七章-下(3)

「ティナ! どこにいるの!?」
 辺りには煙の臭いが立ちこめていた。見渡せばどこからか白煙が立ち上っており、ばちばちと炎の弾ける音も風にのって届く。自分のいる場所にはまだ火は回ってきていないという、それが唯一の幸いだった。
 そんな中、トエは必死に声を張り上げ、何度も何度も辺りを見回しては幼い妹の姿を探しているのだった。けれど先ほどから誰の人影も見えず、そこには人が去った無人の家のみが立ち並ぶ、トエの村があるだけだ。
(あの馬鹿、どこに行ったというの……!)
 煙の臭いが近い。ここに炎が届くのも時間の問題だ。それまでに妹を見つけなければと、気ばかりが焦ってしまう。
 村にはもう人は残っていない。火事が広がるのを受けて、危険が及ぶ前に皆で共に避難した――はずだったのに、避難先で気付いてみればトエの妹のティナだけが見当たらない。どこへ行ったのか誰にも心当たりがなく、もしやまだ村にとトエは探しに戻ってきたのだ。「ティナ、お願い出てきて!」
 そうしてトエが再び声を張り上げるのと、すぐ側の家の藁葺き屋根にぼうっと紅の炎が現れるのはほぼ同時だった。はっとしてトエは次第に大きくなっていくその火を見やる。どうしよう、まだティナを見つけられていないのに、もう火の手がここまで追ってきた――、

「お姉ちゃんっ!」

 その時、トエの耳に舌足らずな幼い声が飛び込んでくる。反射的にがばっと振り向いた先で、家と家の隙間から小さな姿が飛び出してくるのが見えた。
「ティナ!」
 駆け寄ってきたその赤毛の少女をトエは思いっきり抱きしめる。腕の中で、ティナは肩で息をしていた。
「この馬鹿! 何で皆と逃げないの!」
 しかりつけると、「ごめんなさい」と泣き出す寸前の声がする。
「途中で忘れて物したことに気付いて、それで戻ってきたの……。でも怖かったよお……!」
 半泣きの妹をそれ以上怒ることはできず、トエはぎゅっと抱きしめて「もう大丈夫」と耳元でつぶやく。それでティナは少しは落ち着いたようで、それを受けてトエはティナから体を離す。
「さあ、早く逃げるわよ。念のため聞くけど、もう村には誰もいなかったわよね?」
「……ううん、いたよ! さっきそこで……」
 ティナから飛び出した予想外の答えに、トエは思わず目を見開いた。
「誰? 誰なの!?」
「わかんない、よく見えなかった……でもお兄ちゃんが一人、あっちの方に」
 ティナの指さした方角に視線をやり、トエは生唾をごくりと呑み込んだ。トエのいる所はまだ屋根で小さな炎がちろちろと燃えているぐらいだけれど、誰かがいたという辺りはもう家並みごと真っ赤な色に呑み込まれようとしている。
 わずかな逡巡の後、トエはティナの肩にそっと手を置いた。妹は不安そうな目で見上げてくる。
「ティナ、みんなが避難している所は知っているわね? 七ノ村の集会所よ。今からそこまで真っ直ぐ走るの、いいわね?」
「……お姉ちゃんは!?」
「お姉ちゃんはまだ用事があるから、ティナは先に行ってなさい。一人でも大丈夫ね?」 そう言ってもなおティナは「でも……」と渋った様子を見せていたが、トエが「行くの!」と鋭く叫んだ途端、弾かれたようにトエから離れて駆けだした。その背をしばらく見送って、トエは村の奥へと向き直る。
 こんな大きな火事は初めてだ。真っ赤な炎がうねる様は、それだけでトエの目には恐ろしく映る。逃げてしまいたくなる気持ちを、しかしトエは無理矢理ねじ伏せた。
(行くわよ……!)
 深く息を吸い込み、踏まないように巫女服の裾を持ち上げて、覚悟を決めて走り出す――燃えさかる村の奥へ向かって。
「誰か! 誰かいるの!? 出てきてちょうだい!」
 燃える家々の間を駆け抜けながら呼びかける。だがその直後、煙を吸い込んで咳き込んだ。白煙で視界がぼやけ、熱気でめまいを覚える。けれどそんな状態でも、家を火だるまにする炎の姿はくっきりと視界に飛び込んでくるのだ。
 バチバチと木の割れる音はすぐ間近から。ここは危険だと、わかってはいるのに。
「いるなら出てきて! 早く逃げるのよ!」
 煙と熱気に負けじと張り上げた声に、応える者はいなかった。
 ひょっとしてもう逃げてしまったのかと、ちらりとそんなことを思う。そうでなければティナの勘違いだったのでは――。
(もう行こう。これじゃ私まで巻き込まれる……!)
 誰の気配も感じないのを確認して、トエはきびすを返した。そして炎に包まれる家々の間を急いで引き返し始める。早くしなければと、速度を速めたそのとき、
「――っ!?」
 すぐ側の家から、バキっというやたらと大げさな音がした。はっとして振り返ったトエが見たのは、炎に包まれた家が崩れ――真っ赤な柱が自分に向かって崩れ落ちてくる様。
 焼けた柱はトエまで焦がさんと、長躯を振り下ろして襲いかかってくる。避けようとしても既に襲い。もう悲鳴すら間に合わない。
(い、や)
 向かい来る恐怖の中で、トエがきつく目を閉じたその瞬間、

「――トエっ!!」

 鼓膜を打った誰かの声。直後にトエの体は強く突き飛ばされ、熱をもった地面へと転がっていた。それはあまりにあっという間のことで、すぐには何が起きたかわからなかった。
「痛っ……」
 口の中で血の味がする。そしてトエのうめき声に被さるように、必死な様子で投げかけられた言葉があった。
「トエ! 大丈夫か!?」
 誘われるように目を開け、自分を見下ろす人物の顔が炎に照らされる様子を、トエはすぐ近くで直視する。
 ――瞬間、全ての音が静止した気がした。
「ここから逃げるぞ! いいな!?」
 ここが火事のまっただ中であるという事実さえ一瞬忘れていた。真っ白になった世界で少年の声だけが強くトエに響く。何も答えることができないまま、ふわりと浮遊感を感じ、気付けばトエは少年に抱き上げられていた。
 間髪空けず、トエを抱えたまま少年は脇目もふらずに走り始める。その後ろで、燃えさかるトエの村はどんどん遠のいていく。
 そして力強い腕の感触を感じながら、トエは恐る恐る口を動かしたのだった。

「シュ、マ……?」