七章-下(11)

 ユエンと二人、元の場所に向かって歩き続けた。彼がいることが未だに信じられない思いは残っており、それに聞きたいことは山のようにあるはずだった。けれど言葉は一行に喉から出てきてはくれず、ユエンもまた何も言わないのだった。
 ――そして、その変化が起きたのは、無言のまましばらく歩いた時だった。
「え……?」
 一声つぶやいてシュマは立ち止まる。それに反応してユエンがうろんげな表情で振り返ってきたが、やがて彼も気付いたようではっとした顔に変わる。
 シュマは恐る恐る自分の頬に手をやった。冷たい水の感触が確かに感じられる。でもシュマは今決して泣いてなどいない。だからこれは、
「雨……?」
 空を見上げてどちらともなく放たれた疑問はやがて確信に変わった。ぽつりぽつりと、幾筋もの水の粒がシュマたちを打つ。呆然としている間にも、それは次々に暗い空から舞い落ちて、やがてざあっという音をともない始める。
 みるみるうちに視界は水滴で覆われた。そしてシュマは、雨が降ってきたのだというその事実をようやく実感する。
「やったぞ、これで火が消える! なあ、ユエン!」
 大喜びで問いかけると、ユエンも「ああ!」と濡れ鼠になりながらも満面の笑みを見せる。これで火事はおさまる。籠は助かるのだ。
 喜びのあまりユエンの背中をどんと叩きそうになっていたシュマだったが、ふいにユエンの顔から表情が消えたのに気付き、すんでのところで手は止まる。「どうしたんだ」と当惑気味のシュマの前で、ユエンはふっと空に視線を向けた。
「シュマ、本当なら雨期はもう少し先。それが、こんなに都合良く降ってくるもんかなって」
「けど今こうして……」
「そうだな。だから、そういうことなんだろな」
「は?」
 ちんぷんかんぷんのシュマにユエンは少し笑った。雨という薄布をかぶって、その笑顔はどこか影が落ちて見える。
 「なあシュマ」とユエンが言った。
「俺さ、崖から落ちただろ」
 どきりとする。今まで言うに言えなかった話題。
「あの時、俺死んだと思ったんだ。つーか普通死ぬよな、あの高さだぜ? ……でも、何でか死ななかったんだよなあ。目覚めたら崖下に転がってて、怪我だってアガルにやられた矢傷と、足挫いてただけだった」
「……」
「側にはニィがいて、食べ物とか運んでくれて、動けるようになってからは近くの村まで案内してくれてさ、そこでエサンに出会った。お前とは丁度入れ違いになったみてーだけど」
 ユエンの声を聞きながら、そういうことかとシュマは一人納得していた。一度シュマと出会ったニィが、シュマから離れてどこかへ去っていった理由、それにようやく合点がいったのだ。
 そして先ほどの、エサンからちらりと漏らした「一人じゃない」という意味深な台詞。ユエンはエサンとともに籠にやってきたから、エサンはユエンがいることを知っていた――。
「死ななかった上に、目覚めたらニィが助けてくれた……どう考えたってこんな幸運ありえねーよ。でももっとありねーことに、俺気ぃ失ってる間に聞いた気がするんだ、あいつの――メルゥの声を」
「なっ……」
 二の句が継げずにいるシュマを、ユエンはゆっくりと振り返る。
「お前もなんだろ?」
「……っ」
「お前もメルゥに会った。あいつに……助けられたんだ」
 ユエンの蒼眼には濃い憂いが漂っていた。顔を打つ雨のせいで、まるで泣いているように見える。
 シュマは、「この雨も」とようやく台詞を絞り出す。
「この雨も、メルゥがやったっていうのか」
「……メルゥには、不思議な力があった」
 ユエンの言葉はつぶやくようだった。
「神話は偽りだ。……でもな、メルゥの力は本物だった。だって俺たちは目の前でそれを見てきたじゃねーか。いくら姉巫女だって、ありもしない力を捏造なんて、できない」
 そうだ――どうして今まで気が付かなかったのだろう。神話は偽り。でもメルゥの力は嘘じゃない。この矛盾に。
「どういうことだ」
「……俺が知るかよ」
 ユエンが苦笑する。
「知らねーよ。あいつは何も言わずに逝っちまいやがった」
 吐き捨てるような台詞。シュマはずきりと胸に響くものを覚えながら、知らず知らずのうちに空を見上げていた。
 その時、どうしてその言葉が自分の口から出てきたのか、それがシュマにはどうしてもわからない。ただ何となく、脳裏にメルゥの顔が浮かんできたという、それだけのことだったのに。
「メルゥ――」
 気付けばその問いは、自然とこぼれ落ちていたのだ。
「メルゥ、そこに、いるのか――?」

 ――シュマ。

 まるで返事が返ってきたような錯覚にとらわれる。最初は自分の幻聴だと思った。シュマがメルゥの声を想像するから、勝手に聞こえているような気がするだけだと。
 けれど、

 ――ユエン、シュマ。

「なあ、何か聞こえないか」
 信じられないことに、ユエンまでもがそんな頼りない声を出す。シュマは雨の臭いのする空気をのみ込んだ。

 ――ねえ、ユエン、シュマ。

「メル、ゥ……?」
 それは、シュマが再びその名を口にした時だった。ざっと辺りの風景が陽炎のように揺らめいた。雨でぬかるんだ地面も、水滴の乗った草原も、雨で霞む果ての山の姿も――それらの全てがゆらゆらと揺れていた。
 言葉を失っているシュマの耳に、また声が聞こえたような気がした。しゃらしゃらと鈴が鳴るような、綺麗な懐かしい声が。
 直後、意を決したようにユエンが一歩前へ出る。
「メルゥ、頼む、出てこい!!」
 ユエンの言葉に反応するように、どこかから白い光があふれ出す。そしてシュマの視界は、その光に白く塗りつぶされていった。