七章-下(7)

「秩序ぉ?」
 彼女の台詞に、おかしくて仕方がない、といった様子でトイルが片眉を持ち上げる。それでも姉巫女は表情一つ変えず、くっきりとした白の色をトイルと民たちの間に落とすのだった。
「何をそのように面白がられるのか」
「何でもなにもねぇよ。はっ、笑わせるぜ、こんな状況になっといても秩序か! もう全部壊れかけてんじゃねェかよっ!」
 トイルが明らかな嘲笑を投げかけても、彼女は毅然とした態度を崩さなかった。その異様なぐらいに凪いだ様子は、冷静すら通り越しどこか機械的なものを感じさせる。
「いかなる状況でも、籠の秩序は守られるべきもの。信じるべき教えも変わらない。それは――絶対です」
 無機質な光をたたえた薄灰色の瞳を、トイルはしばらくじっと見つめていた。だが奇妙なぐらい突然、その顔に浮かべていた嘲りの笑みをふっと消したのだった。
「婆さん、確かにあんたにとっちゃあそうだろうさ。あんたは今までずっとそうやって、神話の守り手として生きてきたんだろうからなァ。……そして、そのあんたがいる限り、民たちが神話を捨てきれないのもまた事実、か」
 笑みの代わりに向けられたのは、まるで品定めするような冷淡な目。
 思わず身を強ばらせたシュマの前で、トイルは姉巫女の立つ方へまっすぐに歩き始める。その様子は、どこかシュマに薄ら寒いものを感じさせた。歪だと思ったのだ。見ている者に警戒心をなくさせるほどの力を抜いた歩きだというのに、その実足音すら聞こえてこない。
「婆さん、あんたは常に民の心をつかみ、言葉巧みに籠を操ってきたんだろ? 人の心を読むのには長けてるはずだ。なら――今俺が考えてることもわかるよなぁっ!」
「な……トイルっ!」
「姉様っ!」
 さっと動いたトイルの左手。民たちからは悲鳴。シュマが反射的に叫ぶのと、後ろでトエが声を上げるのとはほぼ同時だった。
 しかしそれでも――喉元に刀を突きつけられてもなお、姉巫女は身動き一つしなかったのだ。
「へぇ、随分と冷静なことで」
 柄を握ったトイルは皮肉げに頬を歪める。
「だがどのみちアンタにはここで消えてもらうぜ。アンタにいられちゃ、俺たちの計画が進みそうにないんでね」
「トイル、止めろ!」
 シュマは取り押さえられた体で必死にもがいて叫んだが、トイルに声が届いた様子はない。姉巫女だけを真っ直ぐに見据えるその瞳は、あまりに冷たい光を宿している。
「そーそ、アンタだけじゃ駄目だ。アンタともう一人、時期姉巫女がいんだろ? そいつにも念のため退場願おうか。答えろや、次の姉巫女は誰だ?」
 ――その言葉に、シュマの心臓はどくんと跳ね上がった。背後でトエが息をのむ音も聞こえてくる。一瞬「逃げろ」と叫ぼうかとさえ本気で思った。
 けれどトイルたちがトエの存在に気付いた様子はなく――姉巫女も、口をつぐんだきり一切答えようとはしない。
「……言う気はない、か」
 気に入らなさそうな顔でトイルがぼやく。そして次の瞬間、
「まあいいさ、他にも知る方法ぐらいある。――じゃ、アンタはとりあえずこの世に別れを言っときなァ!」
 辺りに木霊した嘲笑。同時にトイルが刀を振り上げる。切っ先がきらりと光り、己の姿を闇の中に浮かび上がらせた。間髪空けずに届いたのは虚空を切り裂く鋭い音。そして冷たい刀身が、動けないシュマの前で姉巫女に向かって振り下ろされる――、

(――何、やってるんだ?)

 数歩先で繰り広げられる一秒一秒を呆然と見送りながら、唐突にシュマの内に声が響く。

(何やってる。また俺は――何も、できないのか?)

 冷たくなって横たわるメルゥ。落ちていったユエンとアガル。背を向けて去るエサン。今目の前で無慈悲に刀を振り下ろそうとしているトイル。それら全ての映像が一瞬でシュマの中を駆け抜けていく。何もできなかったシュマ。何も変えられなかった自分。今も――今も、同じだと?

(違う)

 シュマの中で膨大な熱が膨れあがるのが一瞬なら、それが弾け飛ぶのも一瞬だった。がむしゃらにもがいて隣の二人を振り切るのもあっという間で、立ち上がったことと走り出したことはもはやほとんど覚えていない。
 その間およそ何も考えてはいなかった。ただ夢中で必死な思いの中、振り返ったトイルの目を見開いた様子だけが妙に印象に残っている。
 そして、

 キィンっ!!

「はぁっ……させる、ものか……っ!」
 草原に金属音が響き渡った。トイルの刀を受け止めたシュマの短刀からは、瞬く間にしびれが伝わってくる。それでも刀を離すことなく、シュマはトイルの長身を見上げ冷たい両目をにらみ付ける。
「どけ、シュマ」
 対する声は、身がすくむほどの冷酷さをはらんでいた。
「……嫌だ」
 その迫力と刀に込められた力とに押し負けそうになりながら、滑る足下に力を込めて必死にその場に留まり続ける。そんなシュマにトイルはいらいらした調子で繰り返す。
「下がれ、シュマ」
「嫌だ、絶対にどかない! もう誰も傷つけさせはしない! 姉様も、民たちも、誰もだ! 籠だって支配なんかさせねえっ!」
 仰ぎ見た細い目は氷のように冷たく、見透かすにはあまりに深い。そしてその口から降る声は、奇妙なほどに静かだった。
「……その婆さんは、お前に起きたことの全ての元凶だぜ。それなのに庇うってのかよ?」
「わかってる。でも俺は、籠の全てを守りたい。姉様も含めて、皆を! もう誰にも……死んでほしくなんかない!」
 そう言った途端、トイルの口元が意地悪く歪む。
「守る? はっ、婆さん共々笑わせてくれんな。お前なんかに何ができる? これまでだって、お前は誰一人救えなかったじゃねェか!」
 容赦ない言葉がシュマの内を抉っていく。けれどもうシュマは、うつむきもまごつきもしなかった。――そんなものは、今までに飽きるぐらいやってきた。
「できなかったからって、これからもできないって座り込んでるのはもう嫌だ! 守りたいものが残ってる限り、俺は何度だって立ち上がる! 何度打ち砕かれたって俺は諦めたりしない! 何度だって立ちふさがってやる!!」
「……シュマ」
 ふいにため息が聞こえる。そして名を呼んできたトイルの声色は、ぎょっとするほどに激変していた。冷酷さはすっかりなりを潜め、優しげにシュマの鼓膜をくすぐっていく。
「……シュマ、聞き分けのねぇこと言ってねえで、もうちっと賢くなれや。この籠はもうただの抜け殻だ。お前がそんな必死こいて守るほどの物なんざ、残ってねェんだぜ?」
 しかし、その甘い誘いさえもシュマは猛然とはねのける。
「ふざけんな! 馬鹿はどっちだよ、ここは抜け殻なんかじゃねえ! 俺はこの籠が好きだ! 俺の故郷が、籠のみんなが大好きだ!!」
 「大好きなんだ」と、掠れた声で繰り返した。胸いっぱいに切ない感情が広がっていって、たまらずシュマはぎゅっと両手を握りしめる。
 ――この籠が好き。十六年間この地で生きてきて、どうして自分は一度としてその思いに気づけなかったのだろう。それは、こうして籠に戻ってきて、一度は手の中から崩れ落ちていった籠の地を瞳に映して、それでようやく知ることになった思い――シュマはここが好きだった。籠のことが、籠の皆のことが、気付いていなかっただけで多分ずっとずっと昔から、大好きだったのだ。
(メルゥ、お前の思いも俺と同じだったのか)
 籠が好きだと言い残して逝ってしまった少女。やっと本当の意味で理解してやれたのかもしれないその姿が、一瞬脳裏に浮かんでは消えていく。
 そしてシュマは、ひるむことなくトイルを見上げた。 
「支配なんてさせるもんか! そんなの俺が許さない!!」
 もうここにはいないメルゥの分まで、今はシュマが――、
「……そう思っているのは、お前だけじゃねぇのか」
 ふいに紛れ込んできたのはトイルの言葉。必死なシュマに対し、それはどこか余裕の色を帯びていた。
「ここのやつらは皆、偽りの希望のために生きていただけだ。神を失って、そんな希望さえも消えた。そんなやつらに、俺たちは支配という道しるべを、希望を与えてやろうとしてんだぜ?」
「そんなものが希望なものか!」
「希望だろうさ。生きる糧になんだから立派に希望だ。そうやってがむしゃらに動くことしかできないお前より、俺たちの方がよっぽど民のためになると思わないか、なァ? 果たして民はどっちを望むだろうなぁ!」
 問いかけざま、トイルは組み合った刀をぐっと強い力で押してくる。シュマは弾かれて数歩後ろに下がり、体勢を整えて再びトイルに向かい会う。
 支配なんて望むわけない――そう言おうとしたはずだった。でも、どうしてかその一言はすっと出てこない。籠の民が口を揃えて言う言葉はいつも同じだ。死後に神になることこそ真の幸せ=B
 シュマの思いを見透かしたかのように、トイルはせせら笑う。
「シュマ、頭冷やして考えてみろや。お前のやってることなんざなァ、結局はただの――」
 シュマは動けない。
「ただの、自己満足なんだよ」
 違う、と言おうとした。言いたかった。でもひりついた喉の奥から漏れたのは情けないほどに掠れた息の音だけだった。あえぐ度に目眩がして、目の前の景色が歪んでいく。その乱れた風景の中、トイル一人が嘲笑の色を深めてシュマを見ている。
 違う。違うはずだ。でも――、

「そんなこと、ないわ!」

 ――その時突然響き渡った否定の言葉は、シュマが放ったものではなかった。鮮烈に唐突にシュマの意識を現実へ引き戻したのは、高らかな少女の声。
「そんなことない。自己満足なんてこと、ないわ!」
 恐らくその場の全員が振り返った。トイルもリシェンも民たちも、そしてシュマも。
 そうやって皆の視線が向かった先には、一人の巫女姿の少女が頬を真っ赤にして立っているのだった。
「トエ」
 呆然としてシュマはその名を呼んだ。一気に注目を浴びたトエは、一瞬たじろいだ様子を見せたが、やがて意を決したように大股でシュマの隣まで歩いてくる。呆気にとられているシュマの横で、トイルの方へとくるりと向き直った。
「ふざけたことばかり、わかった風な振りでしゃべり続けてんじゃないわよ。勝手にも程があるわ!」
 呆気にとられていたのはシュマだけではなかったらしい。トイルの返事は数拍遅れていた。
「……誰だ、あんた?」
 うろんげに眉をひそめたトイルを、トエはますますにらみつける。
「何よ、あなたがお探しだったから出てきたんでしょう? 面倒だからこっちから教えてあげるわ。次期姉巫女は、私よ!」
「――トエ!」
 瞬間、一気に鋭さを増したトイルの眼光。驚いたシュマは慌てて叫んでいた。でもトエは全く退く様子を見せていない。
「でも私は、あなたの言う神話の守り手になんかならない。でも、だからといって……あなたたちの支配にも従ったりしないわ!」
 トエの宣言に、トイルはその意図を見定めるかのような冷淡な視線を向けてくる。シュマは「トエ……」とまた声をかけたが今度は尻すぼみになってしまった。
 そのシュマに、視線はトイルに固定したままのトエから、密やかな声が聞こえてくる。
「部分的にはあの人の言う通りだわ。本当、あなたって馬鹿よ」
「……っ」
「呆れてしまうくらい馬鹿正直よね。いつもいつもそう。腹立つし、いらいらするったらない」
 いきなりの罵倒に二の句が継げない。呆気にとられて怒る気にすらなれなかった。
 そんなシュマに、一瞬だけトエが微笑んだような気がする。
「……でも、そんな馬鹿っぷり見てたら、妙な意地はってるのもいじけてるのもくだらなくなったわ」
 夜風に紛れそうな一際小さな声が聞こえる。シュマがはっとした次の瞬間、トエは声を張り上げた。
「だからはっきり言わせてもらうわ。腹立つのはあなたたちもよ! それに、シュマなんかよりあなたたちの方がずっと馬鹿よ!」
 率直すぎるトエの台詞に、さすがに「あぁ?」とトイルの声が棘を帯びる。
「自己満足自己満足って勝手に決めつけてくれて、腹立つったらないわ。勝手に決めつけて満足してるのはそっちの方じゃないの!」
 シュマはもうトエを止めることも忘れて、どこか新鮮な思いで、頬を蒸気させたままの少女を見つめていた。
 その様子は、民たちの前で堂々と教えを説いた彼女とも、巫女殿で冷たくシュマを追い出した彼女とも違っていた。両手を握りしめる彼女から感じるのは、かつてなく激しい感情の発露。そして意志の強さ。
「神話がなくなったから何? 何が変わるの? この籠の存在と、私たちの存在は変わらないじゃない。それに生きる意味ですって? それは誰かに与えられなきゃならないようなものなの? ましてやどうしてあなたたちに与えられなきゃいけないの?」
 トエがすっと息を吸い込んだ。
「……私、嘘だらけのこの籠なんて嫌いだと思ってたの。次期姉巫女として全てを知って、心底くだらないって思ってた。――でも、今思えば籠のみんなのことはちゃんと好きだったんだわ。メルゥのことが好きで、シュマやユエンのことだって。他にも父さんや母さんやティナや、もう数え切れないぐらい。私はみんなが好きよ――シュマと同じだわ」
 シュマと同じ、その言葉にはっとする。
「神話が消えても籠はなくならないし、私が好きなみんなだってちゃんとここにいる。それなのに、どうして生きる意味だけなくなるの?」
 トエの声はどこまでも真っ直ぐにトイルへと届く。
「馬鹿にしないで! 籠は確かに嘘ばかりだった。でも私たちは確かに生きていたの! そしてこれからも生きていくの! その事実がある限り、希望なんて……私たち自身で作り出せるの!!」
 トエはトイルをきっと見据えている。その瞳に宿る強い光に促されるように、シュマはおもむろにトエから視線を外してトイルを見つめ直した。
 そして、トエが再び声を張り上げる。
「シュマだけじゃない。私たちは、二人であなたたちの前に立つわ!」
 それは力強く草原を揺らし、シュマの胸を打つ。そして思う。きっとこれが、本当の彼女の強さだったんだと。泣いてばかりいた幼い姿とも、教えに忠実な巫女の姿とも違う、本当のトエ。
 気付けばトエの手がシュマの左手にそっと触れていた。それをシュマは、力強く握り返すのだった。
「トイル! 偽りの希望も与えられる希望ももういらない! 俺たちは、俺たち自身で生きていくんだ!!」