籠庭の詩

七章 黎明の空の下-下(1)

「足下きぃつけろ! 到着する前に怪我してたら意味ねェぞ!」
 洞窟の硬い石床と布靴が擦れる音の間に、トイルの張り上げた声が割って入ってくる。シュマはうなずいて返事をしようとしたが、その前に方々から「おう!」やら「言われるまでもねえぜ」やらと色んな答えが聞こえてきて、結局シュマは声に出す機会を逸してしまった。
 近くを歩いていた若者の一人がそんなシュマの様子に気付いたらしく、からっとした笑い声を盛大にあげる。それを振り向いて軽くにらむと、ますます笑われてしまった。
 とりあえずやたらと元気で調子が良い――ここまで歩いてきた道程の間、シュマがトイルの仲間たちに対して思うことはそれだ。

 この洞窟はな、果ての山の籠側の中腹に続いてる。そこまで一気に抜けて、籠に降りるぞ

 洞窟の中で仲間たちに引き合わされた後、シュマはトイルにそう告げられることになる。飲み水や護身のための刀など、驚いたことにもう出発できるまでに準備は整えてあり、すぐに籠に向かって立つことが決まった。そして洞窟の奥へ奥へと歩き続けて数刻、もう仲間たちとも大分打ち解けることができている。
 これだけの仲間たちをあの短時間で集められ、そして既に準備までできていたという事実にシュマは愕然とさせられる。リシェンが言うには、トイルは随分と村の若者たちに好かれているのだという。
「武器も全部鉄器か……すごいな」
「鉄器は俺たちの村では珍しくない。砂鉄がとれるから」
 シュマのつぶやきを、近くにいたリシェンが拾った。シュマは思わず瞠目する。
「それはエシュナにも聞いたことがある。砂鉄なんて、いいよな。籠では鉄器は貴重品だったけど、お前たちの村では一日中鍛冶の音が聞こえてくる――」
「でも……だから大国に狙われる」
 いきなり話が飛び、思わず「え?」と間の抜けた声を漏らす。振り返ると、やや伏し目がちのリシェンの整った顔がある。
「戦続きで鉄が不足して、大国が新たに鉄を採る場所を探してる。それで最近、俺たちの村の近くにも余所の人がよく現れる。砂鉄の存在にも、もう気付いているかもしれない。それに大国が目を付けたら……多分俺たちの村は、攻め込まれて捕らえられる。砂鉄を採るための人手として」
「……リシェン?」
 なぜそんな話を今始めるのか。戸惑って名を呼んだが、珍しく饒舌のリシェンは、シュマの話など聞いていないかのようだった。
「トイルは、この状況をどうにかしたいって考えてる。大国の奴隷になるのは嫌だって。それで――」
「おい、リシェン! ちょっとこっち来てくれやー」
 その時、前方からリシェンを呼ぶトイルの声がした。見れば大分先の方でこちらに向かってひらひらと片手を振っている。リシェンはしばらく黙ってその様子を見ていたが、やがて無言で、前を行く若者たちを追い越していった。
 取り残されたシュマは釈然としない思いを抱え、一人首をひねる。いったい何が言いたかったのだろう。リシェンは何を考えているのかよくわからない場面が多々あるから。
(エサンに言わせればトイルもよくわからないらしいけど)
 手の裏を見せない食えない男と、始終だんまりの組み合わせ。よくわからない二人組。そうエサンが口ばしっていたことがある。そうだろうか? シュマにとってみればトイルは普通の明るくて優しい青年なのだが。
 そこまで考えたところで、ずん、と重い気分が両肩にのしかかってきた。脳裏に数刻前のある場面が蘇ってくる――多分、エサンの名前が出てきたせいだ。
(エサン、か……)
 籠が近づくにつれ、さすがの陽気な若者たちの口数も減ってきていた。妙に静かになった洞窟の中、どこかから雫の落ちる音が聞こえてくる。
 そしてシュマは、暗い洞窟の中を進みながら、脳裏に冷え冷えとしたエサンの背中を思い浮かべる――。


「シュマ! いったいどこへ行く気だ!」
 今から数刻前、籠へ出発する前のこと。さすがに何も言わずに籠に向かって出発することはできないので、シュマは一旦トイルと連れだってエサンの家に戻ったのだ。すると二人の様子からエサンは何かを感じ取ったのか、シュマが話し出す前にいきなり強い口調がかかった。
 一瞬、返答に窮した。
「……籠へ、行く」
 その場にはエシュナもいたが、彼女は心配そうにエサンの様子をうかがっていた。
「本気で言ってるのか」
 しばらくして聞こえたエサンの声は、ひどく押し殺された響きを含んでいた。シュマはきっとエサンを見据える。
「本気だ。俺は行く」
「駄目だ、馬鹿な真似をするんじゃない。お前が行ったって無意味だ」
 即答された言葉に、けれどシュマは首を横に振った。
「そんなことない。俺にだって、できることはきっとある。それなのにここで指をくわえて待ってるなんて、俺にはできない。だって俺にとって籠は……抜け殻なんかじゃないから」
 エサンの視線が痛いほどに刺さる。そして低い声が聞こえた。
「……お前が生きてるのは、何人もに助けられたからだ。その命を、大切に使おうとは思わないのか」
 そう問う声色の底に、エサンの疲れた諦観が透けて見える。シュマは、その諦観に自分まで沈んでしまいたいとは――思わない。
「大切にしたいさ。だからこうすることを選んだんだ」
 だからそれがシュマの答え。
「全部忘れて知らない振りをして生きるなんて、それは生きてるって言わない。逃げてるだけだ。そんなのはただの弱虫の卑怯者だ」
「……」
「俺は俺を捨てない。もう逃げない。それが……今俺がメルゥたちにしてやれることだ」
 ぎゅっと拳を握りしめたシュマに、エサンはしばらくの間冷たい視線を向けていた。けれどやがて、長いため息をついて目を伏せる。
「……勝手にしろ」
 そしてきびすを返した彼の背中は、奥の部屋へと消えていく。