七章-下(8)

 その思いは、元々民たちの中で眠っていたのか、それともシュマとトエの言葉が何らかの種を落としたのか――それはもう、今となってはよくわからない。けれど、その時その瞬間、シュマたちの思いが何かを動かし同じ思いを抱いてくれた人がいた。それは、確かなことなのだと信じたい。
 だからこそ――その声が上がったのだと思うから。
「――二人だけじゃないぞ! 俺たちだって支配なんてごめんだ!」
 聞こえた言葉はシュマの後ろから――遠巻きに見守っていた民たちの中から。
 息をのんでシュマはゆっくりと背後を振り返る。そこにあったのは、シュマたちの方をじっと見つめている民たちの姿。
「そうだ! そんな希望なんていらない!」
「俺たちは生きてる! 仲間だって家族だって、生きてるじゃないか!」
「あたしたちの希望はあたしたち自身でつくるのよ!」
 皆が顔を上げ始めていた。そこにはまだ恐怖と絶望は残っている。けれどその瞳に宿る光は、もう空っぽなどではなかった。
 信じるものを得た強い光が、輪となって人々の間を広がっていく。声が、言葉が、次々と繋がっていく。
「守りたいものがある! 守りたい人がいるんだ!」
「それこそが新たな希望よ!」
「支配なんかよりずっとずっと素敵な希望さ!」
 「みんな……」とシュマはこみ上げてくるものを抑えながらつぶやいた。何て美しいのだろうと思う。人々が光を取り戻していくその様は、まるでつぼみが花開くような綺麗さだった。
 そう思ったのは籠の民たちだけではなかったのかもしれない。トイルの仲間たちも、いつの間にか刀を収め、どうしていいかわからない様子で立ち尽くしている。彼らのうちの誰にも、もう敵意は見られなかった。
 だがその中で、たった一人苦々しく顔を歪める男がいたのだ。
「ちっ、何なんだ! わかってんのか!? てめぇらの言う『希望』は何の根拠もない不確かなもんなんだぜ!? 俺たちの支配こそ真の希望だ!」
「トイル!」
 唐突に飛び込んできた激しい言葉に、シュマは名を呼んできびすを返す。目を向けた先で、トイルは色濃い憎悪をたたえた瞳でシュマをにらみ付けていた。
 その後ろでリシェンが無感情の目を伏せる。シュマは一歩前に踏み出していた。
「トイル、違う! 支配なんて駄目だ。そうじゃなくて、籠の民も外の民も、皆で力を合わせて守っていけばいい。そうすれば大国にだってきっと……!」
「黙れ黙れ黙れ! 何が守りたいだ! そんなちっぽけな思い一つで何ができる! それの何が希望だっ!」
 ひどく取り乱した様子は、今までシュマが見てきたどのトイルとも違っていた。憎悪の色とともに、信じられないことに怯えのようなものさえ見て取れる。
 とても芝居には見えなかった。思わずシュマが、今は敵同士だということも一瞬忘れて彼の方へと歩き出しかけたその時、
「くっそぉ! 何もかもぶち壊しやがって! お前のせいだぞ、ざけんじゃねぇシュマぁぁぁっ!!」
「……!」
 空気が揺れる。気付いた時にはもう遅かった。突然トイルが刀を振りかざし、シュマに向かって突っ込んでくるのが視界に入る。
 リシェンの制止は間に合っていない。そしてとっくに構えを解いていたシュマは反応できなかった。とっさにすぐ横のトエを突き飛ばした時には既に目と鼻の先に刃の切っ先があって、なす術もないシュマの前でそれは、

「――伏せろ、シュマっ!!」

 ――突然飛び込んできた誰かの声。伏せろと言われるまま、ほとんど無意識にシュマは頭を下げていた。その頭上で聞こえた鋭く空気が切り裂かれる音。瞬間、小気味良い音とともにトイルの刀は中を舞い、同時にトイルが後ろにはね飛ばされる。
「何で、何でお前がっ!」
 地に手をついたトイルが目をむいて怒鳴る。助けられたシュマも驚きのあまりぽかんと口を開けて、隣に立つ栗色の髪の男を見つめてしまった。
 当の本人はというと、軽いため息とともに手にしていた長刀を鞘に収め、そしてゆっくりとシュマを振り返る。そのいつもと同じ穏やかな笑顔を前に、シュマは再び瞠目した。
 信じられない、どうして彼が――エサンが、ここにいる?
「エサン、お前どうして……」
「何とか間に合ったな。遅くなってすまない、シュマ」
 数刻前、素気なく背を向けた青年は、今度は正面からシュマに笑いかけているのだった。
「あれからエシュナに叱られてな……いつまでもうじうじやってるんじゃない、この弱虫馬鹿兄貴! ってさ」
 エサンの苦笑を、シュマは呆気にとられたまま仰ぎ見た。
「本当にそうだ。何もできないなんてそんなわけなにのに、いつしか全部諦めるようになっていて――俺、馬鹿だったな。シュマとエシュナのおかげで、ようやく気付いた」
 やや目を伏せたその様子は、後悔のようにも詫びているにも見える。その瞳の中にはまだ諦観の色が残っていたが、同時に別の光も存在しているように思った。
「希望、か。単純だけど、何よりも強い。久しく忘れていたよ、そんな言葉」
 独り言のようにつぶやいた直後、ふいにエサンの表情が毅然としたものに変わる。そして地面に座り込んだままのトイルに刀を突きつけたその姿は、紛れもなく立派な長のものだった。
「トイル、お前がしたことは許されないことだ」
 沈黙の場に、エサンの厳しい声が降る。
 シュマの横には、いつの間にかトエが戻ってきていた。小声で「大丈夫?」と聞かれてうなずく。「突き飛ばして悪い」と詫びるとふっと笑みが返ってきた。
「シュマの望みを手助けをし、籠を救う。お前が掲げた当初の目的はそれだったはずだ。だがお前は真の目的を偽り、あまつさえ籠を支配するなどという誠勝手な行動に及んだ。この罪は重い」
 恐らく、エサンは一人で来たわけではないだろう。何人か他の者も連れてきているはずだ。なら、これできっとトイルたちは取り押さえられる。――でも、果たしてそれで全部解決したのかと、そんな声がシュマの中で木霊している。
 先ほど見せた怯えのような感情。トイルお前は、いったい何を考えていた――?
「お前の企みはここまでだ。これ以上の勝手は長として俺が許さない。お前には村に戻り、それ相応の処分を受けてもらう。……わかったか、トイル?」
「……っ」
 エサンに問われ、うつむいたトイルが何かをぼそりとつぶやく。何を言ったのかシュマにはわからなかったが、エサンもそうだったようで、「わかったのか?」と念を押す声がする。
 だがその時、問いに答える代わりにトイルは――突然がばっと上を向いたのだ。
「まずい、シュマ!」
 勘づいたエサンが怒鳴り、トイルを取り押さえようと手を伸ばす。シュマもそれに倣ったが、トイルの動きはその場の誰よりも速かった。跳ね上がるような勢いで体を起こし、エサンの手をすり抜ける。駆け寄ろうとしていたシュマの横をも猛然と通り抜け、先ほどエサンにはね飛ばされた刀を引っつかむのが見えた。そしてそのまま、誰もいない方角へと草原を走り去って行く。
「トイル!」
 シュマは叫んで、そのまま後を追おうと足に力を込めた。
 しかし走りだそうとした直前、「シュマ、待て」と呼び止めるエサンの声がかかる。振り返った先で彼は難しい顔でこちらを見ていた。
「追いかけるつもりか、シュマ? その必要はないと俺は思うが」
「けど……」
 とっさに続きが出てこずに口ごもる。追いかけなくていい――恐らくそれは正論だ。仲間たちの心は既にトイルから離れている。そんなトイル一人を追うよりも、今はしなければならないことは山のようにある。
 けれどシュマはどうしても、トイルの行ってしまった方角から目が離せなかった。思い返すのは何もかもを拒絶するような冷たい背中と、歪められた瞳の奥でちらつく何かの感情。
 ああそうか、シュマは――、
「トイルのことが心配なんだ……純粋に、あいつ自身のことが」
 そう言い放った直後、エサンの栗色の目がすっと細められる。心なしか諦観の色が戻ってきていて、まるで数刻前の繰り返しのような光景にどきりとした。
 けれど、
「……ったく。お前は本当にお人好しだな」
 返ってきたのはあの時のような否定の言葉ではなかった。つぶやきとともにエサンが右手を上下する。瞬間、鞘に入った長刀が放られてきて、シュマは取り落としそうになりながら慌てて受け止めた。
 意外な思いで見つめ返した先で、エサンは少し呆れたように笑っている。
「お前短刀しか持ってなかったよな。俺の刀貸してやる――わかったよ、好きにしろ」
 消えきれずにいる諦めと、それでも新たに宿る確固とした光。その確かな変化を、シュマはじっと見つめていた。
「エサン」
「わかってると思うけど、明らかにトイルの方が強いぞ。でも、何だかお前なら何とかしてくれそうな気がするよ。それに、恐らく一人でもないし……まあこれは、俺が言うべきことじゃないか」
 含みのあるその台詞は、よくシュマに真意をつかませない。思わず首を傾げると、エサンはまた優しく微笑みかけてくる。
「ともかく、行け! この場は俺たちに任せろ」
 以前と笑い方は変わらないはずだ。それなのに、シュマの目には前よりずっと力強く映る。
 そんなエサンの微笑みに後押しされて、シュマはこくりとうなずいた。そして、まだ不安そうな顔をしているトエに、「民たちのこと、頼む」と告げる。
「大丈夫。こいつは、エサンは信用できるから」
 そう続けるとトエの顔に一瞬迷いが浮かんだが、彼女はすぐに「わかったわ」と強い目でシュマを見返してきた。
 その視線に勇気づけられる気もしながら、シュマはきびすを返す。そしてトイルの消えた暗い草原へと、夢中で駆けだしていったのだ。