七章-下(4)

 一度だけシュマの名を呼んだきり、ぱたりと無言になってしまったトエを抱えてシュマは暗い草原を走り続けた。村を外れたこの辺りまではまだ火は届いていない。けれどそれも時間の問題かもしれない。
 腕の中のトエからは全く反応がなかった。ひょっとして怪我でもしているんじゃないだろうか。火による火傷か、それかさっき突き飛ばしたときに捻ったりしていたら――。
「トエ、大丈夫か?」
「……降ろして」
 自分の台詞に重ねられた抑え気味の声を、シュマは最初上手く聞き取ることができなかった。だから反射的に「え?」と尋ね返したその時、まるで拒絶するように腕の中でトエが身動きする。
「降ろして! 今すぐ!」
 放たれた言葉は鋭かった。憎悪のようなものさえ見え隠れするそれに、シュマはびくりとして慌ててトエをその場に降ろした。
 その途端トエは数歩下がって距離をとる。そして切れ長の目できっとにらみ付けてくるのだった。
「どうしてここにいるの!? あなたはもういないはずだわ!」
「それは……っ」
 言葉に詰まる。どう言えばわかってもらえるだろう。神話も何もかも嘘だったなどと、どうすれば――、
「それなのに、どうして……! どうして、まだ無事なの、生きてるの……シュマ……」
「……え?」
 目眩に似た衝撃があった。たじろぎながらトエを見ると、シュマを見据えてくる瞳の奥では複雑な光が揺らめいていた。――巫女殿で言い合った時と同じだ。でも憎しみではない、もっと違う何か。
 まさか、とシュマの中に疑惑が頭を持ち上げる。
「全部知っていたのか、トエ……?」
 呆然として投げかけた問いに、トエは静かにうなずいた。
「ええ……そう」
「何でだ。巫女でも姉巫女以外には何も知らされていないって!」
「だって、私は――」
 微かに、トエの表情が歪む。
「次期姉巫女だったから」
 感情の抑えられた声が虚空に響く。そうやって静かに落とされた波紋は、やはり静かに広がっていく。
「次期、姉巫女? 何言ってるんだよ、それはメルゥだったんじゃ……」
 そして一時思考の途切れた頭に、驚愕は遅れてやってくるのだった。
「表向きは、そうだった。強い力のある彼女が立っておいた方が、民は納得するし安心もするだろうから。でも現実問題……メルゥは姉巫女になれたかしら」
 一方でトエの態度は冷静そのものだった。むしろ冷静を通り越して無機質だとさえ感じてしまう。まるで、取り繕っているかのように。
「なれたかって、そりゃメルゥが姉巫女になることなんて、もう……」
「そういう意味じゃないの。もしメルゥが自殺せずに生きていたら――それならメルゥは、将来姉巫女になれたのかしら」
 虚を突かれて言葉を呑み込むシュマに、トエは「こんなこと言いたくないけど」と伏し目がちに口を開いた。
「彼女の命は、きっとそこまで保たなかった」
 ――そうなのかもしれない。そう思えてしまえること自体が、シュマには悲しかった。メルゥの命があのまま生きていたとして、いったいその灯火はどれだけ続いたのだろうか。確かにトエの言う通り、姉巫女になれた可能性の方が低い。
 言葉を失っているシュマに、トエはこくりとうなずく。
「だから表向きはメルゥが姉巫女でも、将来のために実際に姉巫女となる人間を用意しておく。それが 姉様(あねさま) の判断だった」
「それでトエが……」
「そう。私は姉巫女になるために色々なことを教え込まれたけれど、メルゥは多分何も伝えられてはいないわ。彼女に望まれたのは、神に愛された娘≠ニいう姿を民に示し続けること、ただそれだけ」
 シュマは信じられない思いで目の前の少女を見やる。トエが将来の姉巫女。だから全て知っていた――信じられない。儀式の前にシュマを幾度となく諭したトエは、心から神の教えを信じている風だった。
 シュマはそのトエの言葉を受け入れられず、トエもまたシュマの思いを理解してはくれず、わかり合えぬままにシュマは籠を出てきてしまったのだ。トエが真実を知っていたというならば、あの時の彼女の言葉は、いったい何だったというのだ。
 ――そして、まさにそれを口にしようとしたその時だった。シュマを見つめていたトエの目がそっと伏せられる。直後にその下からこぼれ出た声は、微かな震えを含んでいた。
「神話の嘘も、世界の本当の姿も、私は全部知っていた。だから私は」
 トエの細い手がぎゅっと握られる。
「あなたを助けられたのに……!」
 思わずはっとした。
「でも私は何もしなかったんだわ。あなたが儀式に向かうのを見送るだけだったの! 死にに行くのと同じだって、わかっていたのに!」
 肩を振るわせて告げられるトエの言葉は、しかしシュマの胸に一つの違和感を残していく。目の前の少女を眺め、その台詞を反復し、ようやくシュマは違和感の正体に思い当たった。
 何もしなかった? いや違う――だって――、
「違う。お前は俺を助けようとしてくれてたんだ」
 シュマの言葉にトエがびくりと反応する。それで、シュマは自分が間違っていないことを悟った。
「儀式に選ばれた後に俺が迷ってた時、トエは教えに従えって俺に怒った」
 トエはあの時、今までに見たことがないくらいの激しい怒りを見せた。でもきっとあれは、怒りでも憎悪でもない。
「でも、お前は教えは嘘だってことを知ってたんだから、それで怒ったわけじゃないんだ」
 今更のように気付く真実。トエは多分、ただ必死だったのだと。
「もしかして、って思ったの……」
 うつむいたままのトエから、力ない声が聞こえる。
「シュマは教えに反する考えを持ったから殺されようとしてる。じゃあ教えに従順になったら、姉様たちも考え直してくださるんじゃないかって……」 
 あの時だけでない。それまでにもトエは何回か、教えに反することは言わないようにとシュマに忠告していった。それをちゃんと聞き入れていれば、また違う未来があったのだろうか。
「でも、どうにかしなきゃって思えば思うほど空回りして、結局シュマを助けるどころか言い争いになって。どうしてわかってくれないんだって思ったら、かっとなってわけがわからなくなって……。姉様が聞きつけでもしたら今度こそ救いようがなくなるから、無理矢理巫女殿から追い出すしかなくなって!」
「トエ……」
「私に何ができたの? 何もできなかったじゃない! その上、むしろあなたを傷つけて!」
 トエはうつむいたまま震えている。シュマは心臓をわしづかみにされたような痛みを感じた。ああ、まただ、と思う。メルゥとユエンの思いをわかってやれなかったように、シュマはトエのこともわかってはいなかったのだと。
「やめろ……そんな風に、自分を責めんじゃねえ」
 ――そんなシュマにまだ伝えられることはあるだろうか。言い争うのではなくわかり合うことは、できるだろうか。
「トエは何も悪くない。トエは何もできなくて……良かったんだ」
「どういうことよっ」
「だって何かできてたら、もし俺に真実を伝えたりしてたら、その時はトエが無事じゃすまなかった!」
 はっと息をのむ音がして、トエがふいに押し黙った。シュマは必死に言葉を紡ぎ続ける。
「だからこそトエは今無事でいる。俺も、結局こうして生きてる。そして俺たちはまた会えた。色んなことを知って、たくさん変わってしまったけど、少なくとも今の俺はまたお前と会えたことが」
 例え元通りではなくても――、
「嬉しい」
 トエにじっと視線を注いだまま、シュマは静かに言った。それは果たしてトエに届いたのだろうか、彼女は黙ったまま何の返答もよこさない。
 二人の間に重苦しい沈黙が降りる。それに耐えかねてシュマが再び「トエ」と名前を呼ぼうとしたその時、トエは突然口を開いた。
「馬鹿……! 何でそんなにあなたは馬鹿なの!」
 予想外の台詞に一瞬たじろいだが、半拍遅れてシュマは苦笑する。
「……そうかもな」
「かもじゃないわ、馬鹿よ! 大馬鹿! 何でそうも変わらないの!? いつだって馬鹿正直で愚直なぐらいに真っ直ぐで! 本当に馬鹿! でも――」
 直後、ずっと目を見せていなかったトエが、ようやくそっと顔を上げる。黒色の瞳が、綺麗な光をたたえてシュマを見つめていた。
「そんなシュマが無事で、また会えて、良かった――……」 
 その目からすっと水滴が線を引く。きらきらと反射したそれに、シュマは無意識のうちに手を伸ばし、そっと触れていた。
「お前の涙、久しぶりだ。昔はいつも泣いてたのに」
「……うるさいわ! 大きなお世話!」 
 シュマの行動に驚いていたトエだったが、すぐに頬を赤らめて怒り出す。それに「ほら、いつものトエだ」と言うと、ますます角が尖りだしていた。そんな彼女に、思わずシュマは噴き出してしまう。
 こんな状況なのに、何だか笑えて仕方がなかった。こんなに思いっきり笑うのは久しぶりのことで、だから少し頬が痛く、いくらかぎこちない笑みになっていたかもしれない。