七章-上(6)
「手短に言うぜ。まず、籠で大火事が起きてる。かなり広範囲だな」
部屋の中に満ちた重苦しい空気の中、トイルが話し始める。シュマはその声を聞きながら、膝の上でぎゅっと拳を握りしめていた。
火事なんて――どうしてそんなことに。そう、ざわつく胸で思い巡らしているところに飛び込んできたトイルの次の台詞は、あまりに信じられないものだった。
「原因は――民たちの暴動みてぇだ」
「……え?」
呆然とした声が漏れた。数拍唖然として固まっていた後、がばっとトイルの方を振り向いたが、こういう時に限ってトイルは少しも笑っていない。
「暴動って……何だそれ……」
「暴動っつうか、混乱かな。混乱のうちに火がついちまって、それがますます混乱を引き起こして、どうしようもなくなった。そんな感じだったぜ」
呆然としているのはシュマ一人で、エサンは難しい顔で黙り込んでいる。そして、リシェンは相変わらずの無表情だった。
そんなばらばらの皆の反応になんて構わず、トイルはさっさと話を続ける。
「そもそも何でこの火事がわかったかって、俺の仲間が見に行ったからなんだが、これがあっさりと中まで入れてる」
「ちょっと待てそれって……!」
「ああ、そのまさかだぜ。いつもはにらみをきかせてる見張り役がいらっしゃらない。つまりな、巫女やぐらの上に巫女が誰もいねぇんだよ」
それはあまりに衝撃的な事実だった。
時間ごとに交代し、いつの時間でもどのやぐらでも、決して巫女が欠けることのないように、きっちりと巫女やぐらに詰めていた巫女たち。その彼女たちがやぐらにいないなんて、考えられない――。
「何で、そんなことに……」
信じられないと、何度も首を振るシュマにトイルの落ち着いた声が降る。
「指揮系統が完全に麻痺ってんだろ。巫女たちだけじゃない、民は完全に混乱してる風だった。それが何でかが問題なわけだが……んでシュマ、お前、以前にお前がここに来たわけを話してくれたな」
力なくシュマはうなずく。
「その時、籠の長と次期長がどうなったっつった?」
「それは……」
容赦ない質問に、空っぽだったはずのシュマの胸が微かに疼く。後ろで立って聞いているエシュナが抗議の声を上げかけたが、エサンがちらりと視線をやって黙らせていた。
長と次期長がどうなったか――この数日間ずっと封じ込めていたはずの記憶は、霧が晴れるように少しずつシュマの前に姿を現していく。同時に、胸の疼きが痛みに変わり始めていた。
長のアガルと次期長のユエンは、果ての山の頂上から、崖下へと転落していった。シュマの目の前で二人の姿は見えなくなった。そして多分、
「もう……生きては、ない……」
答えながらシュマはうつむく。そうしながら、どうして何もかも忘れてしまえないんだろうと思っていた。
忘れてしまいたかった。自分にはもはやどうしようもないことなら、こんな痛みを感じるぐらいなら、シュマは全部手放して埋(うず)めてしまいたかったのだ。
実際そうできていたはずだった。シュマの中は空っぽだった。それなのに、どうして今更のようにこんなにも胸が痛むのだろう。どうして――、
「……やめるか?」
唐突にそんな声がした。その声に込められた響きがとても優しいことに、そして何より声の主が他でもないリシェンであることに、シュマは心底驚いて顔を上げた。
リシェンは頭の覆いを取り、シュマの向かい側から、色素の薄い瞳でじっとシュマを見ていた。
「つらいなら、聞くのを止めてもいい。ここで止めて、何も聞かなかったことにしてもいい。そうしても、誰もお前を責めない。……そうだろう、トイル」
つぶやくような台詞だった。話を振られ、トイルは軽くリシェンをにらんだかに見えたが、すぐに「ああ」と返答が聞こえる。けれどシュマは、首を横に何度も振った。痛みは苦しい。でも、ここで目を閉じてはいけない気がしてならないのだった。
シュマのそんな素振りを見て取り、リシェンは再び沈黙する。代わってトイルが口を開いた。
「もう生きてない、か。十中八九、籠の騒動の原因はそれだぜ。一気に長と次期長が消えた――これはとんでもねェことだ」
シュマはもう、何も言わずに耳を傾ける。
「儀式の晩から、長と次期長が戻ってこねェ。そのことで民が不安がる。一時的になら姉巫女や巫女やらで押さえられても、二人の不在は変わらず、不安はすぐに復活する。ここで何か決定的な対策を打つべきだったんだろうが……できなかったんだろうなぁ、この結果を見るに」
どうして、とシュマは思う。例えアガルがいなくても姉巫女がいる。民たちの前で、偽りの儀式を堂々と宣言した彼女。巫女殿の最奥で、あれほどの威圧感を放っていた彼女。彼女は、アガルと並んで紛れもない籠の支配者だった。
「――
三色衆
を仕切ってたのは、長と姉巫女、どっちだ」
ふいにトイルの声が飛び込んでくる。その言葉にシュマははっとした。
護衛衆、伝令衆、用務衆の三色衆はアガルの指揮下にあったはずだ。護衛衆などは、巫女殿の中や、必要時には姉巫女や巫女の側にも控えていたが、それらは結局アガルの指示のはず。だとすれば、
「ひょっとして、三色衆が機能していないのか……?」
恐る恐る尋ねたシュマの問いに、トイルはこくりと首を上下させる。
「俺はそう考えてンな。ついでに聞くと、各村の村長たちも、アガルの指示で動いてたんじゃねぇの」
「多分……そうだ」
シュマの返答にトイルは薄く笑った。
「んじゃあ、そういうことなんだろうな。事務的なことは長、神話や巫女に関することは姉巫女って役割分担されてた。長が突然消えた今、三色衆や村長などの実行部隊が全く機能しねェで、代わりとなるはずの次期長も不在。結果、民にどう伝えるかや対策は決められても、手足となって働く人間がまともに動けねェから、何にもできない、と」
トイルの結論を聞きながら、シュマは唇を噛んでいた。
指示するアガルがいないから、手足が動かず、民たちの不安を抑えきれなかった。不安は混乱に変わり、収める者のいない混乱は大きくなっていくばかり。そして、その混乱の中で起こってしまった火事。それもまた広がるばかり――。
「――随分と脆いことじゃねぇか、籠とやらは」
シュマの内を代弁するような、トイルの声がした。
本当に――ユエンから聞いた真実からはあれほど強固に見えた籠は、実のところこんなにも簡単に崩れ落ちてしまうものだったのか。
「相当に臆病だったんだな、籠のご先祖サンは」
トイルは笑っていた。
「末端から崩れねぇように、隙間から秘密が漏れねぇように、下には何も知らせず上が命令しないと何もできない仕組みを作り上げた。――その結果が、このザマってわけだ」
ふうっとトイルがため息をつく。「で」と心なしか鋭い口調が飛んだ。
「この籠の危機に際して、俺たち翼無き鳥の民≠ヘどうするって? そろそろ何か言ったっていいんじゃねぇかい、我らが長サマよ」
トイルは真っ直ぐにエサンを見据えていた。エサンがゆっくりと顔を上げ、二人の視線がぶつかる。シュマが加わってからというもの、一言も発していなかったエサンは、ようやく重い口を開いた。
「何もしないさ」
そしてその言葉は、至極当然という響きをともなって、五人のいる空間へと投げられる。
トイルがあからさまに顔をしかめたのがわかった。
「何もしないよ。する必要もない」
「……翼の無い鳥には何もできない。あんた、またそう言うのか」
トイルの苛立ちに似た台詞に、エサンは冷淡な視線を向ける。
「そうだ。俺たちにいったい何ができる? 外からの俺たちが何か介入したら、ますます籠の民たちを混乱させるだけじゃないのか」
「アンタは――何でそういつもいつも臆病なんだっ」
「臆病? 俺はこの村の民のことを考えて結論を出してるだけだ。籠のために、俺たち外の民が何かする必要なんてない。俺たちの先祖は籠を追われてここに来た。籠は俺たちを拒絶した。あの世界はもう……俺たちには関係ないんだ」
瞬間、椅子が派手な音をたてる。トイルの長髪が揺れる。
彼は、正面に座ったエサンに向かって身を乗り出すように、その場に立ち上がっていた。
「あんた、シュマの前でもそれを言うのか。関係ないわけねェだろ!」
トイルの剣幕に応じてエサンまでもが立ち上がる。今にも手が出そうな二人の様子に、シュマは「二人とも!」と控えめに呼びかけ、エシュナもこちらに向かって一歩踏み出しかけていたが、エサンもトイルも両者引く気配は全くない。
「シュマにだって関係ない。俺たちと同じように……!」
「エサンっ」
「だから金輪際、籠の中に人を入れようなんて考えるな! シュマ、お前も決して中に戻ろうなんてするんじゃないぞ!」
いきなり名指ししてきたエサンの言葉に、シュマはびくりとする。エサンの声は厳しく、そしてその顔には、いつかの暗い影が浮かんでいた。
「あそこはもう、お前の生きる場所じゃない。お前とは関係がないんだ」
「おい、あんたそんな言い方――」
「兄さん……っ」
「事実だ。例え戻っても何ができる。ひょっとすると、お前まで命を落とすかもしれないのに」
トイルとエシュナの制止にも、エサンは耳をかさない。シュマを見据えるその瞳をとらえきれず、シュマは顔を伏せた。
「それにな、籠の真実を知ってしまったお前にとって、あれは守る価値のあるものか? 嘘しかない世界は、それが剥がれ落ちればただの抜け殻でしかない。そうじゃないのか。何の意味も、ないじゃないか」
エサンの言葉はシュマを重く打つ。確かに全てを知ってしまった今、籠にいったい何が残っているだろう。籠の価値は――意味は。
「言っただろう、全部忘れてしまえと。それが一番お前のためだ」
エサンはそう言い放ち、シュマから視線を外して尾を引く長いため息を吐き出す。疲れたような色がその瞳をよぎり、やがて彼はさっと体の向きを変えた。
そのまま、呼び止めるトイルとエシュナの声にも関わらず、入り口の戸へさっさと歩いて行く。そして、彼の姿は家の外へと消えていった。
後に残ったのは、閉じられた戸の重苦しい響きと、置いて行かれた者たちの沈黙だけだった。
「……しゃあねぇやつだな。ちっとも変わりゃしねェ」
立ち上がっていたトイルが雑な動作で座り直し、つぶやくように毒づいた。シュマはうつむいたまま何も言わない。そんなシュマに目をやり、トイルは微笑んだようだった。
「おいシュマ、あんな堅物の言うことは気にすんな。お前はお前のしたいようにやりゃあいいんだ」
「俺の、したいように?」
「ああ、そうさ。エサンの言う通り忘れちまってもいいし、それじゃ嫌だってんならそれでもいい。ともかく、お前はお前が思うように動けばいいんだよ」
お前が思うような理由で行けばいい――かつて、儀式の前にそう言ってくれた親友がいた。そしてシュマは決意を固め、儀式に臨んだけれど、結局つかめたものなど何もなかった。
そんなシュマに、今更何ができるのだろう。シュマは、何をすべきなのだろう。
「シュマ」
リシェンの小さな声がした。
「あまり、考えすぎるな。無理に何かをする必要なんてない。俺は……お前が笑ってくれるのが一番嬉しい」
ぎこちない台詞だったが、不覚にもシュマは目元が潤みかけた。それを受けてトイルが再び微笑む。申し訳なくなるぐらい優しい笑顔だった。
「俺たちはいつでもお前の助けになるぜ。何かあったら、すぐに俺たちを呼んでくれや」
何も答えられず、うつむくしかなかった。顔を上げられない。今、いったいシュマはどんな顔をしているんだろう。
果ての山で起こったこともそれまでの記憶も感情も、波が押し戻されるようにシュマの元へと帰ってくる。そして、それらのずきりと内に響く痛みとともに、その籠の風景がシュマの中でぐるぐる回り始めていた。大好きだった者たちの笑顔も、その渦の中で現れては消えていくのだった。
(……メルゥ……)
そしてシュマは、この村にたどりついて始めて、かつて想いを寄せた少女の名を想う――。
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