイルは苦笑したようだった。
 二人の会話を聞きながら、シュマは何だか嫌な予感がわき上がってくるのを感じていた。中? 見つかる? いったい二人は何の話をしている――。
「まあ、勝手な真似をしたのは認めっけど、今のあの混乱ようじゃ少々のことはバレねえぜ。それに結果としてこうしてお前の元に情報を入れられてる。だからちょいと目をつぶってくれや」
 深いため息が漏れ聞こえた。エサンからだろうか。
「情報? そんな情報に何の意味がある。中のことは、俺たちにはもう関係ない」
「ところがそうでもないぜ、コレが。今はシュマがいんだろうが」
 戸に耳をつけていたシュマは、はっとして息を呑む。シュマ、と確かに今トイルは自分の名前を呼んだ。
 次の瞬間、ガタンと椅子が床にぶつかる音がする。続けて聞こえたエサンの激しい口調で、恐らく彼が立ち上がった音だろうと知れた。
「あいつにだってもう関係ないことだ! せっかくここでの生活に慣れてきたっていうのに、そんな悪戯にかき回すような真似をするんじゃない!」
「それはホントにあいつのためかよ」
「もちろんシュマのためだ。そうだろう? あいつ、最近はようやく少しだけど笑うようになってきたんだ。そんなシュマが、こんなことを知ったら――。

 籠が火事で大変なことになってるなんて、知ったら――」   

 バタンっ!

 もうシュマは我慢できなかった。押し開けた戸が壁にぶつかり大げさな音をたてる。エサン、トイル、リシェンが机を囲み、エシュナ一人が側の台所に立った中の光景が一気に眼前に広がる。それらの全員が一斉にシュマの方を見た。
「どういうことだよ、それ……っ」
 シュマの声はわずかな震えを含んだ。忘れていたはずの籠が、記憶が、傷が、シュマの内で疼き始めていた。メルゥとユエン、ニィの姿が、一瞬だけ脳裏に浮かんではすぐに沈んでいく。
「籠が……どうなってるんだ」
 シュマの問いに、立ったままのエサンが渋い顔をして目を伏せた。リシェンの表情は変わらなかったが、その目がわずかに細められる。エシュナは家事の手を止め、息を呑んで皆の様子を見守っていた。
 そんな硬直状態がしばらく続いた後、トイルがやれやれという風に両手を上げる。こんな状況でも彼の顔は気楽なままだった。
「正直、予想外の展開だな。でもまあ、こういうことはいつかわかっちまうもんさ。隠したってしゃあねぇだろ」
 な? とトイルはシュマに笑いかけてくる。優しげなその視線が、一瞬だけだが品定めするような鋭いものに変わり、反射的にシュマはぎくりと身を固くした。
 けれどそんなものは、気のせいだったといわんばかり次の瞬間にはなりを潜め、トイルは微笑んで自分の隣の椅子を叩く。
「シュマ、入って座れ。一緒に話を聞くんだ。……駄目とは言わせねェぜ、エサン」
 エサンは未だに目を伏せたまま立ち尽くしていたが、その顔がトイルの台詞にゆっくりと上げられる。穏やかな好青年のはずの彼の瞳は、今はひどく冷たくシュマを見据えていた。
 その口が、やがて開かれる。
「……いいだろう」