七章-下(9)

「トイル、待ってくれっ!」
 柔らかい草の地面を踏みつけてただただ走る。顔に受ける風が寒かったけれど、でも体の芯は熱くて仕方なかった。
 全速力で走れば、シュマの方が足は速かった。暗い風景に溶け込みそうな黒髪長髪の姿は、次第に微かな点として現れ、少しずつ少しずつ近づいてくる。――今はもう、前を走るトイルの足音さえも耳に届く。
「トイルっ!」
 もう少し、もう少しで追いつける。そうしてシュマは目前の冷え冷えとした背中に手を伸ばす――、

 ザンッ。

 その瞬間、目の前を銀の閃光が横切った。足を止め、反射的に引っ込めた指先に、遅れて鈍い痛みがやってくる。
「……それ以上、近づいてんじゃねェ。今度は殺す」
 振り返ったトイルの左手には、抜き身の刀が握られていた。その瞳からは今まで見たことがないくらいに、暗く、底知れぬ深淵がのぞく。
「待ってくれ、俺は」
「黙れ! これ以上俺の前でくだらない希望を語ってんじゃねぇ! そんなもので何ができる――人の思いなんかで、世界は何も変わらない!」
 その言葉にはっとした。
「トイル、お前」
「思いなんてなぁ、小さすぎて何の力もねェんだよ! そんなものじゃ人は動かねぇ、支配して縛り付けて命令して、それでやっと人は動く! 籠の神話だってそうだっただろ!? 神話で縛り付けてやっと、籠の民たちは生きていけたんじゃねェか!」
 トイルの言葉はシュマの胸にずん、と響く。胸が痛い。ようやくわかった、これは悲しみだ。深く深く焼き付いて離れない、トイルの悲しみ。
「力が全てなんだ。力で押さえつけてようやく人を動かせる。それでやっと新たな力を手に入れられる。それだけが世界を変えていける! だから外の世界は、争いで満ちたんじゃねぇのかよ!」
 彼はずっと泣いていたのだ。自分たちには何もできないと、何も変えられないと。全てを、巧みな演技の下に覆い隠して。
 エサンと似てる。でも決して同じではない。
「そんなことない!」
 トイルの感情の奔流を感じながらも、シュマは毅然と言い放った。
「そんなのは違う! お前が思ってるより人はずっとずっと強い。押さえつけたりしなくても、自ら希望を信じて生きていける!」
「馬鹿な、そんなんで何が変わる!? 信じたら何かできるのか。思いで何か変えられるのか!!」
「変えられるって、俺は信じてる……っ!」
 今度こそシュマは迷いなく言い切った。変えられる。誰がなんと言おうと、シュマは信じている。
 だって、今までシュマがやってきたのは、自分の思いをぶつけることだけだ。やってきたのも、シュマにできるのもそれだけだ。足が速くて手先は割と器用、でもそれ以外に何か特別な力があるわけじゃない、そんなシュマにできるのはシュマがシュマとして自分の思いを貫くことだけだ。いつだって、シュマはそうしてきたのだ。
 それが悲しい結末を招いたことだってある。トエとは一度諍いを起こして、もう二度とわかり合えないものと覚悟した。でも、それでも最後にシュマの声は彼女に届いた。必死に放った声に籠の民たちは応じてくれた。エサンの閉じた心に、シュマの思いは伝わった。
「変えられる! きっと! 人はそんな、つまらない存在なんかじゃない!」
 メルゥは遠くへ逝ってしまってもう届かない――でも彼女は、奇跡のようにシュマの命を救ってくれた。
 ユエンにもまた、シュマの思いは届いたのだと信じている。シュマがユエンを親友だと信じて生きて欲しいと願ったように、ユエンはシュマを助けてくれた――それが正しかったか間違っていたかなんてシュマにはわからない。けれど今はただただ、感謝している。
「ふざけんじゃねェ、そんなものは無意味だ……!」
 トイルが怒鳴る。彼の瞳は変わらず暗いままで、その身を覆う闇は深すぎる。
 自分の言葉なんかじゃ、その厚い闇を越えることも、彼の悲しみには届くこともできないのだろうか。そうシュマはぎゅっと両手を握りしめたものの、トイルを見据えて再び口を開きかける。
 背後で誰かの足音と息づかいが聞こえたのは、その時だった。

「――そうでもねーぜ。それがわかんねーあんたは、やっぱり馬鹿なんだろうさ」

 ……誰かに似た声だ。とっさにそう思った。でもそれが誰かは、頭の片隅に引っかかって出てこない。喉もとまで出てかかっている誰かの名前も、一向に言葉にならない。自分はどうかしてしまったんじゃないだろうか、そう思えるほどに頭は真っ白で、体はまるで麻痺してしまったようで。
 ひょっとしてただの空耳だったんじゃないか。だって、そんなことがありえるはずが――、

 くぅ。

 動けずにいるところで、ふいに足下から鳴き声がした。同時に柔らかな感触が足に当たる。恐る恐る見下ろすと、そこには体をすり寄せてくる銀の獣の姿があった。
「……ニィ……!」
 目を見開いて、ようやくそれだけが言葉になる。ニィは青い宝石の目でシュマをじっと見つめた後、もう一度だけくぅと鳴いてシュマの視界から消えた。それから背後でするニィの小刻みの足音と、それともう一つ、他の誰かの足音と。
 トイルもシュマの背後に視線を向けてうろんげにまゆをひそめている――やはり後ろに誰かいるのだ。それも、
「なーに固まってんだよ、人がしゃべってんのに無反応はねーだろ……シュマさんよ」
 やや乱暴で無造作な口調。そのあまりに懐かしい響き。
 そこでようやく、シュマは震える足先を後ろに向けた。
「ユエン……嘘だ……」
 台詞は、口元からこぼれ落ちるように。
 本気で夢でも見ているのではないかと思った。だってこんなことが、こんなことが、ありえるだろうか。
「お前驚きすぎ。つーか知らなかったのか?」
 振り向いた先で、青髪の少年は呆れたように笑っている。その隣で、行儀良く座ったニィがどこか誇らしげに尾を振っていた。
「知らない……! 知るわけないだろ……!」
「なんだ、あのエサンとかいう兄ちゃん、お前に言ってなかったのかよ。優男のナリして案外性格悪いのな」
 困ったようにユエンは片手で頭をかく。そしてまた悪戯っぽく笑った。
「まあ、俺はこの通りだ。偽物でも何でもねーからそんなに驚くなっ――と」
 話していたユエンの声が、突然中途半端なところで途切れる。と思ったその直後、突風とともにシュマの真横を青色が駆け抜けていった。
 そして背後で鋭く鳴り響く金属同士のぶつかる音。はっとしたシュマが慌てて振り向いた先に、トイルとユエンの組み合った姿があった。
 シュマの背中を狙ったらしいトイルは、ユエンに阻まれて「ちっ」と舌打ちをつく。
「おらおら、やり合ってる最中によそ見してんじゃねーよ馬鹿シュマ。やっぱてめーは間抜けだな、頼りなくておちおち死んでられねーよ」
「……っ」
 そのからかい台詞すらシュマはまだ信じられない。怒ることも今のシュマにはできなかった。
 そんなシュマにまたユエンは笑ったようだった。それから彼はトイルの刀を受けたまま口を開く。
「なあ長髪の兄ちゃん、こいつ馬鹿だろ? あんたがいらいらしてんのもすげーわかんだけどよ、でもやっぱあんた何もわかってねえと思うぜ」
「……ちっ、誰なんだよてめぇは!」
「まーそう言わずに聞いとけって。……言うの恥ずかしいけどよ、これでも俺は一応こいつを親友と認めてんだ。なんつーか、こいつが馬鹿すぎて認めざるをえなくなったというか」
 馬鹿にしているのか褒めているのか。けれど、そんな言葉さえもシュマの胸には染み渡っていく。
 がん、と金属音が再び鳴り渡った。ユエンがトイルの刀を押したのだ。ユエンとトイル、双方が前後に弾かれて離れる。着地した先で、ユエンが刀を構え直す。
「そういうわけだ。少なくとも、俺はこいつの思いに変えられたぜ? エサンもトエも民たちも……そうなんじゃねーのかよ。それでも何もできないと思うなんて、てめーの目は腐ってんのか
 なあシュマ――俺はこれでも、お前に感謝してんだぜ」
 トイルに向けられた言葉の終わりに、ぼそりと付け加えられた小さな一言。でもそれは確かにシュマまで届き、シュマははっと息をのむ。
「あぁくそ! 何なんだてめェら! うぜぇんだよ!!」
 いい加減堪忍袋の緒が切れたらしいトイルの手の中で、長刀が青白い光をはね返す。風を斬る音を鳴らせてその刀が振り上げられる。一瞬だけユエンがシュマを振り返る。
「シュマっ! 刀構えろ!!」 
 鋭く飛んできたユエンの声は、ようやく確かな響きをともなってシュマの鼓膜を揺らした。目の前にあるのは、幻でもなんでもない、紛れもない親友の姿だった。
 直後、それに応じるようにシュマの体は勝手に動いた。
 柄を握りしめてユエンの横に夢中で飛び込んでいく。向かってくるトイルに刀を突き出したのは、多分ユエンと二人同時だった。