七章-下(2)

「シュマ、もうすぐだぜ」
 唐突に鼓膜を打ったトイルの声で、シュマははっと意識を引き戻された。ゆっくりと首を回すと、すぐ隣にトイルの姿がある。「なぁにぼうっとしてんだよ」と狐のような目をして彼は笑っていた。
「もうすぐ……?」
 ぎごちなくその台詞を反復した。我ながら馬鹿面だったのではないかと思うが、トイルはまた優しく微笑む。
「ほら――お前の籠だぜ」
 指さされた先、暗い洞窟の先で、何かがきらめいているのがわかった。小さく光る点が幾つも――思わずはっとする。これは、星の輝きだと。
「おおっと、シュマ?」
 トイルのやや驚いた声を背に、シュマは夢中で駆けだしていた。
 洞窟の内部を満たす闇は重く冷たい漆黒だった。でも視線の先に見える星々を含んだ闇はそれとは違う紺青の闇で、それはみるみるうちに近づいてきてそして――、

 ざ――……っ。

 吹き抜けた風の音とともに、シュマの目前一面、星明かりの満ちる天空が広がっていた。「――っ」
 シュマは息を呑んだきりその場に立ち尽くしていた。そしてこみ上げてくる何かを堪えるように口元を引き結ぶ。
 洞窟は確かに果ての山の中腹に続いていたようで、漆黒の闇から抜けた先は、巨大な岩が山の途中に張り出し高台のようになった場所だった。
 そして、目の前に広がるのは紺青の夜空と、
「籠、だ」
 遙か下方に、籠の全景が見渡せた。周りをぐるりと取り囲む黒々とした果ての山。山を下った先に続く森。さらに広い草原が伸びて、中央付近に民たちの暮らす村々のかがり火が――のはずなのに、今見えるのはあの穏やかな生活の灯火などではなかった。代わりにシュマの瞳に映るのは、猛々しくうねりを上げる紅の炎。それが、村々のあるはずの辺りを覆い尽くし、天をも焦がさんばかりに火の粉を散らす。
「本当に、燃えているのか」
 覚悟はしていたはずだ。それでもなお目の当たりにした惨状に愕然とした。慣れ親しんだ場所が炎に呑み込まれていく様に、それ以上の言葉が続かない。民は、皆は、無事なんだろうか。
「こりゃあ、想像以上にひでェな」
 靴音とともにトイルが隣に立った。その言葉にシュマはうつむく。
「この分だと、飛び込んでく俺たちも危険を覚悟しとかねぇとな。――今ならまだ後戻りがきくぜ? どうするよ、シュマ」
 密やかに投げかけられたその台詞に、シュマは「いや」ときっぱりと言った。自分でも驚くぐらい強い声が出た。
「戻らない。このまま行く」
 トイルの見つめてくる横で、シュマは真っ直ぐに籠を見つめる。抱いた感情は、こうして炎に呑み込まれようとしている悔しさと悲しさと――そして、形容し難いほどの愛おしさと。
「おい、泣くのはまだにしとけ」
「……なっ、馬鹿言え泣いてるわけないだろ!?」
「ふっ、ならいいけどよ。何にせよ、全部終わるまでは立ち止まな。泣くのは終わった後の嬉し泣きにしとけや」
 一瞬言葉に詰まった後で、シュマはこくりとうなずいた。それを見やってトイルは微笑み、「さて」と表情を引き締める。
「俺たちは下に着き次第民たちの救助に向かう。お前はどうする?」
「俺は……」
 問われて再び籠を見下ろした。このまま山を下っていけば、丁度シュマの村のある方とは反対側に降りることになる。家族が心配だが、籠を横切って向こう側まで行くような悠長な真似はしていられないし、見たところ火は中ノ村を中心に回っているようだ。一番端にあるシュマの村までは、まだ火は届いていないはず。
 それよりも心配なのは、
「トエの……友達の村が近い。あの家族とは仲が良かったんだ、探しに行きたい」
「わかった。人手は必要か?」
「いや、一人で大丈夫だと思う。それよりも、他の皆を助けてくれ」
 トイルが首を上下させた。そして「互いに健闘を願うぜ」との言葉を最後に、彼は山を下り始める。やや遅れてシュマは大きく息を吸い込み、その背中を追った。
 視界の隅には、残像が残るほどに鮮やかな紅の色が映り続けていた。

 こうして、シュマの長い夜が幕を開けることになるのだった。