七章-上(7)

 さらさら――……さらさら――……。

 そんな、水の流れるような澄んだ音が辺りにみちていた。涼やかな音色にくすぐられ、シュマの耳元は何だかむずがゆい。

 さらさら――……。

 すぐ近くから流れ出すその音にさそわれるように、シュマはじっと目を閉じていたまぶたを持ち上げる。真っ先に飛び込んできたのは、辺り一面に広がるあざやかな青草の風景だった。それは、かすかに吹く風に揺すられて、気持ちよさそうにゆらゆらとなびいている。
 ややあって視線をずらすと、シュマの座り込んだ足下の先で、小さな川が流れているのが目に入った。さらさら、と鳴いているのはその川の流れなのだった。
 体をかたむけてのぞき込むと、水の中に自分の姿が映り込む。こげ茶色の髪の少年が、無表情で川の中からシュマを見つめていた。年のころは―― 十歳ほどだ・・・・・
(あれ、おれ何してたんだっけ)
 ふとそんなことを思って首をかしげた。どうして自分はこんなところで座り込んでいるのだろう、と。
 下の方を見下ろすと、籠の風景が草原を下っていった先に広がっており、はるか下方にシュマの住む村が見える。ということは、村から離れたこの場所まで、シュマは青草の原っぱをわざわざ登ってきたということになるのだけど、はたしてそれは何のためだったろう。
 皆からよく「ぼんやりしている」と言われてしまうシュマだったが、さすがについさっきのことを忘れてしまうほど重症だとは思っていなかったのに、と頭をかかえたその時、
「――ああ、そうか。そうだった」
 忘れていたのが嘘みたいに、すっとそれはシュマの中に戻ってきた。同時に、ずしりと感じる重力までもがシュマの背によみがえってくる。
(学校、いってたんだっけ。それから家にもどってこようとして……)
 今日は二日に一度の学校のがある日で、シュマは中央村の学校でいつものように簡単なよみかきをならった後、それから先生が神様の話をしてくれたのだ。
 今までにだって、いろんな大人たちが何度も、シュマにこの籠をつくった神様のはなしをしてくれた。でもシュマは幼すぎて何だかよくわかっていなくて、よく聞いてもいなかった。今日の先生の話で、あらためてシュマは理解した気がしたのだ。
 そして、その話の中の先生のあることばが、シュマの中でぐるぐる回り続けている。

 ――この籠は、私たちが神になるまでの仮の住まい。死後の救いこそが私たちの本当の喜びなのです。

 仮の住まい。じゃあ、今ここにくらしているシュマたちはいったいなんなのだろう。仮の住まいに住むシュマたち人も仮の存在で、つまらない存在なんだろうか。じゃあシュマたちが今ここに生きてることに、意味なんてないのだろうか。
 難しいことはよくわからなかったけれど、それは何か嫌だな、とシュマは思ったのだった。形にならないもやもやとした思いをかかえたまま、シュマは家に帰りつく気にもなれず、ふらふらとここまで登ってきたのだった。
(でも、さすがにそろそろ帰らないとな)
 日は少しずつ落ちはじめている。暗くなる前に帰らないと、母のタブサにこっぴどくしかられてしまう。弟だって寂しがっているかもしれないし。
 仕方ない、とシュマはのろのろと立ち上がる。目線をずらし、シュマの場所からすこし離れたところの人影に気付いたのは、そのときだった。
(あれ? あんな子いつから――?)
 シュマは首をかしげる。シュマの視線の先、草原の中に、一人の少女がうずくまっているのが見てとれた。何だか気になってしまい、シュマはゆっくりと少女のところまで近づいていく。
 すぐ側までやってきて、シュマは少女を見下ろす形で口を開いた。
「おいお前、何でそんなところにいるんだ」
 少女がそっと顔を上げる。一瞬だけだったが、シュマはどきりとしてしまった。
 きれいな少女だった。肩までの髪はつややかに黒く、きょとんとした表情でシュマを見つめる瞳はくっきりと大きい。肌は、透き通るようなきめの細かい白色だった。
 そして、やがて少女はにっこりと何の含みもない笑顔を浮かべる。
「こんにちは! 見て、すてきなお花畑でしょ?」
 お花畑、と言われてシュマはあらためて少女の周りをながめる。少女の周りには、青草にまじって、薄桃色の小さな花が花びらをつけていた。名無しと呼ばれる、ツァリの花々。
 まあたしかに、お花畑と言われるとそうかもしれなかった。でも、素敵かと言われると――。
「わたしね、この花が好きなの! だから見に来たんだよ」
 顔中で笑う少女に、シュマはすこしだけひややかな視線を向ける。
「好きって、この名無し≠フ花が? ……へんなヤツ」
「へん? そうかなあ」
 そっけなシュマの言葉に、しかし少女はのんきに首をかたむける。その動作は、無性にシュマをいらいらさせた。
「へんに決まってんだろっ。そんな地味で何の意味もない花なのに、好きとか、素敵とか」
「意味ないなんてことはないよ。だってわたしはこの花が好きだもん」
「はあ? おまえの好みなんて関係ない! 無意味なもんは無意味なんだっ」
 いこじになって怒鳴ってしまう。シュマのいらいらはどんどんつのり始めている。
 そんなシュマに、少女はこくりと首をかしげた。
「……無意味は、いけないこと?」
 少女がぽつりと漏らす。それがますますシュマの感情をかきまわした。
「あー、いらいらするやつだな! 何でそんなこと聞くんだよ! 無意味っていうのは、ここになくてもいいってことだろ! おれだって……」
 ――自分は何を言いはじめてるんだろう。こんなはじめて会った子に。
 ふっとそんな声が頭をよぎった瞬間、ざっとシュマの中の熱はさめていった。
 シュマは何を言おうとしていた? 俺だって、何だ――、
「じぶんの意味が、わからないの?」
 少女の澄んだ声が響く。少女の幼い瞳の奥で揺れる光は、あまりに深く、そしてやさしかった。
 シュマは何も答えられずにうつむいた。少女はじっと黙ってシュマの様子を見つめていたが、やがてふっとほほえむ。
「じゃあ、あなた、名前は?」
 つぼみが花開くような、そんな笑顔だった。
「……シュマ」
 問われるままに答えると、少女は再びほほえんだ。揺れた髪がさらさらときれいな音をたてる。
「じゃあ、シュマ。私があなたの名前をよぶよ。そうすればあなたは、無意味な存在なんかじゃないでしょ?」
「何でそういうことに……っ」
 随分と飛躍した台詞。シュマはまゆをひそめたが、少女は気にせずに言葉を紡ぐ。
「だって、名前を呼ばれたらふりむかなきゃ。返事をしなきゃ。でもそれは何で?」
「……」
「それはね、シュマはあなたしかいないから。私はシュマを呼んだんだから、シュマが返事しないと、ね? ……それができる人が、どうしてつまらないの? 無意味なの?」
 思わず、はっとする。
「何があってもシュマはシュマ。そうであるかぎり、意味なんてあとからついてくるよ。だから、大丈夫」
 そう言う少女の声はまるで歌うようで。
「ね、シュマ」
 風の中、少女の髪とツァリの花が揺れていた。
 もう何も返す言葉を見つけられないシュマの口から、一つの問いがこぼれ出す。
「……お前、名前は?」
 少女が最後にもう一度笑った。

「メルゥ。メルゥだよ、シュマ」