七章-下(12)

 気付けばシュマは真っ白な世界に立っていた。いつかの夢で見たのと同じような、どこまでもどこまでも白色で塗りつぶされた空白の空間。
 でも夢で見たのとは決定的な違いがあった。それは、今シュマの隣にはユエンがいるということと、そして――数歩先に立つ少女の顔は、はっきりと見えているということ。
「メルゥ」
 震える声でシュマは少女の名を呼んだ。白い世界に立つ少女は、やはりその身に白い衣をまとって、黒い瞳でシュマたちを見ていた。
「ユエンにシュマ……久しぶり、だね」
 聞こえたのはすっかり耳に馴染んだ、鈴の鳴るような澄んだ声だった。その瞬間、不覚にもシュマの視界は少し霞んだ。
 こみ上げてくるものをこらえ、恐る恐るシュマは口を開く。
「メルゥ……俺たちを助けてくれたのは、本当にお前だったのか」
「うん」
 シュマの問いかけに、メルゥはこくりとうなずく。
「あの雨を降らせたのも……か」
「……うん」
 再び同じ返答。「どうやって……」と口ごもるシュマに、メルゥはふっと笑った。つぼみが花開くような優しい笑みだ。肩までの黒髪をゆらゆらと揺らせて、今確かにメルゥは綺麗に笑っている。
「あのね、ユエンにシュマ。神話に書いてあるのは、全てが嘘なわけじゃないの」
 静寂の世界に、辺りに染みこむようにメルゥの声が響く。
「神様はいない。神様の世界もない。人は死んでも神様にはなれない。――でもね、人の魂はたしかにあるんだよ」
 その声は、切ない感情とともに、シュマの胸にもじんわりと染み渡っていくのだった。
「魂送りの儀で言うように、人は死んだらその体は地へと還っていく。そして器から抜け出た魂は、静かに天へと昇っていくの」
 魂送りの儀の天高く立ち上る炎と煙とが、シュマの脳裏に浮かんでくる。漆黒の空を背景に、それは何かを送り出すかのように高く高く燃えるのだ。
「でも行き着く先は神様の世界じゃない。籠で生きた魂は、死後も籠の地を望みながら、永い永い眠りにつく。新たな器の中に生まれ落ちて、次の生を生きるまで――そうやって魂は巡り続ける」
 炎に見送られ、そしていつかまた産声を上げる。この世界でずっとずっと巡り続ける、輪――そういうことなのだろうか。
「だから人は神様にはなれない。神話にあるような特別な力なんて手にはできない。魂にできるのは、別の魂に働きかけることだけ」
 メルゥは静かに話し続ける。何もない世界で、それだけが唯一の音だった。
「でもこれは特別なことじゃないんだよ。人が人と会話するのと同じことだもん。できることだって、小さなことばかり。病気の人の魂に働きかけて、少しだけ精神力を高めたり、作物の魂に働きかけて実りを良くしたり……それもね、一人じゃ何もできないの。一人の魂が頑張ったって、目に見える変化には全然届かない」
 生きている時と同じなのだ。一人の力なんて、きっと悲しいぐらいに小さい。
「でもね、皆が力を合わせれば、籠の地に眠る魂みんなが働きかければ、少しだけ大きなこともできる。生者たちの願いが加われば、もっと大きなこともできる」
「願い……?」
「人の願いや思いは、魂の一部。だから皆が一緒に願えば、器の中の生きてる魂、亡くなった祖先の魂――それらが合わさって、大きなことだって――雨を降らすようなことだって、できる」
 シュマの問いかけに答えられた言葉に、シュマははっとする。
 シュマとトエの言葉に応えて、民たちは籠を守りたいと願ってくれた――そして、雨は降ってきたのだ。
 静かにその意味を噛みしめるシュマの前で、メルゥは「でも」と少し目を伏せる。
「でもね、ないものを増やすようなことはできない。雨が降ったのは、雨期に籠の上に来るはずの雲の魂に働きかけて、早めにやってきてもらったから。……だから今降らせた代わりに、雨期の雨が減ってしまう」
「……」
「私たちの世界は、そういう世界」
 奇跡を起こせるわけじゃない。無から有は作り出せない。だからできることも限られる――でもそれは、何もできないという意味にはならない。
 シュマが見据える先で、メルゥの瞳が微かに揺れたように見えた。
「でもそんな世界だからって、何もできないからって絶望したりしないで、希望を信じて願い続ければ、それは確かな一つの力となる。一つの願いは小さくても、皆が信じればそれらは合わさって、大きな力になる。生者たちの願いと、死者たちの魂と、合わされば何かを変えられることだってある」
 その声は、祈るような響きを含んでシュマを打つ。
「それでも、どうしようもないことも山のようにある。だから世界には嘆きが絶えなくて、涙はかれない。でもね、だからって願うことを止めてしまったら、希望を捨ててしまったら、本当に何もかも終わりなんだよ……わかるよね、二人になら……」
 最後の台詞は請うように。シュマはぎゅっと右手を握りしめた。
 わかるよ、メルゥ――だってシュマは、目をつむればいつだって民たちが声を上げていく様を思い起こせる。あの花が開いていくような美しさを、シュマはきっとこの先ずっと忘れない。トエの思いもエサンの決意も、「親友」と呼んでくれたユエンの声も、トイルのことも――全部。
「メルゥ、頼みがあるんだ」
 ユエンは何も言わず、目を伏せたまま黙り込んでいる。そんな中で、おもむろにシュマは口を開いた。メルゥのきょとんとした黒目が向けられる。
「この世界を見たい。籠と、その先の世界も。見せてくれないか――お前たちが望んで眠るっていう、その風景を」
 メルゥが一瞬だけはっとした表情を見せる。けれど、すぐにふわりとやわらかに微笑んだ。
「見えるよ。今だって私には見えてる」
「え?」
「今の私は魂だけの存在。シュマたちだって、一時的に魂が私の所に飛んできてるから、私と同じようなもの。だから私と同じものが見えるはず。見ようとしないから見えないだけ」
「……よく、わからない」
 素直にそう白状すると、メルゥはからりと明るい笑い声とともに悪戯っぽく目を細める。
「えっとね、つまり、目を凝らせばほら――すぐそこに」
 メルゥがそっと手を広げる。誘われるように、シュマは周囲の真っ白な空間に目を向けた。
 見ようとしないから見えない。見ようと思えば――きっと見える。
 そう思ってどこまでも続く白色を見つめたその瞬間、シュマは驚いて息をのんだのだった。


 いったいいつからその景色は見えていたのだろう、気付けばシュマの足下に、籠の全景が広がっていた。シュマは空に浮かぶような形で、遙か下方に夜の籠を見下ろしていたのだった。
 言葉すら忘れて、シュマはただただそれを見つめていた。眼下には村々が広がっている降り続ける雨の中、村を覆い尽くさんとしていた炎は少し弱まったかに見えた。中ノ村辺りは全滅で、家の残骸が折り重なっているけれど、辺境の村はまだその姿を保っている。残っているものがあってよかったと、切ない感情がシュマの中に広がっていく。
 村々の周囲には緑の青草が多い茂る草原が広く広く続いていた。月の光を浴びる今は、青白い色をぽうっと浮かび上がらせ、静かで幻想的な風景を作り出している。
 籠の最外層には果ての山の山並みが、雨の中眠るように佇んでいる。そしてそのさらに外には、先も見えないほどの樹海が広がっていた。よく目を凝らせば、今までシュマが見たことのないほど大きく、巨大な大河が樹海の中を通っているのに気付いた。
 あの河はいったいどこに続いているのだろう。ずっとずっと先を辿っていけばいつかは――樹海を抜けた先にあるという、シュマの知らないたくさんの国々に着くのだろうか。そこにもたくさんの人が暮らしているんだろうか。
 ――ふと気付けばシュマの頬に、一筋の雫が伝っていた。どうしてこんなにも泣けるのかも、どうしてこんなに胸が苦しいのかも、シュマには言葉にすることはできなかった。
 ただ、美しいと思った。世界はこんなにも美しくて、こんなにも遠くまで広がっていた。
 これがシュマの生きてきた愛しい世界。そしてこれから生きていく、広い広い世界だった。