七章-上(8)

 暗闇の中でシュマは目を開けた。一瞬今自分がいる場所がわからず呆けたが、見渡せばそこは、もうすっかり慣れてしまったエサンの部屋だった。
 隣の寝台からエサンの規則正しい寝息が聞こえてくる中、シュマは床に布団を敷いて横たわっている。見上げても真っ黒な天井が目に入ってくるだけで、たった今まで目前に広がっていた青草の野原もツァリの花畑も――幼い少女の姿も、もちろんどこにもない。
(今のは、夢……?)
 目をつぶればまだ、まぶたの裏に籠の風景が広がり、少女の声が響いてくるような錯覚に襲われる。それは幼い頃の、シュマの記憶の中の一場面。メルゥと始めて出会った時の話。
 今思えば、ちょっと奇妙な出会い方だった。それを、今更のようにシュマはこうして寝床で夢に見てしまったのか。
「昼間の話のせいだよな……」
 ため息にも似たつぶやきが漏れる。掛け布団を首もとまでかき寄せ、硬く目を閉じたが、眠気はどこかに飛んでいってしまったようで一向に寝付けない。しばらくのうちはそのまま悶々としていたが、
「……あー、くそっ」
 やがて、髪をかき上げながらぼやき、シュマはむっくりと体を起こしたのだった。


 真夜中近くの、夜の村はひどく静かだった。エサンとエシュナを起こさないようにそっと家を抜け出すと、眠る家々と静まりかえった森の風景がたたずんでいた。息を吸い込むと、澄み渡った空気が体全体に染みこんでくる。
 遠くには黒々とした闇に包まれた果ての山の姿と、天空にはほのかな光を放つ月と星々。
(果ての山――)
 気付けば勝手に足が動いていた。護身用にと一応腰につけてきた短刀の存在を確かめてから、シュマはゆっくりと歩き出す。やがて村を抜けても立ち止まることはなく、そのまま、しんとした気配の支配する森の中へ踏み入っていった。
 どれだけ歩いただろうか。やがて視界が開け、シュマは切り立った崖の下に辿り着く。月の光を冷たく反射する岩壁を眺めながら、シュマは長い長いため息を吐き出した。
(俺、こんなところで何やってるんだろう)
 この山を越えてきたあの日、たった一人助けられてしまったシュマ。そのまま、空っぽのまま、何もない日々に沈んでいこうとしていたシュマ。
 けれど結局、籠を忘れることも捨てることもできずに、ここで立ち尽くす自分がいる。籠があんなことになっている今、シュマはいったいどうすれば――、

 ガサッ

「……!」
 突然後ろで草の鳴る音がし、シュマは反射的に身構えて振り返った。けれど、シュマのそんな行動とは裏腹に、そこにいたのは、
「エ、エシュナ?」
 素っ頓狂な声が出た。そこにいたのは、森の獣でも何でもなく、木々の間から顔をのぞかせたエシュナその人だった。
「あらら、見つかっちゃった」
 驚いて固まっているシュマの前で、エシュナは舌をちらっと見せて笑う。そのまますたすたとシュマの側まで歩いてくるので、シュマは慌てて口を開いた。
「見つかったって、こんなところで何やって」
「シュマが外に出て行くのがわかったから、気になってついてきてみたの」
 そっと抜け出したつもりだったのに、隣の部屋にいたはずのエシュナに聞かれていたなんて。大体そんなことよりも、
「こんな夜に、一人で森に入ったら危ないじゃないか!」
 シュマだって人のことは言えないが、エシュナは女だ。そう思ったのに、エシュナは少しも悪びれた風もない。
「あら、私大丈夫よ。弓だけじゃなくて、刀も少しだけなら扱えるもの」
「いや、でも」
「それにね」
 エシュナがシュマの方を見てふっと笑う。
「今からは、何かあってもシュマが守ってくれるでしょ? 問題ないじゃない」
 どきりとするような台詞だった。そう言われると、何だかすっかり毒気を抜かれてしまって何も言えなくなる。反論もできず、シュマはもうため息をつくしかなかった。
 以前にエサンが、妹の尻に敷かれて大変だと嘆いているのを聞いたが、そのわけがよくわかってしまった気がする。
「間近で見ると、本当に高いわね、果ての山って」
 ふいに、エシュナが崖の上を見上げてそう漏らした。そして、
「シュマ……昼間のことはごめんなさい」
 唐突に謝罪が入り、シュマは驚いてエシュナの方を振り向く。彼女は少しだけ憂いを秘めた瞳でシュマを見つめていた。
「兄さんの言ったことは、あなたにとっては冷たいことばかり。でも、どうか兄さんを怒らないでほしいの。今の兄さんは、あんな風にしか言えなくなっているから……」
 エシュナがそっと目を伏せる。
「兄さんはね、人には何をする力もないって思ってるの。自分たちがどうこうしたところで、何を変えることもできない。人は、与えられた環境でただ生きていくことしかできない。ただ生きて、死んでいくだけだって……」
 そう言われ、エサンが時折うかべてみせる暗い影を思い返す。兄が普段は笑顔の下に閉じ込めてしまうその影を、妹はいつから気付いてしまったのだろうか。
「昔は、そんなんじゃなかったの。明るくて、何にでも負けずにぶつかっていく人だった。でも、父さんの姿を間近で見るうちに、どんどん変わっていってしまったの」
「親父さんも、長だったんだよな」
「ええ、そう。父さんは、村を少しでも良くしようっていつも頑張ってた。でも、やっぱりどうにもならないことの方が多い。仕方ないわよ、どれだけ頑張って皆が働いても、その苦労を自然はあっという間に奪っていく」
 シュマは、厳しかった昨年の冬を思った。あの中で、人がどれだけ自然に抵抗できたかなんて、考えるだけ無駄なことだ。
「そんな父さんの側で、兄さんは段々何でもすぐに諦めるようになってしまったわ。なるべく何とも関わらないようになっていった。どうせ何もできないのだから、頑張るだけ無意味だって。私は、昔の兄さんに戻ってほしいのに――」
 そしてエシュナは、「ねえ、シュマ」と顔を上げてシュマを見る。
「シュマもそう思う? 人には何もできないって」
 その問いに、すぐには答えられなかった。しばらく黙り込んだ後、結局出てきたのは「わからない」という一言だった。
「俺にはわからない……。俺は、自分がここにいる意味も、やるべきことも見えずにいるのに……」
 いったい人には、自分には何ができるのか。自分の意味は――その問いは、今のシュマにはひどく重い。
 エサンの言う通り、全部忘れて (うず) めてしまえれば楽なのに、どうしてそうはできないのか――。
「シュマ、あなたにとって、籠とは何だったの?」
 ふいにエシュナが問いかけてくる。シュマはとっさに意味がつかめず、戸惑った表情を浮かべる。
「俺にとっての、籠……?」
「そうよ。あなたにとっての籠。あなたが籠に対して抱く思いは何? エサンの言う通り、ただの抜け殻? 無価値なもの? それとも――何か別のもの?」
 シュマには答えられなかった。
「難しく考えちゃ駄目よ。リシェンだってそう言ってたじゃない。あなたは、あなたのしたいようにすればいいわ。あなたの心のままに、あなたが籠へ向ける思いのままに。きっとそれが、一番正しい」
 そう言って、エシュナはシュマに向かって微笑んだ。そのまま、「さあ、そろそろ帰り……」と言いかけたところで彼女の口が止まる。唐突にその目が見開かれた。
 エシュナのそんな変化に、シュマは怪訝に思って「エシュナ?」と呼びかける。エシュナは、怯えともとれる表情を浮かべ、恐る恐るシュマの背後に向かって人差し指を向けた。
「シュマ、あれ、何……?」
 その指先をたどるように、シュマはさっと後ろを振り返る。その瞬間、はっと息を呑み込んだ。
「嘘、だろ……?」
 ひょっとしてまだ夢を見ているのかと、一瞬本気でそう思った。
 二人の視線の向かう先には、銀色の獣がたった一匹で、崖の側にたたずんでいたのだった。