七章-下(6)

 巫女殿の厳めしい造りの前には、大勢の人々――少なくとも百はいるだろうか――が集まってきていた。だがそれだけの人数がいるにも関わらず、その場は気味が悪いぐらいに沈黙していた。一所に固まり立ち尽くす民たちは、それぞれが息を潜めて身を寄せ合い、怯えたように前方を見つめている。
 その視線の先には、群衆から離れて一人立つ長髪の若者の姿。そしてその青年が、息を切らして走ってきたシュマとトエの方を、今ゆっくりと振り返る。
「ようシュマ、また会ったなァ」
 口元は、三日月の形に笑っていた。
「トイル……?」
 シュマは急がせていた足を止め、その長身痩躯と背後に控えるリシェンの姿を困惑して眺めやる。嫌な予感がじわりじわりと思考回路を浸食していくのを感じていた。
 どうしようもない違和感。そして頭の中でうるさいくらいに鳴り響く警鐘。
 瞬きしたところで光景は変わらない。目前に見えるのは民たちに向かい合ったトイルと、さらに背後に立っている大勢の仲間たち。そしてそれら全員の手に握られた――抜き身の刀。
「何、やってんだ。刀なんて出して……」
「わりぃなシュマ。お前のこと、だましてたわ」
 世間話でもするような軽さで、トイルはぽんと言い放つ。そのあまりの自然さにシュマはとっさに二の句が継げなかった。思わずリシェンへと視線を向けると、彼は「シュマ、すまない」と無表情に顔を伏せる。
 余計にうろたえるシュマの様子を見て、トイルは狐のような目で再び笑った。
「いや、ちょい違うな。だましてはねェ。言ってなかったことが山のようにあるだけ、か」
 どこか不敵なその笑みを収めることなく、トイルは民たちの方へくるりと向き直る。
 瞬間、左手に持った刀が天高く振り上げられる。月明かりにきらりと反射した銀のきらめきに、民たちの数人がびくりと身を縮めるのが見えた。
「籠の民の皆サンよ、よぉく聞いとけや。この籠の地とてめぇらのことはな――」
 トイルの声が響き渡り、振りかざした冷たい銀光りはシュマをも射すくめる。そして、
「――たった今から、俺たち翼無き鳥の民≠フ 支配下(・・・) におかせてもらうぜ」
 聞き慣れない単語がざらついた感触をともなって聴覚を打った。
 その場にいたおよそ誰もが反応しなかった。民たちも、後ろにいるトエも、シュマでさえも、何も言葉にできずトイルを見つめるだけだった。
 話が突飛すぎて頭が追いつかない。支配? トイルは何を言っている――、
「し、はい……?」
 ようやくシュマ一人が、つぶやくように繰り返した。
「そーそ支配、言い換えれば占領? これからは俺たちが命令して、てめぇらがそれに従う。そういうハナシだな」
 遅れて民たちのざわめきがやってくる。混乱、困惑、怯え、恐怖――彼らの顔に入り乱れるそれらの感情を見やって、トイルは「おおっと」と軽いつぶやきを漏らした。
「あー、シュマはともかく、他のは何も知らねェんだった。まず俺たちが何なのか話さねぇとわけわかんないってか?」
 ぽんと両手を打ち鳴らしたその動作は、自然であるがためにこの場ではあまりに不自然で、痛烈な違和感をともなってシュマたちのいる空間をかき乱す。
「そうだなァ、この中で俺たちの顔を見たことがあるやつはいるか? いるなら手ぇ挙げてくれや。……っつって挙がったら俺がびっくりだけどよ。あ、シュマお前は対象外な」
 かき回されてぐちゃぐちゃになった空気は重く淀んで、耳の奥で不快な耳鳴りへと変わる。その、吐き気を覚える気分の悪さ。
「俺たちに会ったことあるやつなんざいねェよなあ? そりゃあそうだ、俺たちは今日初めてこの籠に来たんだからよ。で、問題はそれがどこからかだ。いいか良く聞け、俺たちはなァ――この籠の外≠ゥら来た民なんだよ!」
 そうしてトイルはごく普通に当たり前のように辺りの空間をかき乱し、誰も気付かないうちに、致命的な亀裂を入れていく。
 ……違う、今回の暴動で亀裂なんてとうに入っている。トイルはそれを――壊してしまおうとしているのだ。
「といっても俺たちは神でもなんでもねぇんだな、コレが。外から来たなら神様だぁなんつー安易な考えに走ってもらっちゃ困るぜ。だってよ、籠の外に神の世界なんざねェんだからよ!」
 ――何かが砕け散る音が聞こえたような気さえした。あっという間に民たちの間に恐怖の感情が走る。ただでさえ戸惑っていた民たちの混乱は、みるみるうちに膨れあがっていく。しゃがみ込む者、両手で顔を覆う者、そしてどこからから聞こえる子どもの泣き声。
 その瞬間、シュマは片足で地面を蹴っていた。
「トイルやめろ! それを言うのはまだ早っ――」
 走り寄っていくシュマだったが、トイルの所にたどり着くより先に彼の仲間が二人シュマとトイルとの間に立ちふさがった。そしてあっという間にシュマの両脇を抱えて無理矢理トイルから遠ざける。
「邪魔するな、放せ!」
 叫んで振り払おうとしたが、自分より大きな男二人を相手になす術もない。
 もがくシュマの後ろで小さな悲鳴が聞こえた。トエがシュマの名を呼び駆け寄ってくる足音がしたが、シュマはとっさに「来るな!」と押しとどめる。
 そんなシュマの様子に、トイルの瞳は一瞥もくれない。
「今回の火事で勘づいてるヤツもいるじゃねぇの? 長と次期長の不在の理由を、何で姉巫女も誰も説明してくれない? それはなぁ、その裏に山のような偽りと暗躍が隠されてるからだ。そしてもう一つ、こうして籠が炎に呑み込まれようとしてるのに、どうして神々はてめぇらの嘆きを聞いてくれない? ――答えは簡単、神なんてどこにもいねェからだ!」
 動けないシュマの目の前で、嘲笑さえ浮かべたトイルによって次々に籠の嘘は引き剥がされていく。否定する術を持たない民たちの表情を、怯えと絶望が浸食していく。
 材料は揃ってしまった。帰ってこない長たち、黙したままの巫女たちと神々、そして見知らぬ来訪者――こうなってしまったら籠の崩壊は誰にも止められない。後は引き金を引くだけ。
「わかったかよ? 神話なんざ嘘っぱちなのさ。神も神界もどこにもねェ。死んだって人の魂はどこにも行けやしねェ。救いなんざ存在しない。ッつーことはだなァ――教えと救いのために生きてきたてめぇらの意味なんか、もうどこにも残ってないんだよ!」
 そうしてトイルは高らかに、心底楽しそうに、最後の一手を放っていく。
 百にも及ぶ民たちは皆言葉もない様子で立ち尽くしていた。彼らの目の前で神話はあっけなく崩れ落ちていく。神なんてどこにもいない、希望だってどこにもない――、
「――おいおい、そんな絶望的な顔してんじゃねェぞ。誰がこれで何もかも終わりだなんて言ったよ?」
 瞬間、トイルの猫なで声がシュマのうなじをなでた。今までの高圧的な調子とは打って変わった穏やかな声。泣いている子どもをなだめるようなそんな響きさえこめて。そして仰ぎ見たその横顔は、信じられないぐらい優しい目をして微笑んでいた。
 その顔を見てシュマはぞくりと鳥肌が立つのを覚える。このトイルの顔は、翼無き鳥の村でいつもシュマに向けられていたものだ。弟を見るような親身で誠実な眼差し――シュマは、それを信じていたのに。
「確かにな、神≠チて希望はもうなくなっちまった。でも心配するこたねェんだ。神の救いの代わりに、今度は俺たちが新たな救いを与えてやるんだからな」
 あまりに優しいトイルのささやきに、絶望にうちひしがれていた民たちが恐る恐る顔を上げ始める。それを見てトイルはますます笑みを深めた。
「てめぇらが信じていた神話は消えた。てめぇらの生きる意味も消えた。じゃあこれからはどうやって生きりゃいいか? ――簡単だ、 俺たちの言う通りにして生きればいい(・・・・・・・・・・・・・・・) んだ」
 場は完全に沈黙している。さっきまで鳴り響いていた子どもの泣き声もぱたりと止んだ。その中を、トイルの声だけが通り抜けていく。
「俺たちの言うことを聞いて、俺たちの言う通りのことをして生きていけばいい。簡単だろ? 何も難しく考える必要なんてない。何も考えずに、俺たちの言うことを受け入れればいいのさ」
 通り過ぎたはずなのに、その残り香は辺りに充満して甘く耳元でささやき続けている。
「つまりだ、これからは神話の代わりに俺たちがてめぇらを支配するわけだ。そんで、それがてめぇらの新たな意味になるってなァ」
 甘い言葉と香りは、その中に毒を含んでいたとしても空っぽの心には奥の奥まで染み渡っていく――かつてのシュマがそうだったように、今は民たちの心へと。
「神話に従う代わりに俺たちに従うのさ。これまでと何も変わりゃしねェだろ? だから心配すんな、ちゃぁんと俺たちがこの籠を救ってやっから」
 そうしてトイルは満面の笑みで言い放つ。
 民たちの視線は一心に彼へと向けられていた。その顔からは――麻痺したように、表情が消えていた。
「……どうしてこんなことを……何で、支配なんて……」
 自由にならない体を震わせて、シュマは弱々しく問いかける。ひょっとしたら聞こえなかったかもしれない。そう思うほどに小さなその声に、トイルは一言も答えようとはしなかったし、シュマの方を振り向きさえしなかった。
 だがシュマが唇を噛んだその時、シュマと同じくらい微かな声が耳に届く。
「……大国に対抗するためだ」
 はっとしてそろそろと顔を上げる。トイルの影のようにたたずむ、リシェンの色素の薄い瞳と視線がぶつかった。
「お前にはもう言った。砂鉄を目当てに大国がこの辺りを狙ってる。俺たちの村は、あっという間に呑み込まれる」
 リシェンの薄い目には、遠くで燃え続ける炎の赤色が映り込み、瞳の奥で揺らめいていた。その顔から彼の思いは――上手く読み取れない。
「力が必要だ。大国に抵抗できるだけの力が。そのためにまず、籠の民を俺たちの内に取り込まなきゃいけない。トイルはそう考えた。籠の民は大国と戦うための……」
「余計なこと言ってんじゃねェよ」
 いきなりトイルがリシェンの台詞を遮り、がばっと彼の方を振り向く。振り返りざまトイルはリシェンを突き飛ばし、リシェンはよろけた先で口をつぐんだ。
 そして、トイルはつまらなさそうにシュマに視線をよこしてみせる。
「こいつ、来る時もお前にべらべらしゃべってたな。ったく、めんどくせェやつ」
 軽い舌打ちが聞こえてくる。
「いいさ、教えてやらァ。お前ら籠の民にはな、大国と戦うための道具になってもらうんだよ。俺たちの手となり足となる存在に、な。おまけにこの籠は天然の要塞だ。しっかり役にたってもらうぜ」
「そんな……」
「ついでに言うと、お前に近づいて声をかけたのはなぁ、籠の中に入る口実を作りたかったからさ。要は大義名分がほしかったのさ、じゃねぇと村の奴らがうるせェからな!」
 下からトイルをにらみつけるシュマを、トイルは鼻で笑った。
「何だその顔は。不満か? 心外じゃねぇか、むしろお前は俺らに感謝するべきだぜ? こうして、抜け殻の籠に新たな意味を与えてやってるんだからなァ!」
「……そんなものが意味なもんか!」
「意味には違いないだろうさァ、どんな形でもだ。それとも何だ、てめぇなら何か他のものを籠に与えられるってのかよ」
「……っ」
 容赦ない台詞に言葉が切れる。「俺は」とまごついたきり何も出てこない。そうやってとっさに何も言えない自分がもどかしくて仕方なかった。
 そして、黙ってしまったシュマに対し、トイルは興味を失ったように視線を外すのだった。
「さて、と。とりまこれからどうすっかなあ。とりあえず火消すか、要塞にあんま傷つけたくねぇしなぁ――ん?」
 一人でぶつぶつつぶやき始めていたトイルの声は、しかし唐突にぱたりと止まった。トイルは顔をしかめて視線を上げ、シュマもまたはっとして首の向きを変える。
 民たちの集団から離れ、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる白い影が見えた。まとったその裾の長い衣装も白ければ、肩を越えてゆったりと流れる髪も綺麗な白色。その姿は夜闇の中にくっきりと浮かび上がって視界に入る。
 トエがシュマの後ろで小さくつぶやくのが聞こえた。「姉様」と――。
「……これ以上の勝手はなりませぬ」
 そして老齢の低い声が辺りに反響する。
「これ以上籠の秩序を乱すことは、 (わたくし) が許しませぬ」
 籠の姉巫女たる老女が、底冷えのする瞳でトイルを見つめていた。