七章-下(13)

「私は、この籠が好きだよ」
 唐突にメルゥの声が響く。再び真っ白に戻った風景の中、先に立つ少女は静かに言葉を口にする。
「愛してた。そして今も愛してる。籠を、籠の風景を、そこに暮らすみんなを、みんなの思いを」
 ずっと前に聞いた言葉を、いつかの巻き戻しのように、メルゥは言った。
「私はこの籠に居続けたかった。私の愛した籠に、私の愛した形のままに――だから、全部変わらないでいてほしかった。みんな変わらないでいてほしかった、誰にもいなくなってなんか、ほしくなかった」
 ああそうか、とシュマは思う。
「だから守りたかった。二人の――ユエンとシュマの、命と心を」
 最後に一つ残った謎は、ようやく本人の手でほどかれようとしているのだと、先を聞かずともシュマにはわかってしまった。
 メルゥはどうして逝ってしまったのか。神になることなく、籠に居続けたい。愛する人たちの側に居続けたい――当初シュマが考えたメルゥの死の理由は、多分少しだけ正解で、少しだけ、間違っていた。
「私ね、全部知ってたんだよ。籠の真実を」
 かける言葉を思いつかないシュマに、相変わらず黙りこくったままのユエン。二人の前で、メルゥは静かに話し続ける。
「父様も 姉様(あねさま) も誰も、私には教えてくれなかった。でも私は知ってしまったの、だって私には……力があったから」
 メルゥが少し顔を伏せる。
「私の魂は、私の体との繋がりが希薄だったの。だから私は生者よりも魂に近い存在で、だから、死者の魂たちの声が聞けた」
 メルゥの力は、神の声が聞けることなどではなかったのだ。でも、向こう側に近い存在だという、それは間違ってはいなかった。
「天気や嵐が前もってわかるのは、魂たちが教えてくれたから。森で倒れてる人がわかったのも、知らせてくれたから。それと同じように、魂からの声で私は知ってしまった……神話が嘘だってこと、ユエンが次期長だってこと、シュマが殺されそうだってこと!」
 今までずっと無反応でうつむいていたユエンが、びくりと身動きしたのがわかった。自分のくだりのところで、シュマの胸はずきりと痛む。シュマは既に、何となく全てを察してしまっていた。
 ずっと穏やかだったメルゥの顔が、悲しそうに歪む。
「長になったら、きっとユエンの心は壊れてしまう」
 それでもユエンは何も言わない。
「ユエンは優しいから、嘘をつき続けることに耐えられない。自分の本心を閉じ込めて、殺してしまう。私、そんなのは嫌だった……っ」
 幼い頃のユエンは、暗い顔なんてしたことはなかった。いつだってあっけらかんと笑っていた。
 シュマは果ての山で初めて、あんなに歪んだユエンの目を見た。――多分それは、籠の真実を知らずにいれば、見せることはなかった表情なんだろう。
「ちょっぴり自分勝手で自由なユエンで、いつまでもいてほしかった。私はそんなユエンが好きだった。ユエンに、籠の偽りに捕らわれて生きてなんか、ほしくなかった。……そして、それをどうにかしなきゃって思ってるところに、私は父様がシュマの命を奪おうとしてることを知ってしまったの」
 ――できればこの先は聞きたくないと、とっさにシュマは思う。でもシュマはうつむくことはせずに、すっと顔を上げてメルゥを直視する。
「ごめんなさい、シュマのは私のせいだ」
 その先で、メルゥの瞳は憂いをこめて揺れていた。
「私とあんな会話をしたから、シュマは狙われてしまった。私が、あそこで止めてればこんなことにはならなかったのに……私の……」
「――違う、メルゥ、それはっ」
 思わず差し挟んだ言葉に、メルゥは何度も首を横に振る。
「違わないよ、私のせいだ。だから、助けなきゃって思ったの。シュマが死んじゃうなんて絶対に嫌だった。絶対に絶対に、駄目だって思った」
 メルゥの顔には色濃い後悔が浮かんで離れない。
 それを見てシュマは気付く。真実を知って、これから起ころうとしていることを知って、メルゥはどれだけ悩んで苦しんだのだろうと。
「シュマがいなくなるのも、ユエンが変わってしまうのも悲しかった。二人が二人のままで元気に揃ってなきゃ駄目なの。だって、私が愛した世界は、そういう籠。私が居続けたいと願ったのも、そういう籠だもん……!」
 知らなかった。メルゥがそこまで二人のことを思ってくれていたこと。
 ユエンに対しては言うまでもなかったことだけれど――シュマに対しても、そんな風に思ってくれていたなんて――。
「父様とツァリを摘みに行った時、側に生えてたファシャを見て私はその方法を思いついた。こっそりファシャも摘んできたけど、でもそれは最後の手段にするつもりだった。だって誰か一人を犠牲にしてしまうから。……でも私はその夜、シュマのことを知ったの。そして、その方法を実行した……」
「……」
「私が思いついたのは、無理矢理儀式を引き起こして、シュマに果ての山の頂上に行ってもらうことだった。そうすればユエンなら、何とかしてシュマを助けて、籠の外に逃げてくれると信じたの。……そうすれば、私は二人とも助けられるって」
「だから、お前は……」
 シュマのつぶやきに、メルゥはうなずく。
「うん……私が死んで、それを隠せないような状況を作り出す。それが私の思いついた方法。だから私は、予め友達をたくさん呼んでおいて、それでファシャを――」
 全てはメルゥが仕組んだことだった。二人のために、メルゥは自らの命を散らしたのだ。
 だから――だから、やっぱり引き金を引いたのはシュマだったんだろう。その事実も、シュマがメルゥを止められなかったという事実も結局変わらない。――だからシュマは、この咎をこれから一生背負っていく。
「二人を悲しませることはわかってた。でも、それでも私は二人を救いたかった。どうしても、どうしても……っ」
 唇を噛んだシュマに対し、メルゥはふいに両手で顔を覆う。声は泣き出す寸前だった。
「でも私は、結局二人をたくさん傷つけてしまったっ。ユエンにシュマを憎ませてしまった。その上二人とも危うく死んでしまうところだった……本当に、ごめんなさい……っ」
「……謝らないでくれ、メルゥ」
 どうしてメルゥが謝らなければならないのだろう。それはむしろシュマがしなければならないことだ。何も知らなかった身勝手な自分を、もういくら詫びても取り下げることはできない。
 だから今は謝るよりもっと、言わなければならないことがある。
「メルゥが間違ったことをしたのか正しいことをしたのか、そんなの俺には答えられない。だから謝らないでくれ。俺にはわかんねえよ、何が一番正解だったかなんて……でも」
 メルゥがそっと顔を上げた。
「俺が今生きてここにいること、それには俺は、心から感謝してる。俺はまだ、生きていて良かったって思えてる。感じられてる。だから俺は絶望なんかせずに、これからだって、生きていく」
 シュマにできるのは一つだけ。そんなこと初めからわかりきっていたのに、それがわかるまでに随分と遠回りをしてしまった――。
「俺は……っ!」
 隣からふいに押し殺した声が聞こえる。ずっと沈黙を続けていたユエンがようやく発した一言は、まるで叫ぶようで、苦しくなるほどの悲しみを内包していた。
「俺は、何を犠牲にしてでもお前といたかった……! 神話の操り人形でも何でも、構やしなかった! お前さえいれば! お前が側にいてくれさえいれば……!」
 自分のためにメルゥは逝った――ユエンもまた、罪を背負ってしまった一人。
「お前を失ってまで欲しいものなんて、何一つなかった! それなのに、これから生きていけっていうのか、お前がいないこの世界で……っ」
 後悔と孤独と喪失感と、込められた感情は数え切れない。
 叩き付けられたユエンの思いに、答えたメルゥの声は震えていた。
「でもユエンは、ちゃんと生きたいって思ってるんだよ」
「何でそんなことが!」
「だって、そうじゃなきゃ私はユエンを助けられてないんだ……!」
 半ば叫ぶようにメルゥが言う。うつむいたままユエンがはっと息を呑む音が、シュマにまで聞こえてくる。
「崖から落ちたユエンを助けられたのは、ユエン自身が死にたくないって思ったから! ユエンがもう生きたくないって思ってたなら、私には何もできなかったはずなの……!」
 死者と生者は願いを通して繋がり力を生み出せる。なら、願いがなければ死者に生者は助けられない、そういう意味にもなる。
「現に私は、父様を助けられなかった」
 それではやはりアガルは死んでしまったのかと、シュマは複雑な思いで下をうつむく。メルゥは今どんな思いでこの台詞を言っているのだろう。
「父様には、もう生きる気力はなかった。神話の奴隷となって自分の心を殺してしまった父様を、私は助けられなかった……でもユエン、あなたはまだ生きたいって思ってる! だから、お願い――」
 祈るような、掠れたメルゥの声。
「生きて、ユエン」
 その言葉とともに、糸が切れたようにユエンはその場に崩れ落ちた。どこが床かも地面かもわからない空間の中、シュマにはぶつかった音さえ聞こえなかった。静寂の中でユエンは座り込んだまま、そして音もなく――泣いていた。
「ねえ二人とも、わがままだけど、もう一つだけ、お願いさせて」
 再び静まり返った場に、メルゥの声だけが響く。シュマはゆっくりと顔を上げてメルゥを見た。少女は澄んだ瞳で、シュマたちを見つめていた。
「どうかこれからも、二人は二人自身で在り続けて。自分自身のままで、希望を信じることを忘れないで。人の思いを、強さを、それでつかみとる未来を、どうか信じていて」
 もう生きることすら叶わない少女の願いは、凛として白の世界に落ちる。
「その思いがあれば、私たちは思いを通して繋がっていられる。生者も死者も越えて、世界のどこにいても、繋がってる。
 ――そうすれば、希望はきっと新たな希望を生み出せる。ついえたように見えた未来から、新たな未来が生まれることだってある。人は未来を変えていける。籠の皆が新たな世界を生きていこうとしているように、一度は絶望に沈んだ人たちが再び立ち上がろうとしているように――」
 その願いもメルゥの姿も、泣きたくなるほど美しかった。こみあげてくるものを抑えて、シュマは首を上下させる。ユエンは動かなかった。
 それでもメルゥは、少しだけ悲しみの混ざった目で、綺麗に綺麗に微笑んだのだった。そしてその笑みがまだ残るうちに――メルゥの姿がふっと霞がかったように薄くなる。
「メルゥ!」
「ごめんねシュマ、もう限界みたい」
 思わず踏み出したシュマに、メルゥは静かに別れを告げた。
「大丈夫。見えなくても、私たちは繋がっている。二人のこと、ずっと見守ってるよ」
 「嫌だ」と叫んだ声は、掠れすぎて果たして彼女に届いていただろうか。
「それにね、きっとまたいつか会える。それまで、少しだけ長くお別れするだけ――だから、またね、ユエン、シュマ」
 どこかから白い光があふれ出す。メルゥの姿はその中に吸い込まれていって、笑ったまま笑顔でメルゥは消えていく。
 前に踏み出し駆け寄りかけたところで、シュマははっとして後ろを振り返った。そこには今だ座り込んだままのユエンの姿がある――ぎゅっと拳を握りしめて、シュマはその青髪に向かって怒鳴った。
「いつまでぐずぐずしてんだお前は! さっさと立て!」
 それでも立ち上がろうとしないユエンに、シュマは大股でその横まで行き、そして彼の腕を引っつかんで無理矢理立ち上がらせる。怯んだようなユエンの目と視線が合った。
「何やってんだお前は大馬鹿か! さっさと行け!」
「けど、シュマ――」
「四の五の言ってんな……行けっ!!」
 強制的に前に押しだし、その背中をどんと叩く。一度だけ振り返ったが、シュマの怒鳴り声に追われるようにユエンは走り出した。
 ユエンの歩調は次第に速まっていく。辺りに満ちる光にシュマが目を細める中、ユエンとメルゥの距離が縮まっていく。そして全てが白へと変わる寸前、確かにユエンがメルゥを両腕で抱きしめたのがわかった。