七章-上(9)

「ニィ……?」
 頼りない声はシュマからだった。銀の獣からは反応はない。けれど、そんなことは確認するまでもないことだった。
 見間違えるわけがないのだ。この、暗闇の中で優美に輝く、青みがかった銀の体躯。宝石のような青の瞳。そして、月夜の元でぽうっとほのかな光を灯す額の角。シュマは、何度その美しさに見とれたことだろう。
 そして何よりも、何年も伴に過ごしてきた者同士の、何とも言いがたい絆にも似た直感が、これはニィなのだと告げるのだった。
「ニィ、お前、無事だったのか……?」
 恐る恐る問いかける。ニィだと半ば確信していても、期待して信じて、裏切られるのは怖かった。
 シュマがゆっくりと一歩前に踏み出したとき、静かにこちらを見つめていたニィは、さっとシュマに背を向ける。そのまま小走りで、でもシュマがついて行ける程度の速さで、崖伝いに走り出す――それは、ニィがシュマに何かを知らせたいときに、決まって見せる動作だった。
「ニィ! 待て!」 
 弾かれるようにシュマは銀の背を追いかけ走り出す。「あの獣を知っているの?」と、遅れて届いたエシュナの戸惑った声など、もう聞いてはいなかった。
 息が切れるのも構わず、がむしゃらに走り続ける。けれど、シュマの速度が上がるにつれて、ニィもまた足を速める。だからシュマとニィとの距離は一行に縮まらない。
「ニィ……っ」
 シュマがその名を繰り返したとき、ニィの速さがふいに弛んだ。そのまま徐々に足を止め、やがて完全に立ち止まったニィは、再びシュマに青い宝石の瞳を向ける。
 そしてその次の瞬間、まだニィとの距離は相当あるにも関わらず、シュマは地面に縫い付けられたようにぴたりと足を止めていた。
 ――だって、今度こそ本当に息が止まるかと思ったのだ。体中に感じられた、心臓まで止まってしまいそうな強い衝撃。だが目が痛いほどに瞳を見開いても、シュマの目前の光景は変わらない。
「――っ――……」
 口からこぼれ落ちた音は、もはや言葉になどなってはいなかった。
 シュマの視界の中、ニィの立つそのわずか先、そこで夜空を背景にはためく白装束の裾――、

「メル、ゥ……?」

 呆然としたシュマの声は、震える吐息に紛れる。ニィの銀色のきらめきの背後に、白服に身を包んだ一人の少女が立っていた。月の青白い光に照らされた中で、肩までの髪が夜風に流れ、長い裾がふわりと舞い上がる。
「メルゥ……なのか……?」
 そんなはずないと何度も首を振った。けれどいくら目を凝らしたところで、目を伏せたままのその少女の姿は、生きていた頃のメルゥにそっくりなのだった。だが、それでも――。
「メルゥなわけ、ない……だってメルゥは……。お前は、誰だ……?」
 足までが震える中、舌がもつれて上手く話せない。それでも必死に問いかけたが、少女は顔を伏せたまま、答えることもその場から動くこともない。ただただ、まるで風景の一部のようにそっと立ち尽くしているその様子は、まるで人でないものを見ているような錯覚にとらわれる。
「答えろ……! お前は、誰だ……っ」
 表情の見えない少女に、シュマは冷たい空気を切り裂いて叫ぶ。再び風が吹き抜け少女の髪を散らばらせたその時、またも無言のままと思われた少女の口元が、月明かりの元で微かに動いた。

 ……シュマ――……。

 直後、突然強風が巻き起こり、シュマの足下から細かい砂を巻き上げる。
 そして思わず目を閉じてしまったシュマが、再び前方を見据えた時には、白服の少女の姿などもうどこにもなかった。うろたえるシュマの先で、ニィだけが相変わらずシュマを見つめてたたずんでいる。
 しかしそのニィも、少女が消えたのを見届けるかのように、宝石の目をそむけ静かにシュマへと背を向ける。やがて、今度はシュマのために速さを加減することもなく、音も立てずどこかへ走り去って行った。
 後には、薄闇の漂う、 静謐(せいひつ) な夜の風景だけが残った。呼び止めることも追いかけることもできず、ただ立ち尽くすシュマの耳に甲高い声が飛び込んでくる。
「シュマ! どうしたっていうの!?」
 ようやく追いついてきたエシュナからだった。シュマの真横に立った彼女に、シュマはどう反応していいのかわからず、「エシュナ……」とすがるような声を漏らす。エシュナは首を傾げた。
「シュマ?」
「エシュナ、俺……」
 震えた声はまだ元に戻らない。エシュナの声も辺りの風の音も、どこか遠くから聞こえるようで、代わりに耳の奥では、まるで耳鳴りのように少女の声が反復され続けている。
 シュマ、と呼んだ透き通った鈴の声。
 あの声が、メルゥのものでないはずがないのに――。
「何か、見たの?」
 エシュナが心配そうに問いかけてくる。シュマは首を振りながら呆然とした口調で言う。
「メルゥが、いた……。でもそんなことありえない――」
「メルゥ? でもその子はもう、亡くなってしまったのよね……? それに、女の子の姿なんて――見えなかったわよ」
 「え?」とシュマは、一瞬真っ白になった頭で反射的に振り向いた。エシュナは怪訝そうに目を細めている。
「見えなかった……?」
「ええ、そうよ。あの銀の獣とあなたが離れて立っているのは、ずっと見えていたわ。でも、それ以外には誰もいなかった」
 ――シュマにしか見えていなかった? どうして、そんなことが。
 うろたえるシュマの前で、エシュナは難しい顔をしてしばらく考え込んでいたが、やがてはっとしたように息をのむ音がする。どこか血の気の失せた顔で、エシュナはシュマを見つめてきた。
「ねえシュマ、ひょっとしてその子って、白くて裾の長い服を着て、髪は肩までで、目が大きくて……」
「そうだ! その通りだ! けど、何でそんなこと知って――っ」
 返答はすぐにはなく、言っていいものか迷っている風なエシュナの戸惑いが伝わってくる。
「その子、ルトが言っていた子だわ……」
 しばらくおいてつぶやくように漏らしたその顔には、エシュナにしては珍しく怯えのようなものさえ見え隠れする。
 ルト。エシュナが以前に言っていた、倒れているシュマを見つけてくれた男の子の名前だ。
「ルトがね、変なことを言っていたの……あなたを見つけたのは、森の中で出会った知らない女の子に手招きされて、ついて行ったからだって。その先に、あなたが倒れていたんだって」
 まさか。そう言って目を見開いたきり、二の句が継げないシュマに、エシュナは真剣な顔でうなずく。
「ええ、そうよ。その、ルトが言っていた女の子の容姿が――さっき伝えた通りなの」
 そう言ってから、エシュナは自分自身の言葉に困惑しているような素振りを見せる。「人は死んだら、消えるのだと思っていたのに」と、独り言のようなつぶやきが聞こえた。
「神の世界なんてない。だから、人の魂は死んだら消えてしまうのだと思ってた。生きて死んだら、もうそこで終わりなんだって……けれど、違ったというの? まだこの世界には、私たちの知らないことがあるというのかしら――」
 不安げに吐き出す息の中に、掠れて消えていったエシュナの声を、シュマはもうほとんど聞いていなかった。メルゥに生き写しの少女とニィが、先ほどまで立っていた方角に体を向け、呆然と既に誰の姿もない空間を眺めやる。
(メルゥ、本当にさっきのは、お前だったのか……?)
 もう二度と、見ることさえできないはずだった少女の姿。シュマがずっと、もう一度会いたいと願っていた少女。たった今自分の見たものを、シュマは信じて良いのだろうか。
 もしそれが許されるならば、もし、何もできなかった自分でも、この奇跡を信じて良いというのなら――、
(メルゥが……ルトを俺の元まで導いてくれた)
 だからこそ今、シュマはこうして生きている。
 メルゥがシュマの命を救ってくれたというのか。こんなシュマに、まだ死ぬな、生きろと――そういうことなのか。
 そして、

 ……シュマ――……

 あの時、メルゥは確かにシュマの名を呼んだのだ。それはまるで、始めて出会った幼き日の、記憶の中で響く声と同じようで。

 じゃあ、シュマ。私があなたの名前をよぶよ。そうすればあなたは、無意味な存在なんかじゃないでしょ?

 ――だから、シュマにはまだ意味があるのだと、そう言われている気がしたのだ。
 シュマはメルゥの死を止められなかったのに、どうしてかメルゥはシュマの前に現れて、こうしてシュマを助けてくれたのだ。
 そして、シュマの命を救った少年の姿をもが頭の中に浮かび上がる。ユエンに救われ、メルゥに救われ、シュマは今ここに立っている。二人に対して何もできなかったシュマなのに、こんな自分の命をユエンもメルゥも願ってくれた。
 そんな自分が今すべきことは――、
「エシュナ」
 まだ考え込んでいたエシュナは、シュマの声で顔を上げる。
「エシュナ……さっき、言ったよな。俺が思う通りにすればいいんだって」
 メルゥが言ったように、エシュナが言うように、シュマがシュマであるということ。それこそがシュマの意味なのだ――多分それこそが、生き残った自分がすべきことなのだ。
 その言葉を静かに噛みしめ、ようやくシュマは、メルゥを、ユエンをニィを、そして彼らと過ごした籠の風景を、はっきりと脳裏に描き始めていた。既に自分の手から去っていってしまったそれらはやはり悲しくて――けれど同時にひどくあたたかい。
 そしてシュマは、ゆっくりとエシュナの方へと振り向く。口を開いてその台詞を言うには、大分勇気がいった。
「エシュナ、俺……決めたよ」